一度救われても、救いを失うことがありますか?(3)マタイ25:1~13「十人の娘のたとえ」の検証

救済論

クリスチャンが「救い」をどのように理解するかは重要なテーマです。救いをどう理解するかによって、生き方や信仰のあり方がまるで変わってくるためです。それは多くのクリスチャンが体験していることですが、筆者自身の体験でもあります。また、真の救いを受けているかどうかという重要な問題にも関わってきます。

このバイブルスタディでは「一度救われても、救いを失うことがある」という教えの根拠とされている聖句を検証し、聖書は何を教えているかを確認します。

MEMO
聖書が語る救いと救いの条件については、クリスチャンコモンズWebサイトの「福音とは」をご参照ください。

今回の聖句:マタイ25:1~13「十人の娘のたとえ」

今回は、以下のマタイ25:1~13を検証します。少し長いですが、以下に引用します。

1  そこで、天の御国は、それぞれともしびを持って花婿を迎えに出る、十人の娘にたとえることができます。2  そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。 3  愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持って来ていなかった。 4  賢い娘たちは自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた。 5  花婿が来るのが遅くなったので、娘たちはみな眠くなり寝入ってしまった。 
6  ところが夜中になって、『さあ、花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。 7  そこで娘たちはみな起きて、自分のともしびを整えた。 
8  愚かな娘たちは賢い娘たちに言った。『私たちのともしびが消えそうなので、あなたがたの油を分けてください。』 
9  しかし、賢い娘たちは答えた。『いいえ、分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って自分の分を買ってください。』 
10  そこで娘たちが買いに行くと、その間に花婿が来た。用意ができていた娘たちは彼と一緒に婚礼の祝宴に入り、戸が閉じられた。 
11  その後で残りの娘たちも来て、『ご主人様、ご主人様、開けてください』と言った。 
12  しかし、主人は答えた。『まことに、あなたがたに言います。私はあなたがたを知りません。』 
13  ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。 

よくある解釈

よくある間違った解釈は、次のようなものです。

  • 花婿(キリスト)を待っているのだから、十人の娘は全員キリストを信じる信者である。
  • 油(聖霊)を持っている信者とは、聖霊に満たされている信者である。
  • 聖霊に満たされている信者は天の御国に入ることができるが、聖霊に満たされていない信者は御国から締め出されてしまう。
  • そのため、一度救われても、救いを失う人がいることになる。

以上のように教えて、聖霊に満たされるために励みなさいと教えます。

また、この状況を携挙と考えて、救われていても、携挙にあずかる信者と、携挙から漏れる信者がいるという「部分的携挙説(Partial Rapture)」を説く人もいます。

文脈の確認

マタイ25:1~13は、「オリーブ山での説教(Olivet Discourse)」と呼ばれるイエスの一連の教えの一つです。イエスはオリーブ山での説教で、次の3つの質問(マタイ24:3)に答えています。

(1)エルサレムと神殿の破壊はいつ起こるのか
(2)キリストの再臨のしるしはどのようなものか
(3)世が終わる時のしるしはどのようなものか

このうち、マタイは(1)については記録せず、ルカが記録しています(ルカ21:20~24)。マタイが記録しているのは(2)と(3)で、マタイ25:1~13が扱っているのは(2)に関する教えです。

ユダヤ式の結婚

「十人の娘のたとえ」を理解するには、当時のユダヤ文化で行われていた結婚の習慣を知る必要があります。ユダヤ人神学者のアーノルド・フルクテンバウム博士は、この点について次のように語っています。

