終末時代に生きるクリスチャンの役割(2)地の塩となる

塩

イエス・キリストは、マタイ5:13でクリスチャンの役割について次のように語っています。

13  あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。 

このみことばは、終末時代にあって、どのような意味を持つのでしょうか。クリスチャンが地の塩として果たす役割を終末時代という文脈で考えてみたいと思います。

地の塩の終末的意味

古代には、塩は調味料だけでなく、防腐剤としても使われていました。冷蔵庫がなかった時代、肉や魚を塩漬けにして保存する「塩蔵」は洋の東西を問わずよく行われていました。現在でも、新巻鮭や数の子など、魚介類を塩漬けにして保存することがあります。

レムナント(残れる者)の教え

塩が食品を腐敗から守るように、クリスチャンにも地の塩として地上を腐敗から守る役割があります。

旧約聖書にも、イスラエルのレムナント(残れる者)という同様の教えがあります。神に信頼するレムナントがいるので、イスラエルが滅ぼされずに民族として生き残ってきたと教えられています。たとえば、預言者イザヤはイザヤ1:9で次のように語っています。

9  もしも、万軍の【主】が私たちに生き残りの者をわずかでも残されなかったなら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じになっていたであろう。 

ソドムとゴモラは、神のさばきによって滅びた町です。ここでイザヤは、「生き残りの者」(レムナント)の存在が、神のさばきからイスラエル全体を守っているのだと教えています。レムナントの存在が、イスラエルが完全に腐敗してしまうことを防いでいるためです。

同じく、新約聖書の2テサロニケ2:3では、クリスチャンの存在が、大患難時代という神のさばきが地上に下るのを防いでいると言われています。この点は説明が必要ですので以下に解説します。

2テサロニケ2:3の「背教」の解釈

2テサロニケ2:3では次のように言われています。

3  どんな手段によっても、だれにもだまされてはいけません。まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。 

ここで「不法の者」「滅びの子」と呼ばれているのは、反キリストのことです。また、「主の日」というのは、大患難時代を指します。そして、この節の解釈上のカギになるのが「背教」という言葉です。原語のギリシャ語では「apostasia(アポスタシア)」という名詞で、英語の「apostasy(背教)」の語源となった単語です。ただ、ギリシャ語のアポスタシアでは、「背教」という意味は派生的なもので、本来的には「離れること」という意味です。

MEMO
アポスタシアは複合語で、「アポ」と「スタシア」の2つの要素で成り立っています。「アポ」は「離れて(away from)」という意味で、「スタシア」は動詞の「ヒステーミ」に由来し「立つ(to stand)」という意味です。直訳すると「離れて立つ」ですが、総合して「離れる」という意味になります。

アポスタシアの「離れる」という意味は、物理的な意味でも、霊的な意味でも使えます。欽定訳聖書(KJV)では、どちらの意味にも解釈できるように、アポスタシアを「falling away(離れる、落ちる)」と訳しています。「背教」という訳語は霊的な意味で解釈した場合のもので、「正しい教えから離れる」という意味です。物理的な意味で解釈すると、クリスチャンが物理的に離れるという意味ですから、信者が地上から上げられる「携挙」と解釈することができます。

MEMO
アポスタシアは名詞で、新約聖書に2回しか出てきませんが(2テサロニケ2:3、使徒21:21)、動詞形の「アフィステーミ」は新約聖書中に15回出てきます。このうち、12回は物理的に離れるという意味で使われています(ルカ2:37、ルカ4:13、ルカ13:27、使徒5:38、使徒12:10、使徒13:13、使徒15:38、使徒19:9、2コリント12:8など)。

アポスタシアを「携挙」と解釈する最大の根拠は文脈です。テサロニケの手紙第二が書かれた文脈となるテサロニケの手紙第一では、各章の最後に再臨が言及されています(1テサロニケ1:10、2:19~20、3:13、4:13~18、5:23~38)。特に、1テサロニケ4:13~18は携挙(空中再臨)について詳しく説明している箇所です。また、テサロニケの手紙第二自体でも、2テサロニケ2:3の直前の文脈である2テサロニケ1:7、10で、キリストの再臨が語られています。

また、原文では、「アポスタシア」に(英語で言うと「the」のような)定冠詞が付いています。つまり、「あのアポスタシア」という意味で、この言葉に関してパウロと読者の間に共通理解があったことがわかります。テサロニケの手紙第一、第二は初期に書かれた書簡で、まだ背教は主なテーマにはなっていません。両方の書簡で共通のテーマとなっていたのは再臨で、その中でも特に1テサロニケ4:13~18では「携挙(空中再臨)」がテーマになっていました。また、地上再臨では信者が地上から離れることはないので、「あのアポスタシア」と言った時に、共通理解として持っていた「携挙(空中再臨)」を指していると受け取るのが文脈上最も自然です。

説明が長くなりましたが、アポスタシアを「背教」ではなく「携挙」と解釈すると、2テサロニケ2:3の「まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ない」という意味がはっきりとしてきます。終末時代の出来事には順序があって、まず(1)携挙が起こり、次に(2)反キリストが現れ、その後に(3)大患難時代が始まるということです。ここで可能な推論は、反キリストの登場と大患難時代は、携挙で上げられるまで地上に信者がいたために起こらなかったということです。

2テサロニケ2:6~7の「引き止めている者」

この推論を裏付けるように、直後の2テサロニケ2:6~7では次のように言われています。

6  不法の者がその定められた時に現れるようにと、今はその者を引き止めているものがあることを、あなたがたは知っています。 7  不法の秘密はすでに働いています。ただし、秘密であるのは、今引き止めている者が取り除かれる時までのことです。 

