現代の使徒運動が抱える問題点(2)「現代の使徒は教会を分裂させる」

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佐野剛史

このシリーズの第1回の記事では、現在、自分は使徒であると聖書的に主張できる人はいないことを確認しました。しかし、現代の使徒運動である新使徒的宗教改革(NAR:New Apostolic Reformation)も、聖書的根拠なしに現代にも使徒が必要だと主張しているわけではありません。そこで第2回となる今回は、NARの主張の背景にある聖書的根拠を検証してみたいと思います。その検証を通して、現代の使徒運動は、NARが主張するような教会の一致を実現するのではなく、逆に教会の分裂を招くことを結論として示したいと思います。

NAR運動の先駆者:後の雨運動

使徒の回復を主張した運動は、実はNARが初めてではありません。教会史の中で、使徒の継承や回復を主張した教会や運動は、ローマ・カトリック教会、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)など、いくつかあります。その中で、現代の使徒運動に大きな影響を与えたという意味で重要なのが「後の雨運動(Latter Rain Movement)」です。この運動は、1948年に起こった「後の雨」リバイバルをきっかけとして起こった運動で、NARと同じく、使徒と預言者を回復する必要があると主張しました。NAR運動の父と呼ばれるピーター・ワグナーは、後の雨運動について次のように語っています。

第二次世界大戦直後の北米で、神によって「第二の使徒の時代」の使徒が登場する扉が開き始めた。一部の教会が使徒職を認め始めるようになったのはこの頃である。しかし、この運動は最終的には尻すぼみになり、消滅してしまう。この時代に、「後の雨」「レストレーション運動(Restorational Movement)」「解放伝道(Deliverance Evangelism)」「羊飼い運動(Shepherding Movement)」といった用語が使われるようになったが、こうした運動のリーダーたちは、自分たちが手がけていることは当時の教会全体を改革することになるという大きな期待を抱いていた。しかし、現実にはそうならなかった。第二次世界大戦後に始まったこのような神の運動の大部分は、今では存在しない。存在していたとしても、影響力はほとんど残っていない。しかし、こうした運動のリーダーたちは真の先駆者だった。第二次世界大戦後の使徒運動は、明らかに神ご自身が始められたことである。1

ピーター・ワグナーが後の雨運動を「真の先駆者」と認めていることからわかるように、NARは後の雨運動の影響を強く受けています。実際に、この2つの運動には多くの共通点があります。使徒と預言者の回復を主張していることのほかにも、個人預言の強調、手を置くこと(按手)によって聖霊の賜物を分け与えることなどです。そして、もう一つの重要な共通点があります。それは、教会の一致をとなえながら、実際には教会を分裂させる結果となっているという点です。

NARに対する理解を深めるために、NARが影響を受けたという後の雨運動について少し見ておきましょう。

後の雨運動と教会の分裂

後の雨運動は、ウイリアム・ブランハム(1909~1966)という伝道者の影響を受けたペンテコステ派の牧師たち(ジョージ・ホーティン、パーシー・G・ハントなど)によって、1948年のカナダのサスカチュアン州で始まりました。この運動では、手を置くこと(按手)で聖霊の賜物を分け与えることや、個人預言が強調されました。そして、教団教派に分かれているキリスト教会の現状を批判し、使徒と預言者のもとで一致することを求めました。現在のNARが主張する「五役者(使徒、預言者、伝道者、牧師、教師)の回復」は、元々は後の雨運動で提唱されていたことです。また、今まさに来ようとしている新しい時代には、これまで見たことがない、使徒の時代にもなかったような聖霊の働きが見られると主張し、そのような聖霊の働きによって教会はこの世に対して勝利を収め、その後にキリストの御国が到来するのだと教えました。この教えも、NARの主張とよく似ています。2 3

後の雨運動の集会には、一時はカナダ全土や米国から何千人もの信者が集まり、リバイバルの様相を呈しました。しかし、次第にこの運動の教えに賛同する人々と反対する人々に分かれ、ペンテコステ派を二分する状況となります。そのような中で、米国のペンテコステ派最大のネットワークであるアッセンブリー教団(Assemblies of God)が、後の雨運動に対し「キリストのからだに混乱と分裂を招く」として非難決議を採択します。その決議の中で、アセンブリー教団は「教会は現代の使徒と預言者の上に建てられているという誤った教え」をはじめとして、後の雨運動の教えをいくつか引用して異端とし、この運動とは袂(たもと)を分かつように勧告します。この時に出された「1949年度米国アセンブリー教団総会決議文」では、次のように宣言されています。

私たちは、この極端な教えと実践を非難する。それは、聖書的な根拠がなく、尊い同じ信仰を保つ人々の交わりを乱すものであり、キリストのからだに混乱と分裂を招くものである。ここに第23回総会は、いわゆる「後の雨の新しい秩序」を非難することを決議する。4

この決議の後、そのほかの主要なペンテコステ派教団も、同様の宣言を出してこの運動から手を引きます。その結果、ワグナーが言ったように後の雨運動は尻すぼみとなり、消滅します。ただ、運動自体は消滅しますが、その教えはカリスマ派に受け継がれました。その教えが大きな運動となって再び表舞台に出てきたのが、今のNARだと言うことができます。

MEMO
後の雨運動と主流派あるいは古典的(Classical)ペンテコステ派との対立の図式は今も残っていて、後の雨運動の影響を受けているNARに対する批判の急先鋒にペンテコステ派の教職者が立つことがあります。日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密(https://maranatha.exblog.jp/i14/)、ペンテコステ派の歴史学者ビンソン・サイナン(Vinson Synan)などがその例です。

