患難期前携挙説の根拠(1)聖書は2つの再臨を語っている

終末論

MEMO
この記事は、患難期前携挙説の聖書的根拠を解説するシリーズの第1回目です。携挙および患難期前携挙説については、前回の記事「携挙は『現実逃避』か?」をご覧ください。

はじめに

直感的にピンと来ないが、実は真理であるということがあります。たとえば地動説がそうです。地上で生活していると、太陽が地球の周りを回っているとする天動説が正しいように思えますが、天体の動きをよく観察すると、その反対の地動説が正しいことをコペルニクスやガリレオが証明しました。携挙の話もこれに似たところがあると思います。

筆者がクリスチャンになりたての頃、携挙(患難期前携挙説)の話を聞いて違和感を感じたことがありました。直感的に理解できなかったのです。「地上再臨とは別に携挙があるということは、キリストの再臨が2回あることになる。聖書に再臨が2回あると書いてある箇所はないし、どうもピンと来ない」と思ったのです。

しかし、ハーベスト・タイムのスタッフとなり、ユダヤ人神学者のフルクテンバウム博士のセミナーやハーベスト聖書塾で聖書を学ぶうちに、携挙(空中再臨)と再臨(地上再臨)は別の出来事であるという教えが聖書的であると確信しました。聖書を細かく見ていくと、聖書は携挙と再臨を明確に分けて教えていることがわかります。

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患難期前携挙説では、厳密に言うと、再臨には空中再臨(携挙)と地上再臨の2つがありますが、この記事では一般的な名称に従い、再臨という言葉を単独で使用するときは地上再臨のことを指しています。

聖書は携挙と再臨を明確に分けて語っている

患難期後携挙説は、携挙と再臨を区別せず、1つの出来事であるとしますが、聖書は携挙と再臨をまったく性質の異なる2つの出来事として語っています。キリストが再び来られると語っている聖句をよく読むと、携挙と再臨の箇所では、同じことを語っていると簡単に片づけることができない大きな違いが見られます。以下にその一例を紹介します。

再臨の場所

携挙と再臨の第一の違いは、キリストが再臨する場所に関する違いです。携挙の教えの根拠となる1テサロニケ4:15~17では、キリストは地上ではなく「空中」に来ます(携挙が「空中再臨」と呼ばれるゆえんです)。

15 私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。16 すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、 17 それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

一方、再臨でキリストが来られる場所は地上です。ゼカリヤ14:4では、キリストはエルサレム近郊のオリーブ山に立つと預言されています。

4 その日、主の足はエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山はその真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ、残りの半分は南へ移る。

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ちなみに、キリストが地上再臨で最初に現れる場所は、オリーブ山ではなく、現在のヨルダンのペトラという場所であると預言されています(ミカ2:12~13)。キリストは、ペトラに再臨した後、エルサレムに向かうことになります。

「聖徒のため」と「聖徒と共に」

また、携挙と再臨では、クリスチャンの立ち位置が違います。携挙では、1テサロニケ4:15~17で見たように、キリストはクリスチャンのために、クリスチャンを天に迎えるために来られます。

一方、再臨ではキリストはクリスチャン(聖徒)と共に、天から下って来ます(ユダ14)。

14 アダムから七代目のエノクも、彼らについてこう預言しました。「見よ、主は何万もの聖徒を引き連れて来られる。

黙示録19:14でも次のように言われています。

14 天の軍勢は白くきよい亜麻布を着て、白い馬に乗って彼(注:キリスト)に従っていた。

ここで「白くきよい亜麻布」とは、信者が着せられる義の衣を指します(黙示録3:5、3:18など参照)。

携挙の場面でキリストと共にいると言及されているのは「御使いのかしら」のみです(1テサロニケ4:16)が、先述のとおり、再臨ではキリストと共にクリスチャンが天から下ってきます。キリストが、クリスチャンの「ために」来るのと、クリスチャンと「共に」来るのでは、状況がまったく異なります。

再臨の目的

携挙と再臨では、目的も違います。携挙でキリストが来られるのは、教会を救い出すためです(1テサロニケ1:10)。

10 御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを、知らせているのです。この御子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスです。

この「やがて来る御怒り」とは、大患難時代のことです(黙示録6:16~17参照)。つまり、キリストは教会を大患難時代から救い出すために来られるのです。

一方、再臨では、キリストはイスラエル(ユダヤ民族)を救うために来られます。マタイ23:37~39でイエスは次のように語っています。

37 エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。 38 見よ。おまえたちの家は、 186 荒れ果てたまま見捨てられる。 39 わたしはおまえたちに言う。今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。

