現代の使徒運動が抱える3つの問題点(1)

佐野剛史

はじめに

 昨年(2018年)に、新しい使徒的宗教改革(NAR:New Apostolic Reformation)を取り上げた『日本の教会に忍び寄る危険なムーブメント』という書籍が出版されました(ウィリアム・ウッド著、ハーベスト・タイム・ミニストリーズ出版)。ハーベスト大阪月例会に参加した時に購入し、一通り読み終えた後、これは大変なことだという思いはありましたが、その時はまだ遠い世界で起きている出来事という感覚でした。

 しかし、最近になって、実際はそうでもないと気付かされる出来事が起こったのです。その出来事を通して、私のキリストにある友人の中にも、NARを支持する人、また支持しないまでも問題視しない人がたくさんいることがわかってきました。

 私の中では「使徒は初代教会だけのもの」という理解は常識だと思っていたので、そういう理解を共有していない福音派のクリスチャンが身近に多数いることに正直驚きました。そこで、現代の使徒の問題について、NARを支持する、あるいは問題視しないキリストにある友人たちとの対話のために、この論考を書くこととしました。また、この問題をどう考えればよいか判断に迷っている方の一助になればと思い、Webで公開することにした次第です。

NARについて

 新使徒的宗教改革(NAR)は、端的に言えば「使徒は、新約聖書の時代だけではなく、現代にもいるし、教会の一致と完成のために必要な存在だ」と主張する人々の運動です。ウィリアム・ウッド著『日本の教会に忍び寄る危険なムーブメント』では、NARについてもう少し詳しく、次のように説明されています1

NAR(New Apostolic Reformation:新しい使徒的宗教改革)は、フラー神学校の教授であり、「教会成長」の研究家であったC・ピーター・ワグナー氏が、1994年に世界のキリスト教会の間で勢いを増す新しい流れを表すために提唱した名前だ。「使徒的」は、神によって起こされた使徒たちの指導の下に、聖書の「使徒の働き」に書かれているような神の御業の再現を表している。「宗教改革」は、500年前に起こったプロテスタントの宗教改革に匹敵するほどの変化を指している。

 「新しい流れ」という表現でもわかるように、NARとは運動の総称で、NARという団体があるわけではありません。ただ、NARの多くの使徒が加盟するICAL(International Coalition of Apostolic Leaders:国際使徒的リーダー同盟)をはじめ、使徒的ネットワークを形成する団体があり、事実上、そうした組織がNAR運動の推進母体となっています。

 新使徒的宗教改革(NAR)は、この運動のことを詳しく知らなかった私のようなクリスチャンの想像をはるかに超えて広がっています。NAR(New Apostolic Reformation)という用語を生み出し、NARの思想的な支柱となった神学者ピーター・ワグナーは、NARの教勢について次のように語っています。

キリスト教会の統計学者として最も実績のあるデイビッド・B・バレット(David B. Barrett)は、キリスト教会を6つの「メガブロック」に分けている。ローマ・カトリックが最大のメガブロックだが、カトリック以外の5つのメガブロックのうち、新使徒的宗教改革(NAR)を受け入れるメガブロック(バレットは「独立系」「ポスト教派」「新使徒的」という用語を使っている)が最大で、たとえば、聖公会、正教会、プロテスタント、その他(モルモン、エホバの証人など)よりも大きい。
使徒的教会はカトリック以外の教会の中で最大のメガブロックを形成しているだけではなく、現在、NARの教会数は他の5つのブロックをはるかにしのぐ勢いで成長している。膨大な調査レポートである『World Christian Trends, AD 30 – AD 2200(世界のキリスト教のトレンド 紀元30年~2200年)』で、著者のデイビッド・B・バレットは、私が「第二の使徒の時代」と呼ぶ流れに属する教会は1970年から2000年の間に323パーセントの成長率で成長した一方で、その他のすべての教会の成長率は同じ30年間で65パーセントにとどまっている2

