患難期前携挙説の根拠(3)大患難時代の中心はイスラエル

終末論

MEMO
この記事は、患難期前携挙説の根拠を解説するシリーズの第3回目です。この記事で使われている携挙、患難期前携挙説という用語の意味については、Q&A「携挙とは何ですか?」をご覧ください。

はじめに

前回の記事では、患難期前携挙説の根拠の一つとして、大患難時代の世界を描写した黙示録6~19章に教会がまったく出てこないことを挙げました。

それと表裏一体の関係にあるのですが、今回は「大患難時代の主役は教会からイスラエルに移り変わっている」ことを患難期前携挙説の根拠として示したいと思います。具体的には、(1)大患難時代はイスラエルを中心に回るようになること、(2)大患難時代の目的はイスラエルの救いであると旧約聖書で預言されていることを示すことで、教会に対する神の計画は患難期が始まる前にすでに終了しており、大患難の前に携挙が起こっていることを間接的に示したいと思います。

大患難時代の中心はイスラエル

まず押さえておく必要があるのは、神は、イスラエルと教会にそれぞれ別の計画を立てておられるということです。この点を押さえないと、黙示録の大患難時代に関する預言を理解することはできません。

「黙示録は難しくて理解できない」という声を聞くことがあります。たしかに難解な書であることは間違いないのですが、理解できない原因は、黙示録自体が難解であることに加えて、黙示録の読み方に問題があることが多いと思います。その読み方とは、聖書で「イスラエル」と書かれていれば「教会」と読み替える「置換神学」をベースにした読み方です。

置換神学とは、イスラエルはイエスを拒否したために退けられ、新約時代には教会がイスラエルに置き換わって霊的なイスラエルになったとする教えです(参照:聖書入門.com「置換神学」)。この神学に立つ人の典型的な解釈では、黙示録7章に出てくる14万4千人のイスラエル人は教会のクリスチャンのことだと解釈します。つまり、新約聖書を読む際に「イスラエル」と「教会」を区別せず、同じものを指す言葉として解釈します。

しかし、そのように置換神学に立って聖書を読むと、解釈に困る箇所が大量に出てきます。たとえば、黙示録には、イスラエル民族やイスラエルの地に関する言及がたくさんあります。

  • 黙示録7章:14万4千人のイスラエル人(黙示録7:4~8)
  • 黙示録11章:二人の証人が宣教をする場所はエルサレム(黙示録11:8)
  • 黙示録12章:サタンから逃げている「女」はイスラエル(創世記37:9~10参照)
  • 黙示録14章:小羊(キリスト)が立つのはシオンの山(エルサレム)(黙示録14:1)
  • 黙示録16章:全世界の王の軍隊が集まるのはイスラエルのメギドの丘(ハルマゲドン)(黙示録16:16)

上記の「イスラエル」を「教会」と読み替えて解釈すると、それでは「エルサレム」は何を意味するのか、なぜエルサレムやメギドの丘などイスラエルの地に関する記述が多いのかなど、疑問が尽きません。しかし、「イスラエル」を「イスラエル」、「エルサレム」は「エルサレム」と読めばすんなり理解できる話なので、比喩的解釈は必要なく、字義通りに読めばよいのです。

そのように上記の箇所を字義通りに読むと、大患難時代はイスラエルに関する記述にあふれ、イスラエルを中心に回っていることがわかります。また、教会はまったく出てこないことも併せて考えると、神の教会に対する計画は大患難時代の前に終わっており、教会と入れ替わるようにして神のイスラエルに対する計画が動き始めていることがわかります。

MEMO
黙示録12章に登場する「女」について説明しておきます。この「女」については、黙示録12:1で「一人の女が太陽をまとい、月を足の下にし、頭に十二の星の冠をかぶっていた」と言われています。この箇所は、新約聖書だけでは解釈不可能ですが、旧約聖書を知っていると読み解くことができます。創世記37:9~10では、次のように記されています。

9 再びヨセフは別の夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また夢を見ました。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいました」と言った。 10 ヨセフが父や兄たちに話すと、父は彼を叱って言った。「いったい何なのだ、おまえの見た夢は。私や、おまえの母さん、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むというのか。」

この箇所を読むとわかるように、「太陽、月、十二の星」はヤコブ一家を指しています。また、ヤコブの別名はイスラエル(創世記32:28、35:10~11)であり、その十二人の息子からイスラエル十二部族が誕生することを考慮すると、太陽、月、十二の星は「イスラエル民族」を指していることがわかります。つまり、「女」はイスラエル(ユダヤ)民族の比喩的表現ということになります。

大患難時代の目的はイスラエルの救い

置換神学と並んで、黙示録を理解できない原因となっているのが、旧約聖書の理解不足です。先ほどの「MEMO」で、黙示録12章の「女」の意味は旧約聖書の比喩的表現を知らないと読み解けないことを説明しましたが、それに加えて旧約聖書の預言を知らないと、黙示録で預言されている大患難時代の意味を理解できません。大患難時代は、旧約聖書で預言されていたことの成就だからです。