上記のアセンブリ―教団の宣言文のように、私も、現代の使徒運動は「キリストのからだに混乱と分裂を招く」と考えます。アッセンブリー教団が上記の結論に至った経緯と同じかどうかはわかりませんが、本稿では、私がそのように考える理由を聖書と歴史に基づいて説明していきたいと思います。

使徒職の回復を主張するNARの聖書的根拠

冒頭でも申し上げましたが、NARは聖書的根拠もなく使徒職の回復を主張しているわけではありません。NARを批判する前に、まずはその主張を知る必要があります。そこで、NARの理論的支柱であるピーター・ワグナーの著書を通して、NARの代表的な主張を検討していきたいと思います。ワグナーは著書で次のように書いています。

使徒の賜物と使徒職を認める必要があることの根拠となる主要な聖書箇所が3つある。この主張を裏付ける聖書箇所はほかにもたくさんあるが、中核となるのはエペソ4:11、エペソ2:20、1コリント12:28である。5

この3つの中でも、NARが使徒職の回復を主張する根拠として要となる聖書箇所が、エペソ4:11です。この聖書箇所は、ピーター・ワグナーだけでなく、使徒職の回復を主張する人々が必ずと言っていいほど言及する箇所です。以下がその内容です。

11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。

ここでは、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師という教会の働き人(五役者)が挙げられています。この箇所にあるように、キリストが五役者を教会に与えてくださったのだから、五役者のすべての働き人が教会には必要なのだ、というのがNARの主張です。ここで再びピーター・ワグナーの言葉を引用します。

この「第二の使徒の時代」という知らせをはじめて聞く多くの人にとって、大きなつまずきの石がある。それは、紀元1~2世紀に使徒と預言者が教会の土台を築いて以降、(まるで使徒は不要になったかのように)もはや地上で使徒が任命されることはなくなった、という思い込みである。しかし、エペソ4:11の言葉を読むと、人々の心に深く刻みつけられたこのような考え方は聖書的な裏付けを欠くものであるとわかる。イエスは、聖徒を整え、奉仕の働きをさせるために使徒、預言者、伝道者、牧師、教師を教会に与えてくださったという言葉の後に、実はこの人々が必要な期間が告げられている。それは、「信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するまで」である(エペソ4:13)【訳注:MEMO参照】。私たちはこの状態に達したと正気で言える人がいるだろうか。ここから論理的に導き出せる唯一の結論は、今も私たちは五役者すべてを必要としている、というものである。6

MEMO
新改訳聖書(第3版)では、エペソ4:13は「キリストの満ち満ちた身たけにまで達するため」と訳されています。しかし、ここではワグナーの原文に合わせて「キリストの満ち満ちた身たけにまで達するまで 」と訳しています(ワグナーの原文は「Until we all come to … the measure of the stature of the fullness of Christ」)。英語訳聖書はどれも基本的に「until」または「til」と訳していますので、ワグナーの引用した訳は英語訳聖書としては一般的なものです。

ワグナーが語っているように、NAR運動では、教会が一致に達し、完全に成長するには五役者すべてが必要であり、特に次の1コリント12:28で教会の働き人として最初とその次に挙げられている使徒と預言者が重要であると教えます。

28 そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行う者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。

また、次のエペソ2:20を引用し、使徒と預言者は教会の土台であるから、土台なしに教会を健全に建て上げることはできないと主張します。

20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。

このエペソ2:20を念頭に、ワグナーは次のように語ります。

よく知られている賛美歌の中に、「教会の土台は主イエス・キリスト」という歌詞がある。これは、イエス・キリストという方とその働きがなければ教会は存在しないのだから、一般原則として、神学的にはもちろん正しい。しかし、イエスが昇天して地上を去って以降の教会の成長と発展という枠組みの中では、イエスはご自分のことを土台ではなく、礎石として考えてほしいと思っておられるようである。教会の土台は、どの時代でも使徒と預言者で構成されるべきものである。礎石は決定的に重要である。礎石は最も重要なブロックで、土台を結びつけてまとめる役割を果たす中心的な石であり、その後の建築に使われるブロックはすべて、この礎石を目印にして据えられるからである。しかし、教会にイエスだけがいて、使徒と預言者がいなければ、堅固な建物を建て上げるための土台がなくなる。両者は手を取りあって進むもので、どちらが欠けてもいけないのである。7

なるほどこう見てくると、ワグナーの主張はもっともだという気がします。使徒はキリストご自身が教会に与えたもので、教会の土台を築くという重要な役割が与えられているのですから、使徒がいなければ教会は成り立たないという論理はそのとおりです。

しかし、ここで一つの疑問が湧き上がってきます。それは、「使徒がそれほど教会に必要な存在なら、いつ、どうして教会からいなくなってしまったのか?」という疑問です。そこで、次はこの疑問に対する答えを探っていきたいと思います。

使徒はいつ、どうして教会からいなくなったのか

NARが主張する「使徒職の回復」という言葉からもわかるように、教会史の中で、使徒は教会に長い間いませんでした。この点について、カリスマ派の神学者、ウェイン・グルーデム(1948年~。米フェニックス神学校教授、元トリニティー神学校教授)は次のように証言しています。

特筆に値するのは、教会史の中の偉大な指導者はだれも、アタナシウスもアウグスティヌスも、ルターもカルバンも、ウェスレーもホイットフィールドも、自分のことを「使徒」と名乗ることはなかったし、周りが自分を使徒と呼ぶことを許すこともなかったという点である。近現代に自分を「使徒」と呼ぶ人があれば、その人は高ぶりやうぬぼれ、また人が受けるにふさわしいよりもはるかに大きい教会内の権威を得たいという、行きすぎた野心と欲望に突き動かされているのではないかとすぐに疑われることになる。8