 ちなみに、NARを構成する教会は元々はプロテスタントの流れに属していますが、ここでは「独立系」「ポスト教派」と呼ばれ、プロテスタントという枠を出て、新たなカテゴリーでとらえられています。私のようにNARのことをあまり知らなかった人間からすると、NARがプロテスタント諸派を合わせた人数よりも多いというと、眉唾ものだという印象を受けます。しかし、そこまでではないとしても、さほど実態とかけ離れた数字ではないことが、ウッド氏の著書を読むとわかります。

ワグナー氏の主張を裏付けるデータも出ている。何らかの形でNARとつながっている人々が世界中に3億6900万人もいると推定されている。また、ある研究者たちは、今までの成長率が続いた場合、NAR関係の教会のメンバー数はプロテスタント教会のメンバー数を超えるだろう、と見ている。世界最大級のメガ・チャーチの多くは、NARの影響を受けている。韓国にあるYoido Full Gospel Church(100万人の会員)、ナイジェリアにあるRedeemed Christian Church of God(500万人の会員)、コロンビアにあるInternational Charismatic Mission(25万人の会員)、ウクライナにあるBlessed Kingdom of God for All Nations(2万人の会員)などだ。3

 実際のところ、3億6900万人もの人がNAR関連の教会に集っていると聞くと疑いたくなりますが、間違いなく言えることは、NARの勢力は想像するよりも巨大で、しかも急成長しているということです。

この論考の方法論

 これから現代の使徒運動について論じていきますが、この論考ではNARがどのようなことを行っているのかという現象面を取り上げるのではなく、「現代の使徒はどのようなことを教え、聖書はそれに対して何を語っているのか」という視点でNAR運動を聖書的に検討してみたいと思います。NAR運動の現象面については、ウッド氏の著書を参考にしてください。

 この論考では、上記の前提に立ち、現代の使徒運動は聖書的に3つの問題を抱えていることを指摘します。それぞれの問題は独立した記事にして3部構成で論じたいと思います。

 今回は、第1の問題として「現在、聖書的に自分は使徒だと主張できる人はいない」という点を取り上げます。

MEMO
なお、以下の内容で英語の情報源から引用している場合は、特に記載のない限り佐野が日本語に翻訳しています。また、聖書の引用は新改訳聖書第3版を使用しています。

現在、聖書的に自分は使徒だと主張できる人はいない

 第一の問題点は、現代の使徒の聖書的根拠にかかわる問題です。聖書は、現代に使徒がいることを想定しているのでしょうか。聖書をひもとくと、そうではないことがわかってきます。

新約聖書には、教会が使徒を選び、任命するための規定がない

 現代の使徒運動が抱える大きな問題の一つは、新約聖書には、使徒をどのように選び、任命するかという規定が存在しないことです。

(1)監督、長老、執事については明確な規定がある

 新約聖書には、教会が監督、長老、執事をどのように選び、任命するかについては明確な規定があります。たとえば、監督・長老の任命について、パウロはテトスに次のような指示を与えています(テトス1:5~9)。

5 私があなたをクレテに残したのは、あなたが残っている仕事の整理をし、また、私が指図したように、町ごとに長老たちを任命するためでした。
6 それには、その人が、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、その子どもは不品行を責められたり、反抗的であったりしない信者であることが条件です。
7 監督は神の家の管理者として、非難されるところのない者であるべきです。わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、けんか好きでなく、不正な利を求めず、 8 かえって、旅人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、 9 教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。それは健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです。

 このように、監督、長老、執事については、新約聖書には明確な選定基準と任命方法が定められています(1テモテ3:2~13も参照)。少々厳しい条件ですが、わかりやすく明快な規定であることは確かです。ところが、教会の最も重要な機関として挙げられ(1コリ12:28)、監督や長老が従うべき存在である使徒をどうやって選び、任命すればよいのかについては、新約聖書は何も語っていないのです。

MEMO
ここで、エペソ4:11などで使徒とともに挙げられている牧師、伝道者、教師などの任命についても、新約聖書には規定がないではないかと反論される方もいるかもしれません。しかし、牧師、伝道者、教師などは、新約聖書では教会の役職としてではなく、その人の賜物や働きを表す言葉として使われています。

