初代教会から今に至るまで、教会には使徒が与えられているというのは本当ですか?

教会論

現代の「使徒」の主張

使徒は、初代教会以降、いつの時代も教会に与えられ続けてきた。そのため、現在も教会には使徒が存在している。クリスチャンをサタンの抑圧から解放するために、教会は使徒を必要としているのである。

具体例

使徒はいつの時代の教会にもいたことを私は信じて疑わない。不幸なことに、敵の勢力が目に見えない世界でも、目に見える世界でも忙しく立ち働いて、できるだけ神の民を抑圧された状態に置こうとしている。それでも、歴史を振り返ると、グレゴリオス・タウマトゥルゴス、トゥールのマルティヌス、アイルランドの聖パトリック、ヌルシアのベネディクトゥス、聖ボニファティウス、カンタベリーのアンセルムス、サヴォナローラ、ジョン・ウィクリフ、マルティン・ルター、フランシスコ・ザビエル、ジョン・ノックス、ジョン・ウェスレー、ウィリアム・ブース、ウィリアム・ケアリー、ハドソン・テーラーなど、歴史上の偉大な人々が本物の使徒であることをだれが否定できるというのか?1
― C・ピーター・ワグナー

I have no doubt that apostles have been present in the Church throughout its history. Unfortunately, enemy forces have been busily at work, both in the invisible world and in the visible, trying to keep God’s people as subdued as possible. Still, looking back, who could deny that great men such as Gregory Thaumaturgus, Martin of Tours, Patrick of Ireland, Benedict of Nursia, Boniface, Anselm of Canterbury, Savanarola, John Wyclif, Martin Luther, Francis Xavier, John Knox, John Wesley, William Booth, William Carey, Hudson Taylor, and others throughout the centuries were true apostles?

実際

使徒は、初代教会の使徒以降、任命されていない。歴史上で偉大な霊的指導者と認められる人々は、だれも自分のことを使徒だと主張しなかった。反対に、自分が使徒であると主張した人々は、キリスト教の教義から離れ、本来のキリスト教とは異質の宗教を生み出していった。

解説

初代教会以降、教会に使徒はいないことは歴史が証言しています。以下に教会史を振り返ってみましょう。

1. 教会史全般

カリスマ派の著名な神学者、ウェイン・グルーデム(1948年~。米フェニックス神学校教授、元トリニティー神学校教授)は、教会史における使徒の存在について、次のように証言しています。

特筆に値するのは、教会史の中の偉大な指導者はだれも、アタナシウスもアウグスティヌスも、ルターもカルバンも、ウェスレーもホイットフィールドも、自分のことを「使徒」と名乗ることはなかったし、周りが自分を使徒と呼ぶことを許すこともなかったという点である。近現代に自分を「使徒」と呼ぶ人があれば、その人は高ぶりやうぬぼれ、また人が受けるにふさわしいよりもはるかに大きい教会内の権威を得たいという、行きすぎた野心と欲望に突き動かされているとすぐに疑われることになる。2

It is noteworthy that no major leader in the history of the church—not Athanasius or Augustine, not Luther or Calvin, not Wesley or Whitefield—has taken to himself the title of “apostle” or let himself be called an apostle. If any in modern times want to take the title “apostle” to themselves, they immediately raise the suspicion that they may be motivated by inappropriate pride and desires for self-exaltation, along with excessive ambition and a desire for much more authority in the church than any one person should rightfully have.

このようにグルーデムは、「教会史を通して使徒はいた」というワグナーの主張を明確に否定しています。また、ワグナー自身も、「現代にも使徒がいるかもしれないという考えは、私が学んでいた神学校では一度も話されたことがなく、そのようなことをほのめかす言葉すら聞いたことがなかった3」と語ってます。つまり、ワグナー自身も、自分が神学校で学んでいた時には現在は使徒はいないということがキリスト教会の常識であったことを証言しています。

そうした事実があるにもかかわらず、ワグナーは先ほどの引用文で「(キリスト教の)歴史上の偉大な人々が本物の使徒であることをだれが否定できるというのか」と語っています。ところが、そうした人々が使徒であったことや、自分を使徒と主張した証拠を著書の中で何一つ示せていないのです。

