携挙は「現実逃避」か?

終末論

携挙とは

携挙とは、終末時代にクリスチャンが生きたまま上げられて空中でキリストと出会い、栄光の体を与えられ、キリストと共に天に凱旋するという教理です。携挙の根拠となる聖書箇所には、1テサロニケ4:13~18や1コリント15:50~58などがあります。

この携挙をめぐってはキリスト教会では昔から論争が続いており、近年はその論争が激しくなっている感があります。特に、ハーベスト・ウォッチで取り上げている新使徒運動(NAR)は、携挙を激しく否定する指導者が多いことで知られています。

携挙のタイミングをめぐる3つの説

携挙の教理は、携挙が起こるタイミングを基準に、主に次の3つの説に分かれます。

  • 患難期前携挙説(Pre-Tribulationism)
  • 患難期中携挙説(Mid-Tribulationism)
  • 患難期後携挙説(Post-Tribulationism)

上記3つの説は、キリストが再臨する直前の7年間の患難期(大患難時代)を基準に、携挙が患難期の前に来ると主張するのが患難期前携挙説、後に来ると主張するのが患難期後携挙説、患難期の中間期に来ると主張するのが患難期中携挙説です。

図1:携挙のタイミングに関する3つの説
携挙の図解

出典:Laomark氏の作品をアレンジして日本語化(ライセンス:CC BY-SA 3.0

携挙の教えに対する攻撃

先ほど述べたように、新使徒運動(NAR)の指導者は携挙を否定するが、ただ否定するだけでなく、敵意をむき出しにして「攻撃」することが多々あります。その好例が、モーニングスター・ミニストリーズの「預言者」リック・ジョイナーです。

携挙の教理は、実に効果的な敵の策略であって、教会に現実逃避の精神を植え付けるものである。このくびきは先進的な教会の大部分ではすでに捨てられており、すべての教会が捨て去る日も近い。1

The doctrine of the Rapture was a great and effective ruse of the enemy to implant in the Church a retreat mentality … already this yoke has been cast off by the majority in the advancing church, and it will soon be cast off by all.

ここで「先進的な教会」とはNARの教会を指していると思われ、NARの教会の大部分が携挙を否定していることをNARの指導者みずからが認める格好になっています。

いわゆる「トロント・ブレッシング」で有名になったトロント・エアポート・クリスチャンフェローシップのジョン・アーノットも、次のように語り、携挙の教理を否定しています。

みなさんに言うが、少しばかりのレムナント(残れる者)が、反キリストか何かに絶滅させられる前にこの惑星から救い出されるという終わり方はしない。教会は、栄光の内にあって出て行く。それは、神がそのように定められたからだ。私たちは勝利者となるのだ!2

I’m telling you, this is not going to end with a tiny remnant getting rescued off the planet before they get exterminated by the Antichrist or something. The church is going out in glory, because God the Father has purposed it! And we’re going to be victorious!

NARの指導者が攻撃するのは「患難期前携挙説」

上記のようなNARの指導者が否定しようとしているのは「患難期前携挙説」です。

患難期後携挙説は、携挙と再臨はほぼ同時に起こると教え、再臨と携挙を同じものと考えます。NARの指導者はキリストの再臨自体を否定しているわけではないので、基本的に患難期後携挙説が攻撃対象となることはありません。

MEMO
ただし、後の雨運動の「Manifest Sons of God」(顕現した神の子どもたち)という教理を受け継ぐNARの指導者の中には、(表だって主張することは少ないのですが)キリストの再臨を実質的に否定している人々がいます。「使徒と預言者によって導かれたクリスチャンは、キリストのような奇跡を行う神の軍隊となり、終わりの時に地上で生きたまま復活の体を与えられる。キリストの再臨とは、文字どおりキリストが地上に戻ってこられることではなく、そのような栄光の体をもった『キリストのからだ(教会)』が地上に出現することである」と教えているためです。この教えの詳細については「後の雨運動(2)Manifest Sons of God」の記事をご参照ください。