グルーデムが証言するように、教会の長い歴史の中で使徒がいなかったとすると、具体的にいつ頃いなくなったのでしょうか。グルーデムが最初に挙げているアタナシウスは、325年のニケーア公会議で活躍した紀元4世紀頃の人ですから、それ以前の教会の状況はどうだったのでしょうか。そこで、使徒がいた初代教会の直後の時代(紀元1~2世紀)にさかのぼって、当時の教会を指導した教会教父(Church Fathers)の証言を見ることにしましょう。

使徒的教父の証言

初代教会の直後の時代に活躍した教父として、次の3人が知られています9

  • ローマのクレメンス(35年頃~99年):ローマ教会の司教。ピリピ4:3で言及されているクレメンスと同一人物とも言われる10
  • アンテオケのイグナティオス(35年頃~115年頃):アンテオケ教会の司教。使徒ヨハネの弟子と言われている11
  • スミルナのポリュカルポス(69年頃~155年頃):スミルナ教会の司教。使徒ヨハネの弟子と言われている12

ここに挙げた教父たちは、「使徒的教父(Apostolic Fathers)」と呼ばれ、十二使徒に直接教えられた世代の教会指導者です。この人々の記録を調べれば、初代教会の使徒のすぐ後の時代はどうだったかがわかるはずです。

この中のローマのクレメンスについて、同じく教会教父の一人であるリヨンのエイレナイオス(紀元130年頃~202年)は次のように証言しています。

祝福された使徒たちは、教会の土台を据えて建て上げ、リノスの手に司教職を委ねた。このリノスについては、パウロがテモテへの書簡で言及している。このリノスを引き継いだのがアナクレトゥスである。その後、使徒から数えて3番目に、クレメンスに司教職があてがわれた。クレメンスは祝福された使徒たちと会い、会話を交わしたことがある人で、その耳で聞いた使徒たちの説教が、いまだ心の中で響いていたと言うことができる。また、その目の前で、使徒たちの伝統が伝えられたのである。クレメンスだけでなく、当時は使徒たちから教えを受けた人がたくさんいた。13

エイレナイオスは、もう一人の使徒的教父であるポリュカルポスについても次のように語っています。

ポリュカルポスは、使徒たちから教えを受け、キリストを見た人々と話をしただけではなく、アジアの使徒たちによってスミルナの教会の司教に任命された。ポリュカルポスには私も会ったことがあって、この地上で長く生きて老境に達した後に、栄光に満ちた高貴な殉教を遂げ、地上生涯を終えた。ポリュカルポスはいつも使徒から学んだことを教え、それを教会が継承してきた。その教えだけが真実である。14

エイレナイオスは、クレメンスもポリュカルポスも使徒から直接教えを受けたと証言しています。また、それぞれが教会の指導者に任命されたとも語っています。この二人は、使徒の後継者として、使徒に任命されたのでしょうか。いいえ、二人が任命されたのは「司教職」です。司教とは、新約聖書で言うところの「監督」にあたる職です。

クレメンスに関するエイレナイオスの証言に戻ってください。クレメンスの2代前、使徒のすぐ後の指導者であるリノス(2テモテ4:21参照)も、任命されたのは「司教職」です。この文章で、使徒のことは「使徒」と呼ばれていますので、司教が使徒であるはずがありません。また、「使徒から数えて3番目」という言い方を見ても、エイレナイオスは使徒の後を継いだ人々は使徒ではないと考えていることがわかります(ここに挙げられた人がみな使徒であれば「使徒から何番目」という言い方はできない)。ポリュカルポスについても、使徒ではなく「司教に任命された」と言われています。

残ったアンテオケのイグナティオスの証言も見てみましょう。使徒的教父のイグナティオスは次のように語っています。

私は、ペテロやパウロのように、あなた方に命令はしません。彼らは使徒です。私は罪ある者です。彼らは自由です。私は今に至るまでしもべです。15

これを見ると、イグナティオスも自分のことを使徒とはまったく考えていません。むしろ、使徒と自分とは違うことを強調しています。

以上見てきたように、クレメンスも、ポリュカルポスも、イグナティウスも、使徒には任命されていなかったことを見ました。教会教父の証言を読んでいくと、そこに見るのは、同じ教会の指導者ではあるが、使徒と自分たちは違う、という明確な意識です。ほかにも使徒的教父と呼ばれる人はいますが、使徒として任命されたと記録されている人はいません。

使徒的教父について、米国の福音派神学者ジョン・マッカーサー(グレースコミュニティー教会)は次のように語っています。

教会史にもう一度目をやり、新約時代の直後に生きた教会指導者の証言を見てみると、初期の教会教父は、自分たちのことを使徒とは考えず、「使徒たちの弟子」であると考えていた。教会教父は、使徒のことを唯一無二の存在と認識しており、使徒の時代が終わった後、教会は長老(牧師と司教を含む)と執事によって治められていた。紀元90年代に、ローマのクレメンスは、使徒たちはみずからの働きの「初穂を、その後に信じる者たちのために、司教や執事に任命した」と書き記している。同じくイグナティオス(紀元35~115年)は、アンテオケ人への書簡の中で自分は使徒ではないと語り、こう記している。「私は、自分が使徒であるかのように、こうした点について命じることはしません。ただ、同じ主にあるしもべとして、こうしたことを思い出させようとしているのです」16

使徒がいなくなった理由

ここまで見てくると、使徒はいつ教会からいなくなってしまったのかという疑問に答えることができます。それは、「初代教会の使徒がいなくなった時から」です。新約聖書で活躍した使徒たちがすべて天に召されると、地上に使徒はいなくなりました。では、どうして使徒は教会からいなくなってしまったのでしょうか。新約聖書と教会教父の証言を見ると、それは初代教会の使徒が後任の使徒を任命しなかったからということになります。