ここでは、反キリストが現れるのを引き止めている者がいると言われています。反キリストはサタンの化身ですので、その登場を引き止めることができるのは、サタン以上の力を持つ存在であると考えることができます。そのため、ここでは「引き止めている者」とは神と考えるのが妥当です。その中でも特に、地上で信者を通して働いておられる聖霊を指していると考えられます。

MEMO
2テサロニケ2:6~7の「引き止めている者」の詳しい解釈については、記事「患難期前携挙説の根拠(7)反キリストの登場を『引き止めているもの』」を参照してください。

アポスタシアを「携挙」と考えると、2テサロニケ2:6~7とも辻褄が合います。信者が携挙で上げられると、信者に内住しておられる聖霊も、共に天に上げられることになります(1コリント6:19、ヨハネ14:16参照)。もちろん聖霊は神であり遍在の方ですが、地上における信者を通した聖霊の働きはなくなります。そのために、反キリストが現れて世界を支配できるようになると考えることができます。

結論

クリスチャンは、この世界が腐敗することを防ぎ、地上に大患難時代のさばきが下ることを押しとどめている存在です。これは信者を通した聖霊の働きによるものです。

しかし、信者を通した聖霊の働きはいつか終わる時が来ます。その時が「携挙」です。真の信者という「麦」が地上から取り去られた後、教会には「毒麦」だけが残ります(マタイ13:24~30参照)。先ほど、アポスタシアは「携挙」と解釈すべきだと述べましたが、「背教」という訳語もあながち間違いではないかもしれません。携挙によってすべての信者が地上からいなくなり、結果的に偽の信者で満たされた背教の教会が完成するためです。この背教の教会は、「大淫婦」「大バビロン」(黙示録17:1~6)と呼ばれる世界統一宗教に吸収されることになります。これが大患難時代の宣教のために14万4千人のユダヤ人が立てられる(黙示録7:1~8)理由の一つにもなっています。

以上見たように、終末時代のクリスチャンには地上の腐敗を防ぐ防腐剤として重要な役割が与えられています。しかし、気負う必要はありません。それは聖霊の働きでもあるためです。必要なのは聖霊に導かれることです(エペソ2:10参照)。

塩が塩気をなくす危険性

ただ、塩が塩気をなくし、何の役にも立たなくなる可能性もあります。それがマタイ5:13の後半で言われていることです(「もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです」)。

1テモテ4:1では、終末時代は背教の時代になることが預言されています(記事「終末時代の背教を見分ける(1)欺きの時代」参照)。

1 しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。

このような時代には、背教の教えがはびこります。そのような教えの一つが「クィア神学」です。

現在、LGBTQ+運動が広がっています。このような時代にあって、クィア神学はLGBTQ+の性的指向や性自認を聖書的なものとして位置付けようとする神学です。しかし、聖書的には同性愛は罪です。クィア神学は結婚外の性行為についても正当化をはかりますが、聖書では性行為は結婚をした男女間のもので、それ以外は不品行、姦淫と呼ばれています。

MEMO
クィア神学については、記事「終末時代の背教を見分ける(2)クィア神学」を参照してください。

また、米国を中心にキリスト教の一大勢力となっているのが「繁栄の神学」です。繁栄の神学(繁栄の福音と呼ばれることもある)とは、経済的な祝福や健康を与えることは常に神のみこころであり、信仰や、ポジティブな発言、宗教的な活動への寄付によって物質的な豊かさが増すという教えです。繁栄の神学の問題点は、礼拝の目的が神ご自身ではなく、神から得る物質的祝福に置き換わっていることです。そのため、罪の悔い改めや、キリストが死なれたのは人間の罪のためであることは基本的に教えません。その代わりに、繁栄の神学の父と呼ばれたケネス・ヘーゲンが教えたように、「心で信じて、口で告白する。それが信仰の原則である。あなたが言うことをあなたは手に入れることができるのだ」と教えます。これは貪欲の神学です。

MEMO
繁栄の神学については「過去の記事」をご覧ください。

こうしたことに関連して、コロサイ3:5~6では次のように言われています。

5  ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。 6  これらのために、神の怒りが不従順の子らの上に下ります。 

ここでは、性的な罪と貪欲の罪に陥る人々へのさばきがはっきりと語られています。クィア神学や繁栄の神学によって影響されてしまった人々は、世に影響を与えるのではなく、世の影響を受けて世と同化してしまい、塩気を失ってしまう危険性があります。

そのため、終末時代のクリスチャンは、ユダ3節で言われているように「聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦う」という役割を果たす必要もあります。塩気を失った塩のように、教会が聖書の教えを捨てて内側から腐敗してしまえば、教会が教会でなくなって、何の役にも立たず、投げ捨てられてしまうことになります。

まとめ

マタイ5:13の「地の塩」の教えから、終末時代に生きるクリスチャンの役割について見てきました。自分ではそうは思えないかもしれませんが、クリスチャンは一人ひとりが終末時代に大きな役割を担っています。レムナントがいることによってイスラエル全体がさばきを受けることを免れたように、クリスチャンがいることで世界は大患難時代をまだ経験せずにいます。ただし、聖書では同時に、クリスチャンがこの世と同化して聖書の教えを失い、塩気を失ってしまうことのないようにとも警告されています。

参考資料

  • Arnold G. Fruchtenbaum, Yeshua: The Life of Messiah from a Messianic Jewish Perspective – Vol. 2 (Ariel Ministries, 2017) Kindle版
  • Andy Woods, The Falling Away: Spiritual Departure of Physical Rapture?: A Second Look at 2 Thessalonians 2:3 (Dispensational Publishing House, 2018)

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