患難期前携挙説の根拠(4)教会は神の怒りから救われる

終末論

MEMO
この記事は、患難期前携挙説の根拠を解説するシリーズの第4回目です。この記事で使われている携挙、患難期前携挙説、患難期中携挙説という用語の意味については、Q&A記事「携挙とは何ですか?」をご覧ください。

教会は神の怒りから救われる

患難期の前に携挙があると教える患難期前携挙説の4つ目の根拠は、「教会(クリスチャン)は神の怒りから救われる」と聖書で約束されていることです。パウロが携挙について説明しているテサロニケ人への手紙第一では、次のように言われています。

(1)1テサロニケ1:10

この御子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスです。

(2)1テサロニケ5:9

9 神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。

このほかにも、ローマ5:9などでも、クリスチャンは神の怒りから救われていることが教えられています。

大患難時代は神の怒りの時

黙示録では、大患難時代は神の怒りの時であると言われています。たとえば、黙示録6:16~17にはこう書かれています。

16 そして、山々や岩に向かって言った。「私たちの上に崩れ落ちて、御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ。 17 神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。」

また、黙示録11:18でも次のように言われています。

「諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りが来ました。死者がさばかれる時、あなたのしもべである預言者たちと聖徒たち、御名を恐れる者たち、小さい者にも大きい者にも報いが与えられる時、地を滅ぼす者たちが滅ぼされる時です。」

そして、最後の鉢のさばきが下る場面、黙示録15:1では次のようにも言われています。

また私は、天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。ここに神の憤りは極まるのである。

以上から、大患難時代は神の怒りの時であることがわかります。

黙示録3:10の解釈

もう一つ、大患難時代から教会が守られると教えられている聖書箇所に、黙示録3:10があります。

あなたは忍耐についてのわたしのことばを守ったので、地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る。

MEMO
これはフィラデルフィアの教会への言葉ですが、その最後に「御霊が諸教会に告げることを聞きなさい」(黙示録3:13)と言われているので、教会全体への言葉であることがわかります。

ここで言われている「地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時」とは、この次の章である黙示録4章から大患難時代に関する記述に入ることから、大患難時代を指していることがわかります。つまり、ここでは教会時代のクリスチャンは大患難時代から守られるということが教えられています。

ただ、この訳(新改訳2017)に不満があるのは、「試練の時には、わたしもあなたを守る」という部分の訳です。ここで「には」と訳されている言葉は、原語では「エク」という単語で、「~から、~から出て」(from, out of)という意味です。そのため、ここは「試練の時から、わたしもあなたを守る」と訳したほうが原語の意味を正確に表しているのですが、そうなってはいません。実際に、英語訳の聖書では、筆者が調べたすべての聖書(ASV、NASB、KJV、NIV、ISV)で「from」(~から)と訳されています。

この部分の訳にこだわるのは、「試練の時には」と言うと「大患難時代が来ても、そのただ中であなたを守る」という意味合いに読み取ることができますが、「試練の時から」と訳すと「大患難時代そのものからあなたを守る」という意味になり、まったく状況が変わってくるためです。ここでは、「エク」という単語の意味から、「試練の時から、わたしもあなたを守る」と訳すのが正しい訳です。つまり、黙示録3:10では、大患難時代という時代そのものからクリスチャンを守ると言っているので、クリスチャンがその時代を通過することはない、という意味になります。

結論

以上をまとめると、次のように言うことができます

  1. クリスチャンは、神の怒りから救い出されると約束されている(1テサロニケ1:10、5:9)。
  2. 大患難時代は、神の怒りの時である(黙示録6:16~17、11:18、15:1)。
  3. クリスチャンは、神の怒りの時である大患難時代から救い出され、この時代には地上にいない(黙示録3:10)。

教会時代のクリスチャンは大患難時代を通過しない。これが聖書の語るメッセージです。そのため、大患難時代の前に携挙が来るという患難期前携挙説が正しいことを裏付けています。

結論に至ったので、ここで終わってもよいのですが、いくつかこのテーマに関係する論点がありますので、以下に整理しておきたいと思います。興味のある方は読み進めてください。

付録

患難期中携挙説の主張

以上で述べてきたことを理由に、患難期前携挙説は大患難時代が始まる前に教会は携挙されると教えます。しかし、患難期中携挙説は、それに対して異論を唱えます。患難期中携挙説も、教会は神の怒りから救い出されると教えるのですが、神の怒りが始まるタイミングについて意見が異なり、次のように主張します。

  1. 神の怒り(「御怒り」)という言葉は、第六の封印のさばきではじめて使われているので(黙示録6:16~17)、神の怒りが実際に始まるのは患難期の後半である。
  2. 携挙は、患難期の後半が始まる前の中期に起こる。
  3. そのため、患難期の前半には教会は地上にいる。

この患難期中携挙説の主張は、聖書的に正しいのでしょうか?