そのため、ここでは使徒の比較対象として、新約聖書で教会を治める権威を授けられている働き人のみを取り上げています。新約聖書で教会を統治する権威あるポジションとして記されているのは使徒、監督、長老、執事のみです。そのため、教師の賜物を持つ長老、伝道者の賜物を持つ執事など、両者はオーバーラップします。

なお、現在、プロテスタントでは教会を治める責任者は牧師と呼ばれることが多いですが、新約聖書では教会を治める人は監督、長老と呼ばれています。また、伝道師という役職もありますが、これは牧師の補佐という役割を担うことが多いので、新約聖書的には執事(または長老の1人)にあたるポジションと考えることができます。ここでは、新約聖書の用語に従うことにします。

MEMO
ちなみに、パウロから長老や執事を任命するように言われたテトスやテモテが新約聖書で使徒と呼ばれている例はなく、一貫して「兄弟」と呼ばれています(2コリント1:1、コロサイ1:1、2コリント2:13)。複数の教会を監督し、各教会の長老を任命する権威を持っているだけでは、その人が使徒であるとする根拠とはなりません。

(2)NARによる使徒の定義と認定方法

 それでは、NARは使徒をどのように選び、任命しているかを見てみましょう。先ほど紹介したNARの思想的指導者、ピーター・ワグナーは次のように使徒を定義しています。

「神の訓練と教育を受け、神に立てられた信仰ある指導者で、神の国を推進する目的のために、宣教の特定領域に教会の土台となる統治組織を据える権威を持っており、その働きを、聖霊が諸教会に語りかけることばに耳を傾け、そのことばに沿った秩序をもたらすことによって実現する者」4

 この定義は、先ほど紹介したICAL(国際使徒的リーダー同盟)のWebページ上で紹介されているものです。同Webページには、この定義に続いて、使徒とはどういう存在かを説明した文章があります。ただ、このページを読んでいてわかるのは、NARの使徒の定義が具体的にどのような聖書箇所に基づいているのか、明らかにされていないことです。このことは、新約聖書には、使徒をどうやって選び、任命すればよいかについて規定がないことを間接的に証明しています。そのため、この定義に従って「使徒」と認定されても、聖書が言うところの使徒であるとは主張できません。

 また、先ほど見た監督、長老に関する聖書箇所とは違い、NARの使徒の定義にはあいまいな点が多く、それに基づいてある人が使徒であるかを判定するのは至難の業です。たとえば、「教会の土台となる統治組織を据える権威を持つ人」と言われていますが、どうやってその権威を持っていると判断できるのでしょうか。また、「聖霊が語りかける言葉に耳を傾ける」と言いますが、誰が、どうやって、この人は聖霊の言葉を確かに聞いていると認定するのでしょうか。

 そのため、実践的には、自分を使徒と呼ぶ人々が互いに使徒として認め合い、そうやって形成されたコアの使徒集団が、新しい使徒を認定する、という状況になっていると思われます。具体的には、ICALの使徒として認定されるための条件と手続きは次のようになっています。

ICALのメンバーになるには、申請者は現在のICALメンバー2人の推薦を受け、上記の使徒の定義5に合致する必要があります。メンバーシップの申請が適切に行われた後は、ICALの役員が候補者にインタビューを行い、申請の審査を行います。


 この審査を通ると、使徒としてICALのメンバーに加えられることになります。ただ、どのような審査が行われるのかは明らかにされていません。また、ICALによる使徒の認定には、次に指摘するような別の問題もあります。

(3)ICALによる使徒の認定の問題点

 ICALは、使徒候補の登録申請を受け付け、審査を行ってメンバーとして認定しますが、メンバーが起こした問題や、使徒の任命について責任は負わないことをうたっています。