MEMO
上記の言葉を裏返して考えると、(1)「イスラエル=教会」と解釈する置換神学を捨て、(2)旧約聖書の用語と預言を頼りに読み解くと、黙示録は理解できるということにもなります。

そのような旧約聖書の預言の一つが、エレミヤ30:7です。この箇所では、次のように言われています。

わざわいだ。実にその日は大いなる日、比べようもない日。それはヤコブには苦難の時。だが、彼はそこから救われる。

先述の通り、「ヤコブ」とはイスラエル民族を指します(創世記32:28、35:10~11)。この前後の文脈(エレミヤ30章~32章)では、終わりの時代のイスラエルについて預言されており、イスラエルが患難時代(「苦難の時」)を通り、終わりの日に民族的救いを経験する(「そこから救われる」)と言われています。

また、ダニエル9:24には、キリストの初臨と再臨のタイミングを示したダニエルの「70週の預言」が記されています。

24 あなたの民とあなたの聖なる都について、七十週が定められている。それは、背きをやめさせ、罪を終わらせ、咎の宥めを行い、永遠の義をもたらし、幻と預言を確証し、至聖所に油注ぎを行うためである。

ここで神が語りかけている相手は、イスラエル人のダニエルです。そのため、「お前の民」とはイスラエルの民のこと、「聖なる都」とはエルサレムを指していることがわかります。ここでは、七十週が終わるまでに、つまりキリストが再臨するまでに、イスラエルの民の「背きをやめさせ、罪を終わらせ、咎の宥めを行い、永遠の義をもたらし、幻と預言を確証し、至聖所に油注ぎを行う」ことが預言されています。

また、ダニエル12:7では次のように預言されています。

7 すると私は、川の水の上にいる、あの亜麻布の衣を着た人が語るのを聞いた。彼はその右手と左手を天に向けて上げ、永遠に生きる方にかけて誓った。「それは、一時と二時と半時である。聖なる民の力を打ち砕くことが終わるとき、これらすべてのことが成就する。」

ここで出てくる「一時と二時と半時」は、黙示録12:14の「一時と二時と半時の間」、黙示録12:6「千二百六十日」と対応しており、「女」が竜(サタン)に追われて荒野に逃れる大患難時代の後半の3年半を指します。このような箇所を見ると、旧約聖書の預言と黙示録の記述が密接にリンクしていることがよくわかります。

また、ここでは大患難時代の目的が「聖なる民の力を打ち砕く」ことであることも明らかにされています。それは、イスラエルの民の誇りを打ち砕き、メシアである主イエスを見上げるようになるためです。教会は、魂が砕かれて、イエスを救い主とすでに信じている人々の集団ですので、この言葉を教会に当てはめることはできません。

さらに、終末時代を預言したゼカリヤ13:8~9では、次のようにも言われています。

8 全地はこうなる──主のことば──。その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。 9 わたしはその三分の一を火の中に入れ、銀を錬るように彼らを錬り、金を試すように彼らを試す。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民』と言い、彼らは『主は私の神』と言う。

大患難時代には、イスラエル(ユダヤ民族)の三分の二が死に絶えるが、残った三分の一はすべて主に立ち返るという預言です。ホロコーストを経験したユダヤ人が再び同じようなことを経験するという実に気が滅入る預言ですが、それと同時に、ユダヤ民族が神に立ち返るという希望の預言でもあります。そのようにして、ローマ11:26の「こうして、イスラエルはみな救われるのです」というパウロの預言が成就することになります。このように見てくると、イスラエルを悔い改めに導いて神に立ち返らせること、これが大患難時代の大きな目的の一つであることがわかります。

まとめ

旧約聖書を手がかりに黙示録を読み解くと、大患難時代の主役はイスラエルであること、そして大患難時代の大きな目的はイスラエルを悔い改めに導いて神に立ち返らせることであることがわかります。そのように理解すると、大患難時代の描写に教会が登場しないことの意味も理解できます。教会に対する神の計画は、大患難の前に終了し、携挙ですでに天に挙げられていると理解すると、聖書の記述を一貫した解釈で理解することができます。

MEMO
大患難時代のイスラエルに対する神の取り扱いを読むときに思い出すのは、ローマ11:29にある次の言葉です。

29 神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。

この箇所は牧師や奉仕者の召命という文脈で引用されることが多いのですが、本来はローマ11:26の「イスラエルはみな救われるのです」という言葉に続くイスラエルに対する言葉です。イスラエルは神に反抗し、イエスを拒絶した結果、世界に離散するというさばきを受けましたが、世の終わりの時の7年間に、神はイスラエルを再び顧みて、民族全体を救いに導いてくださるのです。大患難時代という厳しい時代にあっても、神の愛と恵みは変わらないことがイスラエルに対するみことばを通して知ることができます。

参考資料

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