患難期前携挙説の根拠(5)いつでも起こる可能性がある(Imminency)

終末論

MEMO
この記事は、患難期前携挙説の根拠を解説するシリーズの第5回目です。この記事で使われている携挙、患難期前携挙説などの用語の意味については、Q&A記事「携挙とは何ですか?」をご覧ください。

携挙はいつでも起こる可能性がある

患難期前携挙説の5つ目の根拠は、キリストの再臨はいつでも起こる可能性があると語っている聖句の存在です。「いつでも起こる可能性がある」ことを英語では「Imminent」と言い、これを名詞形にして「Imminencyの教理」と呼ぶことがあります。

携挙が「いつでも起こる可能性がある」とは、携挙が起こるための前提条件がない、ということでもあります。一方、キリストの地上再臨には前提条件があります。この点が、携挙と地上再臨の大きな違いです。

黙示録によると、地上再臨は患難期の最後に起こりますので、まず患難期が始まっている必要があります。患難期が始まるには、反キリストとイスラエルが7年間の契約を結ぶ必要があります(ダニエル9:27)。また、そのためには反キリストが登場している必要があります(2テサロニケ2:1~3)。そのほかにも、地上再臨が起こる前にさまざまな預言が成就している必要があります。

  • エルサレムの神殿が再建され、いけにえが奉納されている(ダニエル9:27)
  • 反キリストが患難時代の中間期に神殿で自分は神だと宣言する(ダニエル11:36~37)
  • 世界中の国の軍隊がイスラエルとの戦争のためにメギドの丘(ハルマゲドン)に終結する(黙示録16:16)

キリストの地上再臨には前提条件があるので、前提条件がない(いつでも起こる可能性がある)キリストの再臨について語っている聖句があれば、その聖句が地上再臨について語っているのではないことは明らかです。その場合は、いつでも起こる可能性がある携挙(空中再臨)について語っています。

以下では、そのような「いつでも起こる可能性がある」キリストの再臨について語っている聖句を見ていきます。

キリストの再臨がいつでも起こる可能性があることを教えている聖句

リバティ大学のウェイン・ブリンドル教授は、いつでも起こる可能性があるキリストの再臨(携挙)について語っている聖句と、7年間の患難期の最後に起こる再臨(地上再臨)について語っている聖句を見分ける基準について、以下のように語っています。

基準は4つ挙げることができる。以下のいずれの聖句も、いつでも起こる可能性がある再臨について語っている。
(1)キリストの再臨はいつでも起こると語っている。
(2)キリストの再臨は「近い」と語っているが、その前に必要なしるしを述べていない。
(3)キリストの再臨は、信者に希望と励ましを与えるものとして語っているが、その信者が患難に遭うとは言っていない。
(4)キリストの再臨は、不信者に対する神の裁きとは関係なく、希望を与えるものとして語っている。1

Four criteria may be suggested, any one of which indicates imminence:
(1) The passage speaks of Christ’s return as at any moment.
(2) The passage speaks of Christ’s return as ‘near,’ without stating any signs that must precede His coming.
(3) The passage speaks of Christ’s return as something that gives believers hope and encouragement, without indicating that these believers will suffer tribulation.
(4) The passage speaks of Christ’s return as giving hope without relating it to God’s judgment of unbelievers.

ブリンドル教授によると、上記の4つの基準のいずれかに当てはまる聖句は、いつでも起こる可能性がある再臨(携挙)について語っている聖句になります。この4つの基準は、大患難時代の最後にある地上再臨とは違う再臨(空中再臨)を語っている聖句を見分けるポイントになります。

いつでも起こる可能性がある再臨について語っている聖句

それでは、いつでも起こる可能性がある再臨について語っている聖句を具体的に見ていきましょう。

ヤコブ5:7~9

7 こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。 8 あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。 9  兄弟たち。さばかれることがないように、互いに文句を言い合うのはやめなさい。見なさい。さばきを行う方が戸口のところに立っておられます。 

ここでは、「主の来られるのが近い」と言われているのに加えて、主が「戸口のところに立っている」と語られており、すぐにでも主が来られる可能性があることを示唆しています。また、主が来られるためのしるしや前提条件については何も語られていません。

MEMO
9節の「さばき」は、文脈から、キリストが地上再臨する時の不信者へのさばきではなく、信者の行いに応じて報奨が与えられる「キリストの座のさばき」(2コリント5:10)です。