最初にイエスが「エルサレム、エルサレム」と呼びかけていることからもわかるように、この言葉はユダヤ人に対して語られています。そして、「『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない」という言葉を裏返して読むと、ユダヤ人たちがイエスに向かって「祝福あれ、主の御名によって来られる方に」と言う時に、イエスはユダヤ人たちの前に現れる、つまり再臨するという意味になります。それが、ゼカリヤ12:10~13:1で預言されていることです。そして、続くゼカリヤ14章では、主(キリスト)がイスラエルの敵と戦い、勝利することが預言されています。

MEMO
「キリストがイスラエルを救うために再臨する」という視点は、「旧約時代のイスラエルは新約時代に教会に置き換わり、将来のイスラエルに対する神の計画はない」と教える置換神学を信じていると、なかなか受け入れることができないのではないかと思います。患難期前携挙説を否定する人々の思いには、そのような置換神学が潜んでいる可能性があります。

携挙は奥義

携挙と再臨のもう一つの大きな違いは、携挙は新約時代に初めて啓示された「奥義」であるのに対して、再臨は旧約時代からすでに啓示されている預言だという点です(ゼカリヤ12章、ヨエル3章など)。1コリント15:51~52で、パウロは次のように語っています。

51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。 52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

1コリント15:50~54は、1テサロニケ4:13~18と同じく携挙の中心聖句ですが、その箇所で携挙が奥義であることが明らかにされています。奥義とは、先述のとおり、新約時代に入って初めて啓示された真理のことです(ローマ16:25参照)。つまり、旧約聖書ですでに預言されていた再臨とは別の出来事だということです。

まとめ

以上、携挙と再臨の違いについていくつか聖句を挙げて見てきました。それ以外にも、聖書には携挙と再臨の違いを示す聖句がいくつもあります。その一部を表にまとめてみましたので、お時間があるときに聖書箇所を目を通してみてください。

表1:携挙と再臨が2つの別の出来事であることを示す聖書箇所

携挙(1テサロニケ4:13~17、1コリント15:51~57) 再臨(黙示録19:11~16)
キリストは空中に来る(1テサロニケ4:16~17) キリストは地上に来る(ゼカリヤ14:4)
聖徒のために来る(1テサロニケ4:15~17) 聖徒と共に来る(黙示録19:14)
教会が救われる(1テサロニケ1:10) イスラエルが救われる(マタイ23:37~39)
新約時代に始めて啓示された奥義( 1コリント15:51~52) 旧約時代にすでに啓示されていた(ゼカリヤ14:4、ヨエル3:1~2等)
祝福(1テサロニケ4:18) 裁き(黙示録19:15)
影響を受けるのは信者のみ(1テサロニケ4:16~17) 影響を受けるのは信者と不信者の両方(黙示録19:15)
クリスチャンだけが見る(1テサロニケ4:16~17) すべての人が見る(黙示録1:7)
復活が起こる(1コリント15:51~52) 復活については語られていない

結論

患難期前携挙説は、よく言われるような現実逃避でもご都合主義でもありません。聖書を観察し、文脈に忠実に解釈した結果、導き出されるものです。

たしかに、空中再臨と地上再臨という2回の再臨があるという考え方は直感的には理解しにくいです。ただ、それはイエス時代のユダヤ人も同じような状況を経験しています。旧約聖書には、メシアの初臨と再臨があるという明確な言葉はありません。むしろ、ゼカリヤ9:9~10のように、キリストの初臨と再臨が同じ箇所に預言されていることがあります(9節が初臨の預言で、10節が再臨の預言)。そのため、当時のユダヤ人は、メシアが来ればすぐにでもメシア的王国(千年王国)が樹立されると思っていました。それはイエスの弟子たちも同じでした。しかし、初臨が終わって振り返ってみると、勝利のメシアが来てメシア的王国を樹立する前に、受難のメシアが来る必要があったのだ、と弟子たちは気付くことになるのです。

初臨と再臨と同じように、携挙と再臨も、まだ実現していない現在から見ると1回の出来事のように見えます。しかし、よく聖書を調べてみると、携挙と再臨は別の出来事で、別々のタイミングで起こることがわかります。今回紹介した聖句を見ていくと、そう解釈することが最も自然で、論理的だと思います。

次回予告

今回は患難前携挙説の根拠を示す連載の1回目でした。次回からは、より具体的な聖書箇所の検討に入っていきます。第2回は、患難期前携挙説が正しい根拠として「大患難時代に教会が一切登場しない」という点を挙げて詳しく見ていきたいと思います。

参考文献

  • Andy Woods, “The Rapture Sermon Series 01. Ten Truths about the Rapture – part 1. (1 Thessalonians 4:13-18)” (https://www.youtube.com/watch?v=xvqbG8bPmHY)
  • アーノルド・フルクテンバウム著(佐野剛史訳)『メシア的キリスト論』(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ)

この記事を書いた人:佐野剛史

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