なぜ十二使徒やパウロは後任の使徒を任命しなかったのでしょうか。エペソ4:13で、パウロは教会が「信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」まで使徒が必要と言っているはずではありませんか。それにもかかわらず、パウロが後継者となる使徒を任命したという記録は新約聖書にも教会史の文献にも出てきません。パウロは、愛弟子であるテモテやテトスを一貫して「兄弟」と呼び、使徒とは一度も呼んでいません(2コリント1:1、コロサイ1:1、2コリント2:13参照)。また、テモテやテトスに監督、長老、執事を任命するように言っていますが、使徒の任命については何も語っていません。なぜでしょうか。いつの時代も使徒が必要であれば、そう言っている本人のパウロが後任の使徒を任命していないのは矛盾ではないでしょうか。

いいえ。矛盾していません。このシリーズの第1回目の学びで、使徒には「主から直接任命された」という共通条件があることを指摘しました。パウロはガラテヤ1:1でこう語っています。

1 使徒となったパウロ──私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです──

パウロをはじめ、使徒とはみな、使徒は主イエス(または父なる神)が直接任命するもので、人は介入できないことを理解していたのです。つまり、使徒たちは、自分には後継者となる使徒を任命する権威は与えられていないことをよく認識していました。そして、背教したユダの代わりに十二使徒になったマッテヤを除き、神も使徒の後任を任命しなかったのです。それは、パウロ以降、使徒が任命されたという記録が新約聖書にも、教会教父の証言にも出てこないことに表れています。

MEMO
ローマ帝国がキリスト教を国教化した後の時代に、ローマ・カトリック教会が「使徒集団のリーダーであるペテロの使徒職をローマ教皇が継承している」という主張を展開するようになります。しかし、この主張は先ほど見たような教会教父の証言と矛盾するため、信憑性に欠けます。

それでは、なぜ神は次世代の使徒を立てなかったのでしょうか。その理由は、これも第1回目の記事で見ましたが、「復活したイエスを目撃している」というもう1つの使徒の共通条件にあると思われます。これは、イエスの復活の証人となるために必要な条件でした(使徒1:22、使徒2:24~32、3:15、4:2、4:10、4:33、5:30~32、10:39~41、13:30~37、17:3、17:18、17:31、26:8、26:23)。そして、初代教会の使徒は、証人としての役割を立派に果たし、ユダヤ人も異邦人も、その証言を信じてたくさんの人が救われました。つまり、イエスの復活の証人としての役割は、初代教会の使徒が忠実に果たし、完了したのです。そのため、後任の使徒が任命されることはなかったのです。

以上見てきて、「使徒がそれほど教会に必要な存在なら、いつ、どうして教会からいなくなってしまったのか?」という疑問に対する答えを次のようにまとめることができると思います。

  • 使徒は、初代教会の使徒がいなくなった時点で、地上からいなくなった。
  • 初代教会の使徒も、神ご自身も後任の使徒を任命しなかった。
  • 後任の使徒が任命されなかったのは、使徒にはイエスの復活の証人となるという役割があり、その役割は後の時代の人では果たすことができないためだと思われる。

使徒も神ご自身も後任の使徒を任命しなかったとしたら、使徒職の回復を主張するNARが聖書的根拠として引用するエペソ4:11などの聖句はどう解釈すればよいのでしょうか。使徒と預言者は、教会を一致と成長に導くために必要なのではないのでしょうか。この点を次に見ていきましょう。

NARが使徒職の回復を主張する根拠とする聖書箇所の解釈

先ほど、ピーター・ワグナーの言葉を引用して、使徒職の回復の根拠となる中心聖句はエペソ4:11、エペソ2:20、1コリント12:28であることをみました。それでは、この3つの聖句を一つひとつ吟味していくことにします。

エペソ4:11の解釈

ピーター・ワグナーは、エペソ4:11を中心聖句に挙げていますが、13節までをひとかたまりとして解釈しています。そのため、ここではそれにならってエペソ4:11~13を引用して解釈することにします。

11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。 12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、 13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

先ほど、ピーター・ワグナーが次のように言っていることを紹介しました。

イエスは、聖徒を整え、奉仕の働きをさせるために使徒、預言者、伝道者、牧師、教師を教会に与えてくださったという言葉の後に、実はこの人々が必要な期間が告げられている。それは、「信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するまで」である(エペソ4:13)

この聖句の「まで」という言葉に注目してください。ワグナーの原文(英語)で使われている「Until」も、それに対応するエペソ4:11の原文(ギリシャ語)の「Mechri(メクリ)」という言葉も、「ある時点まで継続して」という意味があります。つまり、この箇所は「使徒と預言者は、教会が誕生して以降、教会が一致し、完全に成長するまで継続して与えられる」という意味になります。しかし、これまで見てきたように、初代教会以降、使徒は長い間いませんでした。NARの言うように、終わりの時代になって使徒が回復したと考えると、長い教会史の最初と最後にしか使徒がいないことになります。それでは、この聖句の「まで」という言葉の意味と合いません。

MEMO
ギリシャ語の「メクリ」が使われているほかの聖書箇所を見ても、ワグナーのような解釈は不可能であることがわかります。たとえば、次のローマ5:14でも「メクリ」が使われています(強調部分)。

14 ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。

最初と最後だけ条件が当てはまればよいとすると、上記の聖句は「死はアダムとモーセを支配したが、その間に生きた人々は支配しなかった」と解釈できることになります。しかし、それでは文が成り立ちません(文の後半とつながらない上に、事実に反する)。