ICALメンバーは、人間関係を中心にしたもので、お互いが責任を負っています。ICALは、使徒の任命も按手礼も行いません。また、ICALはメンバーをカバーする(守る)機関でもなく、メンバーの責任を第一義的に負う機関とみなすこともできません。ICALは、メンバーに対し、実際的な意味での守りと説明責任を提供してくれる個人や組織と関係を築くことをうながしており、そうした関係はすべてのリーダーが個人的なレベルで必要としているものです。6

 要するに、ICALは、使徒的リーダーの互助会あるいはメンバーシップクラブのようなもので、メンバーが起こした問題に対しても、メンバーがそもそも本当に使徒なのかという点についても、責任を負わないという立場です。聖書には教会が使徒をどうやって選び、任命すればよいかという規定がないので、当然といえば当然かもしれません。

 ただ、深刻な問題は、ICALのような国際的なキリスト教団体に認定された使徒が、その資質もないのに使徒のようにふるまい、害悪を撒き散らす危険性です。この危険性が現実のものになっていることは、ICALの幹部も認めています7

 また、聖書は、にせ使徒の存在を明確に教えています(2コリント11:13~15)。

13 こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。 14 しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。 15 ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。

 ここでパウロは、キリストの使徒に変装しているにせ使徒がいると警告しています。聖書を信じるクリスチャンにとって、教えの風に吹き回されないようにするためにも(エペソ4:14)、このようなにせ使徒を見抜くことは必要なことです。そこで、本物の使徒と偽物の使徒を見分けることができるように、新約聖書に記されている使徒に共通する条件を確認し、本物の使徒の特徴をつかむことにしましょう。

新約聖書の使徒には、共通する条件がある

 にせ使徒を見抜く目を養うため、新約聖書に書かれている使徒に共通する条件を見ていきます。そうすることで、使徒とはどういう人で、どのような働きをするのかが見えてきます。まずは使徒が任命された方法を見ます。任命方法がわかると、使徒とはどういう存在かについて見通しが開けます。

(1)主から直接任命された

 新約聖書で使徒の任命について記されている箇所を見ると、使徒はみな、人間を介さず、主イエス(および父なる神)から直接任命を受けていることがわかります。

1)十二使徒

 ペテロをはじめとする十二使徒は、イエスが地上生涯を歩まれている間に、イエスから直接任命されました(ルカ6:12~13)。

12 このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。
13 夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。

2)マッテヤ(十二使徒の補充)

 十二使徒のうちのイスカリオテのユダは、イエスを裏切り、自殺してしまったので、その穴を埋める必要がありました。そこで12人目の使徒として任命されたのが、マッテヤです。マッテヤの任命は使徒1:24~26に記されています。

21 ですから、主イエスが私たちといっしょに生活された間、 22 すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」
23 そこで、彼らは、バルサバと呼ばれ別名をユストというヨセフと、マッテヤとのふたりを立てた。
24 そして、こう祈った。「すべての人の心を知っておられる主よ。 25 この務めと使徒職の地位を継がせるために、このふたりのうちのどちらをお選びになるか、お示しください。ユダは自分のところへ行くために脱落して行きましたから。」 26 そしてふたりのためにくじを引くと、くじはマッテヤに当たったので、彼は十一人の使徒たちに加えられた。

 公生涯の最初からイエスと行動を共にし、イエスの復活を目撃したという条件を満たす人物として、候補はヨセフとマッテヤという2人に絞られました。そこでくじを引いたところ、マッテヤにくじが当たったので、マッテヤが使徒として任命されました。くじは、旧約時代には神のみこころを知る手段として有効でしたので、聖霊が下る前のこの時点では妥当な方法でした(民数記26:56、ヨシュア7:14など参照)8

MEMO
十二使徒には、メシア的王国(千年王国)でイスラエル十二部族を治めるという役割が与えられていますので(ルカ22:30)、欠員を埋めることは必要なことでした。十二使徒の名前は、新しいエルサレム(新天新地)の土台にも刻まれます(黙21:14)。

 ここで注意が必要なのは、新約聖書で使徒が補充された例はここ以外にないという点です。実際に、使徒12章でヨハネの兄弟である使徒ヤコブが殺された時には、代わりの使徒を立てようという話にはなっていません。初代教会の直後の教会教父の時代(紀元1~4世紀)にも、使徒を任命したという記録はありません(この点については別途論じます)。

