患難期前携挙説の根拠(2)大患難時代に教会が一切登場しない

終末論

MEMO
この記事は、患難期前携挙説の聖書的根拠を解説するシリーズの第2回目です。この記事で使われている携挙、患難期前携挙説、患難期中携挙説、患難期後携挙説という用語の意味については、Q&A「携挙とは何ですか?」をご覧ください。

はじめに

前回の記事では、携挙(空中再臨)と再臨(地上再臨)を分けて語っているということを聖書箇所をいくつか挙げて説明しました。

今回の記事を含めて、連載の残りの記事では「携挙(空中再臨)がいつ起こるか」という携挙のタイミングの問題を取り上げます。このタイミングこそが、携挙に関する学説が患難期前携挙説、患難期中携挙説、患難期後携挙説に分かれるポイントになるためです。

MEMO
携挙のタイミングに関する学説には、もう一つ「御怒り前(Pre-Wrath)携挙説」というものがありますが、この連載では議論の単純化のために患難期中携挙説に含めて考えます。

筆者が立つ患難期前携挙説では、「大患難時代が来る前に携挙がある」と教えます。その根拠の一つとしてまず挙げることができるのが、大患難時代を記した黙示録4~19章に、教会が一切出てこないことです。今回は、この点について見ていくことにします。

黙示録の構成

黙示録1:19を読むと、黙示録は3部構成になっていることがわかります。主は、この箇所で使徒ヨハネに次のように語りかけます。

それゆえ、あなたが見たこと、今あること、この後起ころうとしていることを書き記せ。

この箇所を見ると、ヨハネが黙示録に記した内容が(1)「あなたが見たこと」、(2)「今あること」、(3)「この後起ころうとしていること」の3つに区分されることがわかります。実際に、黙示録はこの区分に従って、次のような3部構成になっています。

  1. あなたが見たこと:ヨハネがパトモス島で見た栄光のイエス(黙示録1章)
  2. 今あること:7つの教会への手紙(黙示録2~3章)
  3. この後起ころうとしていること:将来の預言(黙示録4~22章)

今回の記事で注目するのは、将来の預言の中でも、大患難時代を記した黙示録4~19章です。

MEMO
黙示録4~19章は、厳密に言うと4~5章が大患難時代に入る直前の場面、6~19章が大患難時代の描写になっていますが、この記事では4~19章をまとめて大患難時代を描写した章として扱います。ちなみに、その後の20章はメシア的王国(千年王国)、黙示録21~22章は新天新地に関する預言になっています。

黙示録4~19章には教会という言葉が一切出てこない

大患難時代を描写した黙示録4~19章の一つの特徴は、「教会」という言葉が一切出てこないことです。この教会(ギリシャ語で「エクレシア」)という言葉は「召し出された者」という意味で、基本的には教会の建物ではなく、教会を構成する信者の集団を指します。

黙示録1~3章では、この「教会(エクレシア)」という言葉が頻繁に出てきて、合計19回使われています。ところが、黙示録4章以降になると、この言葉がまったく出てこなくなります。黙示録の最後でも教会という言葉が使われていることを考えると(黙示録22:16)、この空白は示唆的です。

このコントラストは、黙示録13:9を読むとさらにクリアに浮かび上がってきます。この箇所では、地上で反キリストに迫害されている人々に向けて、次のように語られています。

耳のある者は聞きなさい。

実は、これとほぼ同じ表現が黙示録2~3章に7回出てくるのですが(黙2:7、2:11、2:17、2:29、3:6、3:13、3:22)、黙示録13:9と一つだけ違う点があります。この7つの聖書箇所では、次のように言われています。

耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。

ここですぐに気付くことは、黙示録2~3章の聖句には「御霊が諸教会に告げる」という文言があるのに対して、黙示録13:9ではすっぽり抜け落ちていることです。黙示録2~3章では「教会」という言葉が使われているのに、大患難時代を預言した黙示録13:9に入っていないのはなぜでしょうか。それは「教会がすでに地上から上げられているから」と考えてよいのではないでしょうか。

以上のことから、「教会は大患難時代には地上にいない」という患難期前携挙説には十分な根拠があることがわかります。

教会はどこに行ったのか

では、教会が地上にいないなら、どこに行ってしまったのでしょうか。

黙示録4章~19章には、教会という言葉が使われていないだけでなく、教会を意味する言葉も出てきません。ただ、教会への言及を暗示する言葉はあります。黙示録4:4には、次のように記されています。