また、患難期中携挙説も、NAR指導者が槍玉に挙げる対象ではありません。携挙が否定されるのは、次のような理由であることが多いためです。

  • クリスチャンだけが大患難時代を通らずに天に上げられるというのは都合がよすぎる。
  • もし携挙が起こらずに大患難時代を通過することになれば、携挙を信じていた信者は患難期に入ると信仰を失ってしまう。

上記のような理由で、携挙が起こる前に患難期に入ると教える患難期中携挙説が批判の的になることは基本的にありません。

以上見たように、NARなどの携挙否定論者が批判の対象にするのは患難期前携挙説ですので、以下では「携挙」という言葉を患難期前携挙説で言うところの意味で使用し、患難期前携挙説を中心に論じることにします。

劣勢に追い込まれる「患難期前携挙説」

患難期前携挙説を否定するのはNARの指導者だけではありません。キリスト教の護教論(Apologetics)で有名なバイオラ大学タルボット神学校教授のウィリアム・レーン・クレイグ(William Lane Craig)や、「今日の英語圏で最も影響力のある説教者12人」の一人に選ばれたこともあるジョン・パイパー(John Piper)といった福音派の著名な神学者、牧師も、患難期後携挙説に立ち、患難期前の携挙を否定しています。

こうした携挙の教えに否定的な風潮を受けて、従来は患難期前携挙説が支配的であった米国の福音派の中でも、この教理から距離を置く教団、教派が出てきています。米国福音自由教会(Evangelical Free Church of America)もその一つで、患難期前携挙説は現在「福音派信者の中で明らかに少数派の立場であり」、教会間で「必ずしも必要でないもの(Non-essentials)」にこだわるのはよくないとし、これまで教団が掲げていた患難期前携挙説を信仰告白から削除する決定を下しました。3

このように見ると、患難期前携挙説は劣勢に追い込まれつつあり、患難期前携挙説にこだわって教会の分裂を招くようなことをする必要はないのではないかと思えてきます。しかし、実際のところ、聖書は何と語っているのでしょうか。携挙は、はたしてリック・ジョイナーやジョン・アーノットの言うように根拠のない「現実逃避」であって、サイエンスフィクションのような教えなのでしょうか。米国福音自由教会が言うように、「必ずしも必要でないもの」であって、この教理にこだわるのはよくないことなのでしょうか。

以上の疑問に対して、患難期前携挙説に立つ者として、聖書から次の2点を指摘したいと思います。

(1)信者の携挙は聖書に何度も記録されている

「クリスチャンが生きたまま上げられて栄光の体を与えられる」と言うとSFじみた教えのように聞こえるかもしれませんが、聖書を読むと携挙の前例と呼べる記述がいくつも見つかります。

まずエノクの例があります。創世記5:24では、エノクについて次のように言われています。

24 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。

エノクは生きたまま天に上げられ、地上からいなくなりました。エノクは死を体験せずに天に上げられた最初の人です。

また、エリヤについても、2列王記2:11で次のように言われています。

11 こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、火の戦車と火の馬が現れ、この二人の間を分け隔て、エリヤは竜巻に乗って天へ上って行った。

エリヤも、弟子のエリシャの目の前で、生きたまま天に上げられました。

新約聖書でも、イエスは復活の体でオリーブ山から天に昇ったと言われており(使徒1:9)、黙示録では、二人の証人が復活後、天に上げられると預言されています(黙示録11:12)。

このように見ていくと、携挙のような現象は聖書に何度も記されているもので、人間の常識からすると現実離れしているように思えても、聖書の常識には反していないことがわかります。

(2)携挙は信者にとって重要な教えである

では、携挙の教えは「必ずしも必要でないもの」という考え方についてはどうでしょうか。この点についても、聖書を読むとそうとは言えないことがわかります。携挙の教えの重要性について、以下の3つのことを指摘することができます。