3)パウロ

 十二使徒の任命方法は以上でわかりましたが、十二使徒ではない使徒パウロはどのように任命されたのでしょうか。パウロが使徒に任命された経緯は、使徒の働き9章に詳しく書かれていますが、パウロ自身はその体験をガラテヤ1:1で次のようにまとめています。

1 使徒となったパウロ──私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです──

 パウロは、自分が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、神(イエス・キリストと父なる神)によるものだと語っています。それは、十二使徒にも、マッテヤにも言えることです。

 以上のように見てくると、新約聖書に記されている使徒の任命について、次のことが言えます。

  • 使徒は、神から直接任命されるので、人に任命されるものではない。また人が介在することもない。
  • 十二使徒も、パウロも、主イエス(および父なる神)によって任命された。現代の使徒が言うような、聖霊によって任命された例は聖書に出てこない。
  • 新約聖書に、教会が使徒をどうやって選び、任命するかということが記されていないのは、使徒は神が直接任命するもので、人が介在する余地がないためということがうかがい知れる。
MEMO
十二使徒とパウロ以外の使徒(バルナバや主の兄弟ヤコブなど)については使徒に任命された経緯は説明されていませんが、パウロは使徒全員が復活のイエスに会っていると証言していますので(1コリント15:7)、主イエスから直接任命を受けていると考えることができます。

 このように見てくると、使徒の任命について次のように語るピーター・ワグナーの言葉には違和感を覚えざるをえません。

私は、使徒に言及するときに「自分で任命した(self-appointed)」とか「自称」といった形容詞を付けるジャーナリストに強く反対する。本物の使徒は、自分で任命しないものだ。第一に、その人たちには、神から主の働きを行う賜物が与えられている。第二に、賜物とその実は同僚によって認められるもので、使徒は、他の尊敬され、資格のあるリーダーたちによって使徒職に「据えられる」あるいは「任命される」のだ。9

 これを読んで思うのは、「他の尊敬され、資格のあるリーダーたち」に使徒を任命する権限があるのか、ということです。その人たちはどうやってその「資格」を得たのでしょうか。

 聖書によると、使徒は周囲のリーダーではなく、神から直接任命されるものです。現代の使徒は、たとえ「自分で任命した(self-appointed)」のではなくても、少なくとも「人間が任命した(human-appointed)」と呼べるのではないでしょうか。それは、聖書が言う使徒とはまったくの別物です。

(2)復活したイエスを目撃している

 使徒に共通するもう一つの条件は、復活したイエスを目撃していることです。使徒パウロは、1コリント9:1で次のように語っています。

1 私には自由がないでしょうか。私は使徒ではないのでしょうか。私は私たちの主イエスを見たのではないでしょうか。あなたがたは、主にあって私の働きの実ではありませんか。

 ここでパウロは、自分が使徒であることの根拠として「主イエスを見た」ことを挙げています。

 パウロは、1コリント15:7~8では次のように語っています。

7 その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。 8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。

 パウロは、この2つの箇所で、自分が使徒であることの証拠は復活のイエスと出会ったことであり、使徒は全員復活のイエスと出会っていると証言しています。つまり、パウロは、復活のイエスに会っていることが、使徒の条件であると考えているのです。

 また、この箇所では、復活のイエスと出会ったのは自分が最後だともパウロは語っています。使徒の条件の1つが、復活のイエスを目撃したことで、1コリント15:8で言うように、パウロが復活のイエスを目撃した最後の人であるとすれば、パウロ以降、使徒の条件に当てはまる人は一人も出ていないことになります。

 このことに関連して使徒の働きで繰り返し出てくるのが、使徒が「イエスの復活をあかし(証言)した」という記述です(使徒2:24~32、3:15、4:2、4:10、4:33、5:30~32、10:39~41、13:30~37、17:3、17:18、17:31、26:8、26:23)。マッテヤを使徒に任命した先ほどの場面(使徒1:22)では、次のように言われていました。