MEMO
ちなみに、聖書によると、偉大な働きをすれば使徒と認められるわけではありません。新約聖書には、使徒であることを証明するための3つの条件が記されています。この3条件については、Q&A「現代に使徒は本当にいるのですか?」をご覧ください。

2. 教会教父の証言

もしワグナーの「初代教会以降、使徒はいつの時代も与えられている」という主張が正しければ、初代教会の使徒は、使徒の存在が途切れないようにするために、後継者となる使徒を立てたはずです。そのため、ワグナーの主張が正しいかどうかは、初代教会直後の教会指導者の証言を読むことでもわかります。

そこで、十二使徒に直接教えられた世代の教会教父の証言を見ることにしましょう。初期の教会教父(「使徒的教父」と呼ばれる)としては、次の3人が知られています4

  • ローマのクレメンス(35年頃~99年):ローマ教会の司教。ピリピ4:3で言及されているクレメンスと同一人物とも言われる5
  • アンテオケのイグナティウス(35年頃~115年頃):アンテオケ教会の司教。使徒ヨハネの弟子と言われている6
  • スミルナのポリュカルポス(69年頃~155年頃):スミルナ教会の司教。使徒ヨハネの弟子と言われている7

この3人の証言を順に見ていきしましょう。

(1)ローマのクレメンス

ローマのクレメンスについては、同じく教会教父の一人であるリヨンのエイレナイオス(紀元130年頃~202年)が次のように証言しています。

祝福された使徒たちは、教会の土台を据えて建て上げ、リノスの手に司教職を委ねた。このリノスについては、パウロがテモテへの書簡で言及している。このリノスを引き継いだのがアナクレトゥスである。その後、使徒から数えて3番目に、クレメンスに司教職があてがわれた。クレメンスは祝福された使徒たちと会い、会話を交わしたことがある人で、その耳で聞いた使徒たちの説教がいまだ心の中で響いていたと言えるだろう。また、その目の前で、使徒たちの言い伝えが教えられたのである。クレメンスだけでなく、当時は使徒たちから教えを受けた人がたくさんいた。8

The blessed apostles, then, having founded and built up the Church, committed into the hands of Linus the office of the episcopate. Of this Linus, Paul makes mention in the Epistles to Timothy. To him succeeded Anacletus; and after him, in the third place from the apostles, Clement was allotted the bishopric. This man, as he had seen the blessed apostles, and had been conversant with them, might be said to have the preaching of the apostles still echoing [in his ears], and their traditions before his eyes. Nor was he alone [in this], for there were many still remaining who had received instructions from the apostles.

クレメンスに関するエイレナイオスの証言によると、クレメンスは使徒ではなく、「司教」に任命されました。司教とは、新改訳聖書で言うところの「監督」にあたる職です。また、クレメンスの2代前、使徒のすぐ後の指導者であるリノス(2テモテ4:21参照)も、任命されたのは「司教職」です。この文章で、使徒のことは「使徒」と呼ばれていますので、司教が使徒であるはずがありません。また、「使徒から数えて3番目」という言い方を見ても、エイレナイオスは使徒の後を継いだ人々は使徒ではないと考えていることがわかります(ここに挙げられた人がみな使徒であれば「使徒から何番目」という言い方はできない)。

(2)ポリュカルポス

エイレナイオスは、もう一人の使徒的教父であるポリュカルポスについても次のように語っています。

ポリュカルポスは、使徒たちから教えを受け、キリストを見た人々と話をしただけではなく、アジアの使徒たちによってスミルナの教会の司教に任命された。ポリュカルポスには私も会ったことがあって、この地上で長く生きて老境に達した後に、栄光に満ちた高貴な殉教を遂げ、地上生涯を終えた。ポリュカルポスはいつも使徒から学んだことを教え、それを教会が継承してきた。使徒の教えだけが真実である。9

Polycarp also was not only instructed by apostles, and conversed with many who had seen Christ, but was also, by apostles in Asia, appointed bishop of the church in Smyrna, whom I also saw in my early youth, for he tarried [on earth] a very long time, and, when a very old man, gloriously and most nobly suffering martyrdom, departed this life, having always taught the things which he had learned from the apostles, and which the Church has handed down, and which alone are true.