使徒が教会史の最初と最後にしかいないとなると、この聖句どおりには使徒は教会に与えられなかったことになります。しかし、ちょっと待ってください。11節では「キリストご自身が」使徒や預言者をお立てになったと書かれています。そうすると、キリストがこの聖句に反して使徒を与えなかったということになります。特に、使徒は人間を介さずに任命されると言われていますので(ガラテヤ1:1)、この聖句が実現しなかったのはひとえにキリストの責任ということになります。キリストはこの聖句の実現に失敗したのでしょうか。

この問いに対する答えを出すには、いったんエペソ2:20の解釈に進む必要があります。

エペソ2:20の解釈

先ほど見たワグナーの著書でも言われていたことですが、エペソ4:11~13は、それに先行するエペソ2:20も視野に入れて読み解く必要があります。エペソ2:20では次のように言われていました。

20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。

ここでは使徒と預言者は「土台」と言われており、他の三役者(伝道者、牧師、教師)とは明確に区別されています。つまり、使徒、預言者と残りの三役は、切り離して考える必要があります。

ここで使われている「土台」というアナロジー(類比)に注目してみましょう。まず、土台は何度も築く必要はありません。一度土台を据え、その上に建物を建て始めたら、もう一度土台を築き直すということはふつうしません。もしそうするのであれば、その上にすでに建っている建物も取り壊す必要があります。

この土台の礎石は、キリストです。つまり、使徒と預言者は、キリストと一体となって教会を支えていることになります。ここで注目する必要がある点は、礎石であるキリストは現在地上にはいないということです。キリストは復活された後、オリーブ山から昇天し、再臨の時まで天にとどまっておられます(使徒3:21)。土台の礎石であるキリストが地上にいないのであれば、土台である使徒と預言者も地上にいる必然性はないのではないでしょうか。むしろ、礎石であるキリストと共に、教会の土台を築き終えた今は、使徒と預言者も天にいると考えた方が自然なのではないでしょうか。

それでは、もし使徒と預言者が地上にいないとすると、どのようにして地上にある教会を一致と成長に導くことができるのでしょうか。これまで見てきた使徒と預言者に関するポイントをもう一度見てみましょう。

(1)使徒と預言者は、教会の誕生から最後まで、教会を継続して一致と成長に導いている(エペソ4:11~13)。
(2)使徒と預言者は、教会の土台である(エペソ2:20)。土台は何度も築く必要はない。

ワグナーの言うように「使徒と預言者」を各時代に与えられる人と考えると、使徒がいなかった時代があるので(1)と矛盾し、入れ替わり立ち替わり現れては土台を築くことになるので(2)の土台という言葉の意味とも矛盾します。しかし、次のように考えるとエペソ4:11と2:20を矛盾なく解釈できます。

キリストは、初代教会に使徒と預言者を与えました。使徒と預言者は、キリストの生涯と復活を証しし、キリストの教えによって初代教会の土台を据えました。使徒と預言者の証言や教えは福音書や書簡として残り、それをまとめたものが新約聖書となりました。キリストは、初代教会には使徒と預言者を与え、それ以降の教会には使徒と預言者の教えを新約聖書として与えることで、エペソ4:11~13の約束を果たされました。キリストは失敗していません。

教会では、聖餐式、洗礼式などの聖礼典で新約聖書を引用します。未信者に伝道するときも、新約聖書を引用します。牧師が教会で説教するときも、新約聖書を引用します。デボーションの時にも、クリスチャンは新約聖書を読みます。今は地上にいなくても、初代教会の使徒と預言者は、新約聖書を通して今でも立派に教会を建て上げているのです。

NARは、新約聖書という教会に欠かせない存在を無視して、使徒と預言者の必要性を訴えます。しかし、長い歴史の中で、教会には新約聖書という土台がありました。使徒や預言者は地上にいなくても、その言葉は地上に存在して、教会を建て上げ続けていたのです

最後に、残った聖句である1コリント12:28の解釈に進みましょう。

1コリント12:28の解釈

1コリント12:28では、次のように言われています。

28 そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行う者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。

この箇所について、ピーター・ワグナーは次のように語っています。

この節のプロトン(第一)、デューテロン(第二)、トリオン(第三)という数は、ここに挙げられた賜物や役職はランダムに選ばれたものではないことを示している。この場合のプロトンは、序列や順序として使徒が最初に来ると解釈すべきであって、必ずしも重要性や階層において最上位に来るというわけではない。階層というのは古い革袋の概念だ。簡単に言うと、使徒のいない教会は、使徒がいる教会ほどうまく機能しないということである。17

ここで違和感を感じるのは、先ほど引用したピーター・ワグナー自身の言葉との間にあるギャップです。上記と同じ著書で、ワグナーは次のように語っていました。

礎石は決定的に重要である。礎石は最も重要なブロックで、土台を結びつけてまとめる役割を果たす中心的な石であり、その後の建築に使われるブロックはすべて、この礎石を目印にして据えられるからである。しかし、教会にイエスだけがいて、使徒と預言者がいなければ、堅固な建物を建て上げるための土台がなくなる。両者は手を取りあって進むもので、どちらが欠けてもいけないのである

この言葉では、使徒と預言者のいない教会は土台のない建物のようなもので、使徒と預言者は教会に欠かせないと語っています。一方、1コリント12:28の解説では、「使徒のいない教会は、使徒がいる教会ほどうまく機能しない」という、実になまぬるい表現をしています。使徒は教会に「欠かせない」存在なのでしょうか。それとも、いなくても教会は成り立つが、いるともっとうまく機能するという程度の存在なのでしょうか。この箇所でワグナーがトーンダウンしている理由は、その後に続く文章を読むと納得できます。