22 すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。(強調筆者)

 ここでペテロは、使徒の重要な役割は、イエスの復活の証人になることと考えていたことがわかります。

 このように見てくると、新約聖書が使徒職の継承や任命について語っていないのは、「イエスの復活の証人となる」という使徒の役割を考えると自然なことだということがわかってきます。イエスの復活の証人となるには、イエスの死、埋葬、復活という歴史的事実に立ち会っている必要があります。つまり、使徒はイスラエル(パレスチナ)の地に、紀元30年頃に生きていた人物である必要があるという、地理的、時間的制約があるのです。使徒職を後代に継承していくための基準と手順が新約聖書に定められていないのは、それも理由の1つであると考えられます。

(3)しるしと不思議が伴う

もう一つの使徒の共通点は、その働きにはしるしと不思議が伴うという点です。パウロは2コリント12:12でこう語っています。

12 使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間で行われた、しるしと不思議と力あるわざです。

 使徒19:11~12は、実際にパウロが行っていた奇跡を次のように記録しています。

11 神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行われた。 12 パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。

 また、使徒5:12~16では、ペテロが行っていた奇跡を次のように描写しています。

12 また、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行われた。… 15 人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。 16 また、エルサレムの付近の町々から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。

 ここで注目してほしいのは、悪霊につかれている人や病人が全員いやされたという点です。すべての使徒がパウロやペテロと同じレベルの奇跡を行っていたとは断言できませんが、少数の人がいやされる程度では、いやしの賜物がある証拠にはなっても、使徒であることの「しるし」と呼ぶには不十分と言えます。

 このようなしるしと不思議を行う人は、紀元1世紀の使徒以来にいたことがありませんし、今日もいません。

MEMO
ただ、もし仮にそういう奇跡を行う人が現れたとしても、先ほどの2つの条件があるので、これだけで使徒と言えるわけではありません。

まとめ

 以上、現代の使徒運動について、「現代に使徒はいるのか」という視点で聖書的に検証してみました。その結果は、次のようにまとめることができます。

  • 新約聖書は、教会が使徒をどのように選び、任命するかという方法を記していない。
  • 新約聖書に記されている使徒には(1)主から直接任命されている、(2)復活したイエスを目撃している、(3)しるしと不思議が伴う、という3つの共通する条件がある。
  • 現在、上記の3つの条件を満たす人は存在しない。
  • すなわち、現在では、聖書的に自分は使徒だと主張できる人はいない。

 次回は、「現代の使徒は教会の分裂を招く」というNARの2つ目の問題を取り上げます。その中で、現代にも使徒が必要だとNARが主張する根拠になっているエペソ4:11などの聖書箇所をどのように解釈すればよいかについても論じます。


  1. ウィリアム・ウッド『日本の教会に忍び寄る危険なムーブメント』(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ、2018年)P.24 
  2. C. Peter Wagner, The Changing Church: How God is Leading His Church into the Future, Regal Books, 2004, P. 14-15 
  3. ウィリアム・ウッド『日本の教会に忍び寄る危険なムーブメント』(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ、2018年)P.24-25 
  4. ICALのウェブサイト(https://www.icaleaders.com/about-ical/definition-of-apostle)より(2019年6月29日にアクセス) 
  5. ピーター・ワグナーの定義とほぼ同じですが、ICALの公式な使徒の定義は次のようになっています。「使徒とは、神から賜物、教え、任命を受け、神に派遣されたクリスチャン指導者で、割り当てられた宣教の領域内で教会の土台となる統治組織を据える権威を持っており、その働きを、聖霊が諸教会に語りかけることばに耳を傾け、教会の成長と成熟のために秩序をもたらす者を指す」(https://www.icaleaders.com/membership。2019年6月29日にアクセス) 
  6. https://www.icaleaders.com/membership(2019年6月25日にアクセス) 
  7. Joseph Mattera, Abuses and Blessings of the Contemporary Apostolic Movement (http://josephmattera.org/abuses-and-blessings-of-the-contemporary-apostolic-movement/) 
  8. くじというと、日本人はあみだくじのようなものを想像して、いい加減な決め方だと思ってしまうかもしれません。しかし、くじは神のみこころを知る手段として律法にも記されています(レビ16:8、1)。また、イスラエル初代の王、サウルが民の前で選び出された手段はくじでした(サムエル10:20~21)。ただし、使徒2章で聖霊が下って以降、くじを神のみこころを知る手段として用いることはなくなります。 
  9. C. Peter Wagner, “The New Apostolic Reformation Is Not a Cult,” Charisma News, August 24, 2011 (http://www.charismanews.com/opinion/31851-the-new-apostolic-reformation-is-not-a-cult) 