エイレナイオスは、クレメンスもポリュカルポスも使徒から直接教えを受けたと証言しています。また、それぞれが教会の指導者に任命されたとも語っています。初代教会の後の有力な指導者であったこの二人は、使徒の後継者として、使徒に任命されたのでしょうか。いいえ、二人が任命されたのは「司教職」でした。

(3)アンテオケのイグナティウス

残ったアンテオケのイグナティウスの証言も見てみましょう。イグナティウスは次のように語っています。

私は、ペテロやパウロのように、あなた方に命令はしません。彼らは使徒です。私は罪ある者です。彼らは自由です。私は今に至るまでしもべです。10

I do not, as Peter and Paul, issue commandments unto you. They were apostles; I am but a condemned man: they were free, while I am, even until now, a servant.

これを見ると、イグナティウスも自分のことを使徒とはまったく考えていません。むしろ、使徒と自分とは違うのだということを強調しています。

以上のように、初代教会直後の三大教父であるクレメンス、ポリュカルポス、イグナティウスはみな使徒には任命されていなかったことを見ました。教会教父の証言を読んでいくと、そこに見るのは、同じ教会の指導者ではあるが、使徒と自分たちは違う、という明確な意識です。

教会時代初期の教父について、米国の福音派神学者ジョン・マッカーサー(グレースコミュニティー教会)は次のように語っています。

教会史にもう一度目をやり、新約時代の直後に生きた教会指導者の証言を見てみると、初期の教会教父は、自分たちのことを使徒とは考えず、「使徒たちの弟子」であると考えていた。教会教父は、使徒のことを唯一無二の存在と認識しており、使徒の時代が終わった後、教会は長老(牧師と司教を含む)と執事によって治められていた。紀元90年代に、ローマのクレメンスは、使徒たちはみずからの働きの「初穂を、その後に信じる者たちのために、司教や執事に任命した」と書き記している。同じくイグナティウス(紀元35~115年)は、アンテオケ人への書簡の中で自分は使徒ではないと語り、こう記している。「私は、自分が使徒であるかのように、こうした点について命じることはしません。ただ、同じ主にあるしもべとして、こうしたことを思い出させようとしているのです」11

When we look again at church history—considering the testimony of those church leaders who lived shortly after the New Testament age ended—we find that the earliest church fathers did not view themselves as apostles, but rather as the “disciples of the apostles.” They understood the apostles were unique, and that after the apostolic age ended, the church was governed by elders (including pastors or bishops) and deacons. Clement of Rome, writing in the 90s, stated that the apostles “appointed the first-fruits” of their labors “to be bishops and deacons of those who would afterwards believe.” Ignatius (c. AD 35–115) similarly clarified in his Epistle to the Antiochians that he was not an apostle. He wrote, “I do not issue commands on these points as if I were an apostle; but, as your fellow-servant, I put you in mind of them.”

以上のように、初代教会の使徒は後継者となる使徒を任命しなかったことが、教会教父の証言によって明らかにされています。

3. 使徒性を主張した人々

しかし、歴史上で使徒を名乗る人物や、使徒職の回復を訴える人がいなかったわけではありません。使徒職の回復運動について、教会史の専門家であるペンテコステ派の神学者ビンソン・サイナン(1934年~。リージェント大学神学部教授)は次のように語っています。

私は初めから、教会内で最高の権威をだれにもチェックされずに行使する使徒職の回復を主張する運動には警戒をしていた。その権威が乱用される危険性があまりにも大きいからである。教会史を通して、教会に使徒職を回復しようとする試みは何度もあったが、異端に走ったり、大きな災いをもたらしたりする結果になることが多かった。12

From the outset, I was concerned about any movement that claims to restore apostolic offices that exercise ultimate and unchecked authority in churches. The potential for abuse is enormous. Throughout church history, attempts to restore apostle as an office in the church have often ended up in heresy or caused incredible pain.