患難期中携挙説の問題点

第一に言えることは、「怒り」という言葉が使われていないから神の怒りが下されていないと言うなら、三位一体の教えも聖書には存在しないことになることです。

聖書のどこを読んでも「三位一体」という言葉は見つかりません。しかし、三位一体という言葉は聖書になくても、三位一体の神という概念は聖書にあります。たとえば、ルカ3:22を読めば、「聖霊」「イエス」「御父(天からの声)」という三位一体の神が同時に登場しますし、神の複数の位格が登場する箇所は旧約聖書にも多数あります(創世記19:24、詩篇45:6~7、ホセア1:7、ゼカリヤ2:8~9など)。

それと同様に、黙示録を読めば第六の封印(黙示録6:16~17)までにも、神の怒りが示されていることがわかります。たとえば、第一の封印では反キリスト(白い馬)が地上を征服します1。また、第二の封印では戦争、第三の封印では飢饉がもたらされ、第四の封印では地上の25%の人が死ぬと言われています。このように見てくると、患難期の最初から神の怒りが下っていることがわかります。

第二に、「御座についておられる方」(父なる神)から巻物を受け取り、七つの封印を解くのは「子羊」(イエス)です(黙示録5:5~8、黙示録6:1)。つまり、七つの封印のさばきをもたらすのは神ご自身です。

第三に、黙示録6:16~17は不信者の発言であり、その前にいくつものわざわいを経験して、第六の封印まで来てようやく神のさばきであることに気付いたと解釈するのが自然です2

以上の点から、患難期中携挙説の主張には問題が多いと言うことができます。

患難期前携挙説は現実逃避か?

よく、患難期前携挙説は「現実逃避だ」と言われることがあります。たとえば、新使徒運動(NAR)のリック・ジョイナーは次のように語っています。

携挙の教理は、実に効果的な敵の策略であって、教会に現実逃避の精神を植え付けるものである。このくびきは先進的な教会の大部分ではすでに捨てられており、すべての教会が捨て去る日も近い。3

The doctrine of the Rapture was a great and effective ruse of the enemy to implant in the Church a retreat mentality … already this yoke has been cast off by the majority in the advancing church, and it will soon be cast off by all.

このように手厳しく批判されることがある患難期前携挙説ですが、「現実逃避」という批判は当てはまりません。患難期の前に携挙があるという主張は、聖書のさまざまな箇所を検討した結果として出されたものです。また、患難期前携挙説を信じる多くのクリスチャンは、現実世界では試練があることも聖書によって信じています。ヨハネ16:33にこうある通りです。

これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。

また、クリスチャンは聖書で次のような「怒り」を受けると言われていることも承知しています。

(1)人の怒り(2テモテ3:12)

キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。

(2)世の怒り(ヨハネ15:18~19)

18 世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。 19 もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。

(3)悪魔の怒り(1ペテロ5:8)

8 身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。

しかし、患難期前携挙説を信じるクリスチャンは、以上のような「怒り」を受けることは承知していますが、「神の怒り」を受けるとは考えません。先ほど見たような聖書の約束があるためです。ローマ5:9では次のように約束されています。

ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。

キリストの血によって義とされたクリスチャンが、神の怒りを受けることはありません。それは、罪に対する神の怒りをキリストが十字架上ですでに受けてくださっているためです。ハレルヤ!

参考資料

  1. 「白い馬」をキリストと解釈する人がいますが、巻物の封印を解いているのがキリスト(子羊)ですので、封印を解いて登場するのはキリストではありません。

  2. マスターズ神学校(Master’s Seminary)のロバート・トーマス教授は、この点を次のように説明しています。「人類は神に反抗しながらも、宇宙と地上で見られる大変動が、御座に座しておられる方と子羊が終わりの時代に下した大いなる怒りの日の一環として起こったことだと正しく分析しています。動詞『ēlethen』(「来た」)は、アオリスト(非限定過去)直説法で、これから起こることではなく、これまでに下されたことを指しています。人々は、少なくとも第六の封印の宇宙的な大変動(6:12~14)が起きた時点で、神の怒りの日が来たと理解します。しかし、振り返ってみると、この時点で人口の4分の1の死(6:7~8)、世界的な飢饉(6:5~6)、世界的な戦争(6:3~4)といったことをすでに経験しており、この時に至ってようやく神の怒りの日が到来していたのだと悟るのです。これらの一連の出来事に気づいていないわけがないのですが、第六の封印の壊滅的な現象に直面するまで、一連の出来事を説明する原因(訳注:神のさばき)が意識に上ることがなかったということです」

  3. Rick Joyner, THE HARVEST revised booklet (1989/1990), p.121 (http://www.letusreason.org/Latrain1.htm)

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