プロテスタントの教団教派は、過去五百年間、基本的には使徒や預言者ではなく、教師と治める者(administrators)によって治められてきた。(中略)過去2世紀の間、1コリント12:28に逆行する教会組織しか持たなかったのに、世界の大半に福音を伝えることができたことは驚くべきことである。18

ここで言われているような、使徒と預言者がいなくても福音が全世界に宣べ伝えられてきた事実を前にして、ワグナーは「使徒と預言者は不可欠」というみずからの主張をトーンダウンせざるをえなくなったと思われます。その結果、前言と矛盾するような発言となっているのです。

土台のない建物を建てることは致命的です。これまで教会が使徒と預言者という土台なしに建てられてきたとすると、現在のように教会が全世界に広がっている歴史的事実と矛盾します。土台がなければ、とっくの昔にキリスト教会は崩壊していたはずです。そう考えると、これまでも教会にはしっかりとした土台があったと考えるのが当然です。先ほど指摘したように、新約聖書という土台があって、その上に教会が建て上げられてきたので、福音が世界中に広がってきたのです。

まとめ

ピーター・ワグナーの言うように、使徒と預言者は教会の土台であるので、教会の一致と成長のためには欠かせないという主張はその通りです。しかし、キリストが今地上にいないように、使徒と預言者も地上にいる必要はありません。使徒と預言者は、地上にいなくても、新約聖書を通して教会を建て上げています。新約聖書に記された使徒と預言者の教えは、今も昔も教会を一致と成長に導いています。新約聖書は教会の土台であり、その土台の上に教会が建て上げられています。

以上で、NARが使徒職の回復を主張する根拠となっている聖句を検討しました。その結果、現代の教会に使徒と預言者を回復する必要があるという主張は聖書的根拠を欠いていることを示しました。次は、NARのような現代の使徒運動は教会の分裂を招くことを論証していきたいと思います。

現代の使徒は教会の分裂を招く

NARは、現在のキリスト教会がさまざまな教団教派に分かれていることを批判し、それは教会の一致と成長のために与えられている使徒と預言者がこれまでの教会にいなかったことが原因の一つであるとします。そして、使徒と預言者の下で教会は一致するべきであると主張するのです。

しかし、冒頭で紹介した後の雨運動のように、使徒の回復運動は教会に分裂をもたらします。その理由を次に説明します。

現代の使徒は「新しい土台」を築いている

使徒と預言者は初代教会でいなくなり、その教えと預言をまとめた新約聖書はすでに完成して教会の土台となっています。そのように「新約聖書が教会の土台」と考えると、現代の使徒が築こうとしているのはそれとは別の土台ということになります。つまり、今「新しい啓示」によって教会の土台を作ろうとしている使徒と預言者は、初代教会の使徒とは別の「新しい土台」を作っていることになります

実際に、ピーター・ワグナーの盟友でNARの「預言者」ビル・ハモンは次のように語っています。

今、私たちが目にしている預言者と使徒の出現という現象は、戦略的な理由があって起きています。(中略)私たちは、新しい御国の時代を近付けるための新しい土台を据えるために、現在のポジションに置かれているのです。まったく新しい秩序のディスペンセーションが出現しようとしていて、産みの苦しみをしています。(中略)時代は、恵みのディスペンセーションから、支配(dominion)のディスペンセーションへと移行しようとしているのです。19【強調筆者】

ビル・ハモンは、自分は神から直接啓示を受けることのできる「預言者」であると主張しています。そのため、根拠となる新約聖書の聖句を引用することもなく、「新しい秩序」や「新しいディスペンセーション(時代)」が始まろうとしていると大胆に主張しています。しかし、そのようなことは新約聖書に根拠を見出すことができないもので、まさに「新しい土台」です。

問題は、ハモンの提示する「土台」には裏付けがないことです。新約聖書には、旧約聖書の預言という裏付けがありました。また、旧約聖書の預言は、それを語った預言者が近い将来のことを預言し、その預言が100%成就することで、神が語られたことばであることが裏付けられました。神のことばである聖書ですら、そのように何重にも裏付けが与えられているのに、ビル・ハモンの言葉にはそのような裏付けが何もないのです。NARは、このような土台の上に教会を築こうとしています。

MEMO
NARの預言者は、預言の的中率が低いことで知られています。たとえば、NARの預言者シンディ・ジェイコブスが代表を務める団体が発行する「The Word of the Lord(主のみことば)」では、2005年に30万人の犠牲者を出すパンデミックがアジアで発生し、アメリカのロスアンゼルスで大地震や洪水が起きると預言されていました。しかし、実際にはそのようなことは起きませんでした。詳しく知りたい方は、ウィリアム・ウッド著『日本の教会に忍び寄る危険なムーブメント』(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ、2018年)P.73~79をご覧ください。

現代の使徒は、新約聖書から人々を遠ざける

これまで見てきたように、現代の使徒と預言者は「新しい啓示」という、新約聖書とは別の土台を築くため、教会の真の土台である新約聖書から人々を遠ざけてしまいます。分厚い聖書を読まなくても、目の前にいる使徒が神のみこころを語ってくれるのですから、聖書を時間をかけて研究するよりも、現代の使徒が語る言葉に自然と耳を傾けるようになるのが人間というものだと思います。

それだけにとどまらず、ピーター・ワグナーは、新しい啓示に耳を傾けず、聖書に固執する人は悪霊の影響を受けていると語り、「聖書のみ」の原則に立つクリスチャンを批判しています。ワグナーは、「宗教の霊」というサタンの使い(悪霊)がいて、「宗教的な手段を使って変化を妨げ、現状を維持する役目を負っている」20と語った後、次のように聖書信仰に立つ指導者を批判します。