使徒職の回復運動について、サイナンは次のようにも語っています。

自分は使徒であると主張した人々は低い評価しか受けていなかったにもかかわらず、使徒職が今も継承されているという考え方は、教会史の中でたびたび現れた。たとえば、3世紀にマニ教を創始したペルシャのマニ(紀元216~274年)は、みずからのことを「光の使徒」と呼んだ。マニは、自分はイエス・キリストの使徒で、地上に現れる最後の使徒であると語っていた。二元論的な信仰によって教会から異端として退けられたマニのように、教会史上で自分は新たな使徒だと主張したほとんどの人は、異端の烙印を押され、教会から破門された。
事実、(訳注:イスラム教の創始者)ムハンマドもみずからのことを最後の使徒であり、永遠の預言者であると主張した。そのほかにも、英国のアービング派や、アメリカのモルモン教など、いわゆる終末時代の使徒と呼ばれる人々もここ何世紀かに現れた。しかし、こうしたみずからを使徒と名乗る人々は、主流派のキリスト教から退けられてきた。13

In spite of the low esteem shown to those who claimed to be apostles, the idea of a continuing apostleship continued to surface sporadically throughout church history. For example, Mani of Persia (a.d. 216–274), founder of the Manichee sect in the third century, called himself the “Apostle of Light.” He said he was the last apostle of Jesus Christ who would ever appear. Like Mani, whose dualistic religion was rejected by the Church as heretical, most people in Church history who claimed to be new apostles have been branded as heretics and excommunicated from the Church.
In fact, Mohammad also claimed to be the last apostle and prophet for all time. Other so-called end-time apostles, such as the Irvingites in Britain and the Mormons in America, have appeared over the centuries. But these self-proclaimed apostles have been rejected by mainstream Christianity.

このように、歴史上で自分が使徒であると主張した多くの人々は、キリスト教の教義から離れ、本来のキリスト教とは異質の宗教を生み出していきました。

結論

以上で、使徒は初代教会に与えられたもので、それ以降は存在しないということがわかりました。初代教会の使徒が築いた土台である新約聖書が与えられている今は、すでに伝えられている福音を守り、人々に忠実に語っていくことが求められている時代です。このことは、新約聖書を見るとわかります。にせ教師に対する警戒を呼びかけるユダの手紙には、次のように書かれています(3節)。

3 愛する者たち。私たちがともにあずかっている救いについて、私はあなたがたに手紙を書こうと心から願っていましたが、聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。

この聖句からわかるように、ユダがこの手紙を書いた時点で、使徒が教えた信仰はすでに過去形になっています(「ひとたび伝えられた信仰」)。つまり、新しい使徒に従い、新しい教えを追い求めるのではなく、すでに初代教会の使徒から伝えられている教えをしっかりと守りなさいと教えられているのです。

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記事を書いた人:佐野剛史

  1. C. Peter Wagner, Apostle Today, (Baker Publishing Group, 2006), p.7 (Kindle版)

  2. Wayne Grudem, Systematic Theology (Zondervan, 1994), P. 911

  3. C. Peter Wagner, Apostles Today, (Baker Publishing Group, 2012), p.6 (Kindle 版)

  4. Church Fathers (https://en.wikipedia.org/wiki/Church_Fathers)

  5. Pope Clement I (https://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Clement_I)

  6. Ignatius of Antioch (https://en.wikipedia.org/wiki/Ignatius_of_Antioch)

  7. Polycarp (https://en.wikipedia.org/wiki/Polycarp)

  8. Irenaeus, Against Heresies (http://www.earlychristianwritings.com/text/irenaeus-book3.html)

  9. Irenaeus, Against Heresies, 3:3:4 (http://www.earlychristianwritings.com/polycarp.html)

  10. The Epistle of Ignatius to the Romans (http://www.earlychristianwritings.com/text/ignatius-romans-longer.html)

  11. John MacArthur, Strange Fire (Thomas Nelson, 2013), p.98 (Kindle 版)

  12. Vinson Synan, An Eyewitness Remembers the Century of the Holy Spirit, (Baker Publishing Group, 2010), p.183

  13. Vinson Synan, An Eyewitness Remembers the Century of the Holy Spirit, (Baker Publishing Group, 2010), p.174

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