また、御座の周りには二十四の座があった。これらの座には、白い衣をまとい、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老たちが座っていた。

ここで、「二十四人の長老」は、「白い衣をまとい」「頭に金の冠をかぶった」と言われています。白い衣を来ているのは御使いの場合も(使徒1:10など)、信者の場合も(黙示録3:4、5など)ありますが、聖書には冠をかぶる御使いは出てこないので、これは信者を指しています(1コリント9:25等)。しかも「二十四人の長老」とあるので、指導的立場にある信者です。このことから、そこには組織化された信者の集団、つまり教会の存在が暗示されています。

ここでは、二十四人の長老は「天の御座」にいると言われており(黙示録4:2、4:4)、大患難時代が始まる直前であるこの時には、教会は天に上げられていることが示唆されています。

また、黙示録 1 : 20では次のように言われています。

あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台の、秘められた意味について。七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。

ここでは「燭台」が教会を指す言葉として使われています。燭台とは、言うまでもなく火を灯す器具ですが、それに関連する言葉が黙示録4:5に出てきます。

御座からは稲妻がひらめき、声と雷鳴がとどろいていた。御座の前では、火のついた七つのともしびが燃えていた。神の七つの御霊である。

この「火のついた七つのともしび」は神の御霊のことであると言われていますが、ともしび(lamp)は燭台(lampstand)の上で灯っています。つまり、七つのともしびは、七つの燭台の存在を示唆しています。そして、それはどこにあるかというと、天の「御座の前」であると言われているのです。

以上のことから、地上の教会(クリスチャン)は、大患難時代の前に携挙によって天に挙げられていると考えることは妥当な解釈だと思われます。

大患難時代の「聖徒」という言葉の意味

しかし、黙示録の大患難時代の描写には、反キリストに迫害される信者の話が出てくるではないか、という反論があると思います。たとえば、黙示録13:10では次のように言われています。

捕らわれの身になるべき者は捕らわれ、剣で殺されるべき者は剣で殺される。ここに、聖徒たちの忍耐と信仰が必要である。

上記のような聖句から、大患難時代にも信者がいることは確かです。そこで、教会が携挙で地上から天に上げられているなら、地上に信者がいることはどう説明がつくのか、という疑問の声が上がるかもしれません。それに対するヒントとなるのが、黙示録7:4~8で登場する「14万4千人のユダヤ人(イスラエル人)」です。

この14万4千人のユダヤ人が登場するのは、大患難時代の初期です。このユダヤ人は、黙示録7:3では「神のしもべ」と呼ばれています。つまり、神の働きに召されるユダヤ人です。そして、この直後の黙示録7:9~10では、白い衣を身にまとったさまざまな国籍、民族の信者の群衆が出てきます。この記述の流れを考えると、この群衆は、14万4千人のユダヤ人に働きによって救われた人々、つまり患難期に入ってから救われた人々と考えることができます。その証拠に、黙示録7:14では「この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです」と言われています。

MEMO
置換神学を教える教会では、この14万4千人のユダヤ人をクリスチャンのことだと教えますが、新約聖書でクリスチャンのことを「ユダヤ人」と呼んでいる例はありません。ユダヤ人(イスラエル人)とは、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫のことで(出エジプト3:15~16等)、クリスチャンとはユダヤ人、異邦人の区別とは関係なく、イエス・キリストを信じた人々のことです(ガラテヤ3:28等)。つまり、両者はまったく違うものを指す言葉です。

以上のことから、黙示録4~19章に出てくる「聖徒」とは、大患難時代に信者になったユダヤ人および異邦人のことであると考えられます。

結論

以上、黙示録4~19章の記述に教会が出てこないことを中心に、患難期携挙前説には十分な根拠があることを示しました。大患難時代には教会は地上から上げられているという聖書解釈に立つと、教会も大患難時代を通過すると教える患難期後携挙説、大患難時代の前半は通過すると教える患難期中携挙説は、受け入れることができないことになります。黙示録の大患難時代の描写に教会が出てこないことは、この両説にとって不利な証言になっています。

連載の第3回となる次回は、「大患難時代の主役はイスラエル」というタイトルでお届けする予定です。

参考文献

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