1)パウロは信者になって間もない人に携挙を教えている

冒頭で、携挙の根拠となる代表的な聖句の一つは1テサロニケ4:13~18であると述べましたが、この手紙の宛先であるテサロニケの教会は、この手紙が書かれる時点(AD 51年頃)ではまだ誕生して間もない教会でした。

さらに、使徒17:1~10を読むと、パウロはテサロニケではごく短期間しか宣教できなかったことがわかります(使徒17:2)。それでも、パウロはテサロニケ人への手紙で携挙を論じており、テサロニケの信者が最初の宣教時から携挙を教えられ(1テサロニケ1:10)、携挙のタイミングや患難期についてもある程度の知識があったことがわかります(1テサロニケ5:1~2)。

2)携挙が回心や復活と同じ文脈で語られている

パウロは1テサロニケ1:10で、テサロニケの信者が「御子が天から来られるのを待ち望むようになった」と語り、携挙について触れている。この聖句は、テサロニケ人の回心に関する記述の中で語られています(1テサロニケ1:9~10)。

9 …私たちがどのようにあなたがたに受け入れてもらったか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、 10 御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを、知らせているのです。この御子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスです。

この箇所を見ると、キリスト教信仰の基本となる回心や復活の教えと同列で携挙の教えが語られていることがわかります。さらにパウロは、「やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださる」と語り、患難期から信者が救われることも示唆しています。

3)携挙が聖化と同じ文脈で語られている

また、携挙の教理の主要聖句となっている1テサロニケ4:13~17も、聖化(信者の霊的成長)という文脈で語られています(1テサロニケ4:1~12、5:23)。ここでわかることは、携挙は聖化と密接な関係があるということです。今日にも主が戻って来られるかもしれないという意識を持って生きることは、罪を犯そうという動機になるでしょうか?それとも罪を犯さないで生きようという動機付けになるでしょうか?答えは言うまでもないと思います。

このように、パウロは信じて間もない信者にも携挙を教え、回心や復活、聖化といった重要な教理を教えるのと同じように携挙について語っていました。これはパウロの「私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせた」(使徒20:27)という言葉とも一致します。現代に生きるみことばの教師も、パウロと同じく聖書の計画全体を信徒に教えるように努めるべきではないでしょうか。

まとめ

以上、携挙が非現実的な教えでも、「必ずしも必要でない」教えでもなく、信者の信仰と成長にとって重要な教えであることを聖書を通して見てきました。今は終わりの時代であり、人々が真理から耳をそむけるようになると預言されている時代です(2テモテ4:2~4)。こういう時こそ、聖書の一つひとつのみことばを灯火として足下を照らして歩んでいきたいものです。

MEMO
私は患難期前携挙説に立つ者ですが、それ以外の立場に立つクリスチャンをキリストにある兄弟として否定しているわけではありません。むしろその逆で、共に聖書を神のことばと信じているのだから、聖書の真理について論じ合い、共に神に近付こう、というのが私の姿勢です。

次回予告

今回の記事は、患難期前携挙説を前提に携挙の教理の重要性について書きました。次回以降の記事では、それではなぜ患難期前携挙説が正しいと言えるのか、7つの聖書的根拠を挙げて論じる予定です。一つの根拠で一つの記事にして、計7回の連載記事にして掲載していく予定です。

この記事を書いた人:佐野剛史

参考資料

  1. Rick Joyner, THE HARVEST revised booklet (1989/1990), p.121 (http://www.letusreason.org/Latrain1.htm)

  2. John Arnott, “Hard to Receive,” Toronto Airport Christian Fellowship Message (https://www.wayoflife.org/reports/latter_rain_and_manifest_sons_of_god.html)

  3. Daniel Silliman, “EFCA Now Considers Premillennialism a Non-Essential”, Christianity Today, 23 Aug 2019 (https://www.christianitytoday.com/news/2019/august/efca-drops-premillennialism-evangelical-free-church-teds.html)

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