4 COMMENTS

澤育子

かつて私がいた京都の教会の牧師(アメリカ人宣教師)が、ある時から自分は使徒だ!と、言い始め…当時教会は彼が引き起こした経済難で借金返済に四苦八苦する教会のリーダー達を残して、帰国。
借金返済を肩代わりした信徒達に経済的だけでな心に大きな傷を負わせて、教会は無くなってしまいました。主が教会を潰されたのだと、その後自分の聖書知識の無さを悔い、正しく聖書を学びたい!と願って中川牧師の教えに導かれた時その事が良くわかりました。正しい聖書の学びの大切さを知り、今は学び続けながら、バラバラになった兄弟姉妹がみ言葉によって回復されるよう、祈っています。

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Takashi Sano

澤姉が聖書の学びに熱心なのはそういう背景があるのですね。NARのことを調べていて、私も聖書の学びの大切さを改めて痛感させられました。私も以前はこういう議論はできませんでしたが、今のように聖書に基づいて論じることができるようになったのはハーベスト聖書塾で学んだおかげです。

返信する
Naoto Oshiro

この記事はカリスマ派・聖霊派のクリスチャンが読むべきものですね。大部分において私は同意しています。解説もとても適切だと思います。

一つ私が思ったのは、3つの「条件」はやや誤解を招く表現だと感じました。何故なら、最初のまとめで教会としては「使徒」をどのように選び、任命するかという方法を記していない(聖書に書いていない)、という立場を取っているのにも関わらず、3つの条件がそろえばOKという曖昧なニュアンスが見えるからです。また、聖書がこの3つの共通点を「条件」として書いているという解釈に基づくのなら、結局それを土台(教理)にして教会は少なくとも「使徒」の存在を認めざるを得ない(ある人が3つの条件を満たせば)という事になりますね。

最後の「使徒としてのしるしと不思議が伴う事」はとても重要だと私も思います。結局、理論や口先だけの「自称~」は力がないですからね。使徒としての働きがある種の証明を伴う事(いわゆる結果・実を出す事)は必然だと思います。ただ、「全員が癒されなければ使徒でない」というニュアンスも気になりました。2コリント12:12でパウロが言っている「使徒としてのしるし」と使徒5:12~16を同一視している点もやや強引な結び付けかなとも思いました。もちろん、しるしと不思議なわざは癒しや悪霊追い出しを含むのですが、パウロが2コリント12:12で言っている「使徒としてのしるし」は10節にあるように、「弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難」という「忍耐を尽くしてあなたがたの間で行なわれた」ものなので、必ずしもペテロによって全員が癒されたしるし(使徒5:12~16)と同じだとする解釈は微妙だと思います。

