患難期前携挙説の根拠(6)携挙は信者の励ましとなる

終末論

MEMO
この記事は、患難期前携挙説の根拠を解説するシリーズの第6回目です。この記事で使われている携挙、患難期前携挙説などの用語の意味については、Q&A記事「携挙とは何ですか?」をご覧ください。

携挙は信者の励ましとなる

患難期前携挙説の6つ目の根拠は、聖書は携挙を信者の励ましとなるものとして語っていることです。たとえば、1テサロニケ4:16~18では次のように言われています。

16  すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、 
17  それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。 
18  ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。 

16~17節では、空中再臨(携挙)について語られており、最後に18節で「これらのことばをもって互いに励まし合いなさい」と言われています。

ここで立ち止まって考えてみましょう。患難期前携挙説だと、上記のみことばの意味はよくわかります。患難期が来る前にキリストが来て信者を天に迎えてくださるのですから、確かにこのことばをもって互いに励まし合うことができます。

患難期中携挙説と患難期後携挙説の場合

一方、患難期中携挙説や患難期後携挙説に立つとどうでしょうか。患難期中携挙説と患難期後携挙説は、携挙がある前に大患難時代が来ると教えます。ちなみに、大患難時代には以下のようなことが起こると預言されています。

  • 戦争、飢饉、疫病などによって世界人口の半分以上が死滅する(黙示録6:8、9:15など)。
  • 地上の三分の一が焼かれる、海洋生物の三分の一が死滅する、太陽が暗くなって昼が光の三分の一を失うといった、これまでになかった規模で天変地異が全世界を襲う(黙示録6:13、8:7~12など)。
  • 獣の刻印(666)を受けていなければ物を売り買いすることもできない厳しい監視社会になる(黙示録13:17)。
  • クリスチャンは反キリストによって捕らわれ、剣で殺される(黙示録13:10)。
  • 患難期のわざわいは全世界のすべての人に降りかかるので、逃れることはできない(ルカ21:35)。

こうして大患難時代に起こることを見ていくと、患難期中携挙説や患難期後携挙説が正しいとしたら、携挙が来るからといってはたして互いに慰め、励まし合うことができるでしょうか?

また、テサロニケの教会は当時、迫害の中にありました(1テサロニケ2:14、3:3、2テサロニケ1:4)。さらに、このテサロニケの手紙第一が書かれたのは紀元51年頃1で、その十数年後の紀元60年代中頃にはローマ皇帝ネロの迫害が始まります。つまり、この手紙を読んだ人々の多くは、ネロの迫害を通ることになりました。ネロの時代には、クリスチャンが無実の罪を着せられ、ライオンに食い殺されたり、たいまつのように体を焼かれたり、残酷な殺され方をしました。

しかし、患難期中携挙説や患難期後携挙説に立って、この時代に携挙が起こることを仮定すると、当時の信者はネロの迫害の後、再臨の主にお会いする前に大患難時代に突入することになります。パウロがここで「主が再び来られて、いつまでも主とともにいることになるのです。ただ、その前に大患難時代が来て、反キリストが支配する世界で今よりもひどい時代に生きることになりますが、その患難を7年間(患難期中携挙説の場合は3年半ほど)耐え忍べば、主にお会いできますよ」というような意味で「このことばをもって互いに励まし合いなさい」と言っていたとは思えません。そうだとすると、パウロはテサロニケのクリスチャンに対して大患難時代を経験するという重要な情報を隠していたことにはならないでしょうか。パウロは携挙について語った別の箇所でも大患難時代にはまったく触れていません(1コリント15:50~58など)。

反キリストを待ち望む?

患難期前携挙説に立つクリスチャンは、キリストは明日にも戻ってこられるかもしれないと考え、キリストが来られるのを待ち望みます。次のような聖句にそのような思いが告白されています。

ピリピ3:20

しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。

1コリント1:7

その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けることがなく、熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待ち望むようになっています。

テトス2:13

祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。

しかし、以上の聖句を患難期中携挙説と患難期後携挙説の立場に立って考えてみると、奇妙なことに気がつきます。もし携挙が患難期に入った後にしか来ないのであれば、患難期中携挙説と患難期後携挙説では、キリストが再臨する前に反キリストが現れる必要があると教えているので(患難時代は反キリストとイスラエルが契約を結ぶことで始まる)、クリスチャンはキリストの前に反キリストが現れるのを待っていることになります。意識の上ではそうではないかもしれませんが、反キリストが登場しないとキリストの空中再臨もないのですから、事実上はそうなります。

First the Antichrist実際に、患難期後携挙説に立つ学者のロバート・ガンドレー(Robert Gundry)は、『First the Antichrist: Why Christ Won’t Come before the Antichrist Does(最初に反キリスト:反キリストの前にキリストが来ないのはなぜか)』という本を書き、キリストの空中再臨(携挙)の前に反キリストが来る必要があると主張しています。2

また、上記のテトス2:13では、キリストの現れを「祝福に満ちた望み」と呼んでいます。キリストの前に反キリストが来て、大患難時代を通過する必要があるのであれば、「試練に満ちた望み」とは言えても、「祝福に満ちた望み」とは言うのは難しいのではないでしょうか。1コリント1:7では、コリントのクリスチャンは「熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待ち望むようになっています」と言われています。その一方で、コリントの教会は性的な罪や分派など問題が多く、パウロに「あなたがたは、まだ肉の人だからです」(1コリント3:3)とも言われています。そのような「肉の人」であったコリントのクリスチャンが、大患難を通ることがわかっていながら主の来られるのを熱心に待ち望んでいたとは考えにくいところです。

結論

患難期中携挙説と患難期後携挙説は、携挙の教えは信者の励ましとなるという重要な聖書の真理を見過ごしています。

キリストが来られることは、クリスチャンの希望です。患難期前携挙説は、次のヨハネ14:1~3でイエスが語っておられるクリスチャンの希望を最も聖書的に説明しています。

1 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。 神を信じ、またわたしを信じなさい。 2 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。 3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。 」

参考資料

この記事を書いた人:佐野剛史

  1. Charles Caldwell Ryrie, Ryrie Study Bible (Moody Publishers, 2012), p1480

  2. Robert Gundry, First the Antichrist: Why Christ Won’t Come before the Antichrist Does (Grand Rapids: Baker, 1997).

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