宗教の霊は、私たちを精神的に疲れ果てさせ、御霊の言うことを聞けないようにしたいと願っている。そのため、宗教的指導者が、御霊が今語っていること(現在形)ではなく、御霊が前の時代に語ったこと(過去形)に集中するように仕向けているのである。21

つまり、ワグナーによると、現代の使徒と預言者の語る新しい啓示に耳を傾けず、聖書のみに信頼する人は、悪霊の影響下にいるということになります。このように、ワグナーは人々を聖書から遠ざけ、現代の使徒や預言者に聞き従わせようとしています。

しかし、先ほど申し上げたように、新約聖書は教会の土台です。新約聖書に記された使徒と預言者のことばに従うことで、教会は一致し、成長することができるのです。ところが、現代の使徒は、新しい啓示によって新しい土台を築くことで、教会の真の土台から人々を遠ざけてしまっています。それは、クリスチャンが主に従って一致し、成長することを妨げることになります。

私が冒頭で「現代の使徒は教会の分裂を招く」と言ったのはこのような意味です。新約聖書の語る声に耳を傾け、初代教会の使徒と預言者という土台に立つクリスチャンは、現代の使徒が語る言葉を受け入れることができません。現代の使徒が、クリスチャンを新約聖書とは違う「新しい土台」に立たせようとするためです。その土台は、新約聖書とは違う土台なので、パウロが言う「別の福音」に導く可能性があります(ガラテヤ1:7~10)。そのため、現代の使徒運動は、「新しい啓示」に従う人々と、聖書のみの信仰に立つ人々の間で分裂を引き起こすことになるのです。

MEMO
以上のように、教会の土台を「普遍的教会」(時代を超えた教会全体のことで、「目に見えない」教会とも呼ばれる)の土台として論じると、NARが言っているのは普遍的教会の土台ではなく、新しい領域(地域)で教会を建て上げることであって、目に見える「地域教会」の土台のことである、という反論があるかもしれません。ピーター・ワグナーの使徒の定義を読むと、NARはそのような理解をしていることがわかります。

「神の訓練と教育を受け、神に立てられた信仰ある指導者で、神の国を推進する目的のために、宣教の特定領域に教会の土台となる統治組織を据える権威を持っており、その働きを、聖霊が諸教会に語りかけることばに耳を傾け、そのことばに沿った秩序をもたらすことによって実現する者」22

パウロも、地域教会の基礎という意味で「土台」という言葉を使っている箇所がありますので、聖書的根拠もあります(ローマ15:20)。

20 このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。

この箇所は、明らかに普遍的教会ではなく、地域教会のことを語っています。しかし、この聖句を根拠とすると、パウロは「キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めた」とありますので、現代の使徒はまだ宣教が行われたことがない僻地にしかいないことになります。

ただ、エペソ2:20は、「キリストにあって異邦人もユダヤ人と共に同じ教会に入れられ、一つのからだとなる」ということを教える文脈の中で語られています(エペソ2:11~3:6参照)。これでわかることは、エペソ2:20が語っているのは地域教会ではなく、普遍的教会のことであるということです。「異邦人とユダヤ人が共に同じ教会に入れられる」というのは、普遍的教会の話です。そのため、エペソ2:20の「土台」についても、地域教会ではなく、普遍的教会に関する言葉と解釈するのが自然です。

結論

シリーズの第1回の記事では、現在、聖書的に自分は使徒だと主張できる人はいないことを確認しました。今回は、NARが使徒職の回復を主張する聖書的根拠を聖書と教会史に基づいて検証し、現代に使徒を回復しなくてはならない聖書的根拠はないこと、現代の使徒運動は教会の分裂を招くことを論証しました。その内容は次のようにまとめることができます。

  • 初代教会の使徒がすべて天に召されると、地上から使徒はいなくなった。
  • 初代教会以降は、使徒と預言者の教えを記した書物(新約聖書)が教会の土台となり、使徒が地上からいなくなった後の時代も教会を建て上げ続けた。
  • 教会の土台である新約聖書は完成しているので、現代の使徒はそれとは別の「新しい土台」を築くことになる。
  • 「新しい土台」は、人々を新約聖書から遠ざける。
  • 「聖書のみ」という原則に立つクリスチャンは、現代の使徒と一致できない。
  • そのため、現代の使徒運動によって教会に分裂が起こる。
  • 教会の一致と成長は、初代教会の使徒と預言者が完成させた新約聖書に従うことで実現する。