ところで、パウロはその成長が完全ではなかった時でも「使徒」でしたし、成長の途中にいても使徒という役割と務めを大胆に証ししていました。彼も「完全」になっているのではなく、ひたすら使徒として前を見て走っていたと証ししています。福音派にありがちな「完全」の主張は自然に出てくるのは分かりますが、これらの二つの結び付けはやや強引かなとも思いました。新約聖書にある「完全」はギリシャ語では成長した大人という意味が殆どなので、翻訳された新改訳からの誤解も影響があるでしょう。初代の使徒たちを「完全な者」という神の完全性とイコールにしてしまうのは私たちの弱さでしょう。彼らは失敗もしました。しかし、その失敗を見て私たちは彼らを偽使徒とは呼びません。一部の人が特別で大勢はレベルの低い一般信徒という概念はキリストのからだで根強くありますが、私たちが皆神様の子供だと分かれば、皆が同じ立場にある事も理解できると思います。責任や役割は違っても、誰かが偉くて何かの絶対性を持っているという事ではないです。「万人祭司」の主張とは裏腹に、特別な人がそのポジションを占めるというのは福音派でも聖霊派でも同じようですね。私としては、パウロの中にいたイエス様は私の中にも同じ様にいる、という立場で考えています。初代の使徒たちも最初から完全(成長した大人)ではなかったですし、本来ならよみがえらせるべきだった使徒ヤコブを助ける事もしませんでした。まあ、当時は彼らにもそれができなかったという事ですが。

私はパウロが上の3つを「使徒の条件」として明確に教えていたとは思いません。この辺はどちらかと言えば「憶測」がだいぶ強いのではないでしょうか?ただし、それらの共通点を参考にするのは大事だと思っています。

後は、エペソの4:11をギリシャ語で読んで行けば、イエス様がいわゆる「使徒・預言者・伝道者・牧師・教師(五職・四職)*それぞれは複数形」を教会に与えたとありますが、基本的にイエス様は「特別な霊的エリート」をキリストのからだに与えたのではなく、責任のある重要な役割を与えたという事が読み取れます。*それぞれの語がタイトルとしての「特別用語」ではなく、その役割をする人という語が使われているのが確認できます。元々コイネーギリシャ語で既に一般的に知られていた語が五職に使われています。それで使徒と預言者だけが特別なポジション、或いは、五職はエリートのポジションという誤解(役職という誤解も含む)はギリシャ語から見れば気づきます。ちなみに、いわゆる御霊の賜物もポジションではなくキリストのからだの各器官の働きです。

結論として、最初の二つの「条件」(主からの直接任命、イエス様の目撃)は客観的に誰も証明できないと私は思います。それらは個人的体験に基づくものなので、それで近年は誰もが気軽にその体験を主張しているのでしょう。結局、それらをきちんと確認する方法がないので、ある意味「条件」としてみなさなくてもその確認の方法がないので、それらが無くても差し支えない事になります。

この種の「御言葉の真理を何でも神学的にきちんと整理して理解しようとする思考」は、聖霊派で言えば、異言が聖霊のバプテスマの唯一の証明だと主張するアッセンブリーズの教理と似ていますね。彼らは異言のしるしが伴わない聖霊のバプテスマを否定して、異言を聖霊のバプテスマのしるしとして「聖書的な条件」という解釈を絶対的な教理として・真理だとして勘違いしています。

私の立場は、「使徒の働き」は使徒がいなくなってからはもう必要ない、彼らの存在意義は真理の解き明かしのみに限定されている(教会の土台作りのみ・聖書の確立のみ)、という様なものではないです。これは聖書の聖典が確立された事を強調しすぎた考えから生まれていて、その為にある種の聖霊の働き、御霊の賜物、五職を(完全否定とはいかないまでも)否定するという典型的な福音派の教理から来ています。全てにおいてバランスが必要だと思いますし、真理の教えなら必ず実践的な部分も見えてくると私は信じています。イエス様を信じるとは漠然とした神学、概念、哲学などではないと私は確信しています。それで、使徒の働きをするリーダーは、例えばマルチン・ルターであったり、その他の真理の回復に大きく貢献した人々だと認識しています。そして、その様に働く人たちを中心に、しかも癒しなどのしるしを伴って、「キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難」を通っている人たちは使徒の働きをしている、と私は認識しています。ただ、忠告の目的で貴サイト様が説明しているように、NARの悪影響は終わらなければいけませんね。

長文失礼しました。続きの記事楽しみにしています。

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Takashi Sano

コメントをありがとうございます。「使徒としてのしるし」の説明については自分でも説明不足であると思いましたので、少し加筆しました。ご指摘を感謝します。

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