黙示録22:20

これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

黙示録の最後の言葉となる上記の聖句では、「わたし(主)はすぐに来る」と語られています。この黙示録では、言うまでもありませんが、7年間の患難期が詳しく預言されています。それでも、黙示録の最後に「わたし(主)はすぐに来る」と言われているということは、携挙は大患難の預言が成就するかどうかに関係なく実現するということです。この聖句も、携挙はいつでも起こる可能性があること(Imminency)を示唆しています。

パウロは自分が生きている間に携挙があるかもしれないと考えていた

パウロの書簡を読むと、パウロは携挙のことを遠い将来に一定の終末預言が成就した後で実現するものとしてではなく、自分が生きている間にも実現する可能性があるものとして考えていたことがわかります。

1テサロニケ4:15

私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。

パウロはここで「私たち」と言うことで、自分が生きている時代にも主が再臨(来臨)される可能性を示唆しています。前提条件については何も語られていません。

1コリント15:51~52

51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。 52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。 

ここに出てくる「眠る」という言葉は聖書の用語で、信者の死を意味します(1コリント15:6)。ここでパウロは、自分を含め、当時生きていたクリスチャンが死ぬ前に、携挙があって栄光の体を与えられる(「変えられる」)可能性があると考えていたことがわかります。

以上の聖句から、パウロは初代教会の当時から携挙が起こる可能性があり、携挙はいつでも起きる可能性があると考えていたことがわかります。携挙の前に大患難時代が来る必要があるといった前提条件については、パウロは何も語っていません。それとは逆に、パウロの書簡には、パウロは患難期が始まる前に携挙があると教えていたことがうかがえる記述があります。

テサロニケ教会の人々の反応は、患難期前携挙説を間接的に裏付けている

2テサロニケ2:1~3で、パウロは次のように語っています。

1  さて兄弟たち。私たちの主イエス・キリストの来臨と、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いします。  2  霊によってであれ、ことばによってであれ、私たちから出たかのような手紙によってであれ、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いても、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。  3  どんな手段によっても、だれにもだまされてはいけません。まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。 

1節の「主イエス・キリストの来臨と、私たちが主のみもとに集められること」とは、この前に送られている「テサロニケ人への手紙第一」の流れから考えて、1テサロニケ4:13~18に記されている携挙のことだと考えることができます。そして、この「テサロニケ人への手紙第二」では、そのような携挙の教理を教えられたテサロニケ人が、「主の日」が来たと言われるのを聞いて動揺していることが言及されています。「主の日」とは、大患難時代を指す聖書の一般的な用語です。つまり、大患難時代が始まったと考えてうろたえているのです。

MEMO
ティム・ラヘイのベストセラー小説『レフト・ビハインド』シリーズには、携挙で取り残された人々が大患難時代を生きる様子が描かれていますが、テサロニケのクリスチャンも、自分たちが取り残された(left behind)と思っていた可能性があります。

もしテサロニケのクリスチャンが、患難期中携挙説や患難期後携挙説を教えられていたのであれば、大患難時代が始まったことで「キリストの再臨が近付いた」と考えて身を引き締めるのではないでしょうか。大患難時代が始まったと聞いてテサロニケの教会に動揺が走ったのは、大患難時代の前にクリスチャンは携挙で天に上げられると信じていたから、つまり患難期前携挙説に立っていたからと考えるのが自然ではないでしょうか。携挙は前提条件なく、いつ始まってもおかしくないと信じていたので、患難期が始まる前に起こるはずの携挙がなかったのでうろたえていた、と考えると説明がつきます。

そのようなテサロニケのクリスチャンに対し、パウロは3節で「だれにもだまされてはいけません。まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです」とたしなめています。つまり、患難期が始まる前に背教が起き、反キリストが出現するという前提条件があるのだから、まだ患難期は始まっていない。そのため、動揺する必要はないとここで諭しているのです。

結論

以上、携挙はいつでも起こる可能性がある(Imminent)ことを教える聖句を見てきました。これらの聖句からわかることは、Imminencyの教理に矛盾せずに携挙を説明できるのは患難期前携挙説しかない、ということです。患難期中携挙説と患難期後携挙説は、携挙が起こる前に患難期が始まっている必要があるという前提条件があり、前提条件のない(いつでも起こる可能性がある)再臨を語っている聖句の存在を説明できないためです。

参考資料

  1. Wayne Brindle, “Biblical Evidence for the Imminence of the Rapture,” Bibliotheca Sacra 158, no. 630 (April-June 2001): 138-51.

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