この記事を書いた人:佐野剛史


  1. C. Peter Wagner, Apostles Today, Baker Books, 2006 (https://books.google.co.jp/books?id=lSABBQAAQBAJ)。引用文はインターネット上(Google Books)で見つけたもので、ページ番号が振られていませんでした。そのため、インターネット検索で該当箇所を見つけることができるよう原文を記載します。同書からの引用は以下同様です。原文:”In North America, God began to open doors for the emergence of the apostles of the Second Apostolic Age right after World War II. It was around that time when some churches began to recognize the office of apostle. However, the movement eventually sputtered. During those days, terms such as “Latter Rain,” “Restorational Movement,” “Deliverance Evangelism,” and “Shepherding Movement” were used, to name a few. The leaders of those movements had great expectations that what they had started would reform the entire Church in their generation. But it didn’t happen. The majority of those post-World Wat II movements of God no longer exist today; and those that do, have relatively little influence. (改行) However, the leaders of these movements were true pioneers. Their post-World War II apostolic movements were clearly initiated by God Himself.” 
  2. https://en.wikipedia.org/wiki/Latter_Rain_(post%E2%80%93World_War_II_movement)#Joel’s_Army 
  3. What is the Latter Rain Movement? (https://www.gotquestions.org/latter-rain-movement.html)。このほかにも、後の雨運動では多くの「使徒」が異端的な教理を唱えていました。たとえば、終わりの時代には「勝利者」と呼ばれる特別な信者のグループが起こされ、死なない「霊の体」を受けるとする「顕現した神の子どもたち(Manifest Sons of God)」という教えがその例です。 
  4. 1949 General Council of the Assemblies of God USA, Resolution #7. 原文:”We disapprove of those extreme teachings and practices, which being unfounded scripturally, serve only to break fellowship of like precious faith and tend to confusion and division among members of the Body of Christ, and be it hereby known that this 23rd General Council disapproves of the so-called ‘New Order of the Latter Rain’ … 2. The erroneous teaching that the church is built upon the foundation of presentday apostles and prophets.” 
  5. C. Peter Wagner, Apostles Today, Baker Books, 2006 (https://books.google.co.jp/books?id=lSABBQAAQBAJ). 原文:There are three Scripture verses that serve as the primary proof texts for recognizing the gift and office of apostle. Many other texts support this, but these are core: Ephesians 4:11, Ephesians 2:20, and 1 Corinthians 12:28.  
  6. C. Peter Wagner, Apostles Today, Baker Books, 2006 (https://books.google.co.jp/books?id=lSABBQAAQBAJ). 原文:’A major stumbling block in the minds of many who first hear this news of the Second Apostolic Age has been the assumption that once the apostles and prophets completed their work of laying the foundation of the Church in the first couple of centuries, that ended the divine assignment of apostles on Earth – as if they were no longer needed. This deeply entrenched notion cannot be biblically sustained, however, given the statement of Ephesians 4:11. After saying that Jesus gave to the Church apostles, prophets, evangelists, pastors, and teachers for the equipping of the saints for the work of the ministry, the length of time they would be needed is then stated: “Until we all come to the unity of the faith and the knowledge of the Son of God, to a perfect man, to the measure of the stature of the fullness of Christ” (Eph. 4:13). Who in their right mind can claim that we have arrived at that point? The only reasonable conclusion is that we are still in need of all five offices.’ 
  7. C. Peter Wagner, Apostles Today, Baker Books, 2006 (https://books.google.co.jp/books?id=lSABBQAAQBAJ). 原文:A well-known hymn states that “the church’s one foundation is Jesus Christ her Lord.” This is obviously true in a general, theological sense because there would be no Church at all without the Person and work of Jesus Christ. However, in the nuts and bolts of the growth and development of the Church after He ascended and left the earth, Jesus apparently prefers to be thought of not as the foundation but as the cornerstone. The foundation of the Church through the ages is to be made up of apostles and prophets. The cornerstone is essential because it is primary building block, the identifying, central stone that holds the foundation together and guides the laying of all subsequent blocks that go into constructing the building. If a church has Jesus without apostles and prophets, it has no foundation from which to initiate solid building. The two go hand in hand; these cannot be one without the other.  
  8. Wayne Grudem, Systematic Theology (Zondervan, 1994), P. 911 
  9. Church Fathers (https://en.wikipedia.org/wiki/Church_Fathers) 
  10. Pope Clement I (https://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Clement_I) 
  11. Ignatius of Antioch (https://en.wikipedia.org/wiki/Ignatius_of_Antioch) 
  12. Polycarp (https://en.wikipedia.org/wiki/Polycarp) 
  13. Irenaeus, Against Heresies (http://www.earlychristianwritings.com/text/irenaeus-book3.html) 
  14. Irenaeus, Against Heresies, 3:3:4 (http://www.earlychristianwritings.com/polycarp.html) 
  15. The Epistle of Ignatius to the Romans (http://www.earlychristianwritings.com/text/ignatius-romans-longer.html) 
  16. John MacArthur, Strange Fire (Thomas Nelson), p.98 (Kindle 版) 
  17. C. Peter Wagner, Apostles Today, Baker Books, 2006 (https://books.google.co.jp/books?id=lSABBQAAQBAJ). 原文:The numbers in the verse, proton (first), deuteron (second), and trion (third), indicate that this not simply a random selection of gifts and offices. Proton in this instance should be interpreted to mean that apostles are first in order or sequence, not necessarily in importance or hierarchy. Hierarchy is an old-wineskin concept. To put it simply, a church without apostles will not function as well as a church with apostles. 
  18. C. Peter Wagner, Apostles Today, Baker Books, 2006 (https://books.google.co.jp/books?id=lSABBQAAQBAJ). 原文:Protestant denominationalism over the past 500 years has been, for the most part, governed by teachers and administrators, rather than by apostles and prophets… It is fascinating that even though we have had church government backward over the past two centuries according to 1 Corinthians 12:28, we have evangelized so much of the world!  
  19. 1999年10月に開催された「International Gathering of Apostles and Prophets」でビル・ハモンが語ったスピーチの引用。Orrel Steinkamp「The New Apostolic Reformation」より引用(https://cicministry.org/commentary/issue66b.htm) 
  20. Peter Wagner, The Changing Church: How God is Leading His Church into the Future, Regal Books, 2004, P. 19 
  21. 同上 P.21。 
  22. ICALのウェブサイト(https://www.icaleaders.com/about-ical/definition-of-apostle)より(2019年6月29日にアクセス) 

1 COMMENT

ピーター砂川

佐野先生、
ありがとうございました。

わかりやすく丁寧に解説して下さったので、頭の中で整理が出来ました。

佐野先生のお働きに主が報いて
下さいますように。

          シャローム。

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