このたとえは、紀元1世紀のユダヤ式結婚の習慣を知っていることが前提になっている。ユダヤ式結婚には4つの段階があった。最初の段階は「婚約」で、花婿の父親が花嫁の父親と合意して花嫁料を支払う。これはよく花婿と花嫁が子どもの時に行われた。結婚式の第二段階は「花嫁の連れ帰り」と呼ばれる。父親同士が結婚を決めてから少なくとも1年経った後、花婿は花嫁の家に行き、花嫁を連れて帰る。この期間はもっと長いことがあり、結婚が決まってから花嫁を連れて帰るまでに何年もかかることもある。花嫁を迎えに行ったら、花婿は故郷に連れ戻ってくる。花嫁はミクベ(洗礼槽)に導かれ、水に浸かって儀式的な清めを受ける。花嫁が儀式的に清められたら、結婚式を挙げる準備が整ったことになる。これがユダヤ人の伝統的な結婚の第三段階である。この結婚式に招待されるのは、花婿と花嫁の親しい友人や親族など、ごく限られた人たちだけである。第四段階は結婚披露宴で、通常7日間行われる。この披露宴には、結婚式よりも多くの人が招待される。
― Arnold G. Fruchtenbaum, Yeshua: The Life of Messiah from a Messianic Jewish Perspective – Vol. 3 (Ariel Ministries, 2017)

This parable presupposes a familiarity with first-century Jewish marriage customs. There were four stages to a wedding. The first stage was called “the arrangement,” where the father of the groom came to an understanding with the father of the bride and paid the bride price. This often occurred when the bride and groom were children. The second stage of the wedding was called “the fetching of the bride.” At least a year after the fathers arranged the marriage, the groom went to the home of the bride to fetch her. The waiting period could be much longer, and many years could transpire between the arrangement and the fetching of the bride. After picking up his bride, the groom returned to his hometown. The bride was led to the mikvah, the immersion pool for ritual cleansing. Once she achieved ritual purity, the wedding ceremony could take place, making this the third stage of a traditional Jewish wedding. Only a few people were invited to this ceremony, usually the close friends and relatives of the bride and the groom. The fourth stage was the wedding feast, usually lasting seven days. Many more people were invited to the feast than to the ceremony.

フルクテンバウム博士の説明をまとめると、ユダヤ式結婚には次の4段階があることになります。

1.婚約(花婿の父が花嫁料を支払う)
2.花嫁の連れ帰り
3.結婚式(婚礼)
4.結婚披露宴(婚礼の祝宴、婚宴)

イエスはユダヤ人です。そのため、イエスが結婚のたとえを使って教える場合は、当時のユダヤ式の結婚を前提に語っています。

また、新約聖書では教会をキリストの花嫁と呼び(黙示録19:6~7)、キリストと教会の関係を夫婦関係にたとえています(エペソ5:22~31)。そして、ユダヤ式結婚の各段階に沿って、教会に対する計画を次のように教えています。

1.婚約:御父のみこころに従ってキリストが流した血潮によって贖われる(1ペテロ1:18~19、2コリント11:2)
2.花嫁の連れ帰り:キリストが教会を携挙する(ヨハネ14:1~3、1テサロニケ4:16~17)
3.結婚式:キリストと教会の結婚を祝う「子羊の婚礼」が行われる(黙示録19:6~8)
4.結婚披露宴:キリストが再臨して「子羊の婚宴」が開かれる(イザヤ25:6~8、マタイ22:1~14、25:1~13、参考:黙示録19:9)

たとえを理解するためのキーワード

このたとえを読み解くために必要なキーワードの意味を以下に考えます。

「十人の娘」とは誰か

「十人の娘のたとえ」は、花婿が花嫁を連れて婚宴のために町に戻ってくる場面です。そのため、「花嫁の連れ帰り」の段階である携挙はすでに終わっています。また、花婿が戻ってきてすぐに披露宴が開かれていますので、結婚式はすでに終わっている前提になっています。このたとえのテーマは、キリストの再臨です。キリストが花嫁である教会を連れて地上に戻ってこられる時のことが中心の話です。そのため、十人の娘は花嫁ではなく、花嫁を連れて町に帰ってくる花婿を出迎えて、花婿に付き添って披露宴に列席する人たち(マタイ9:15参照)です。

MEMO
十人とか五人の女性が一人の男性と同時に結婚するというのは、一夫多妻が許されていた時代であってもまずないことです。ましてや、イエスがそのようなたとえ話を使うとは考えにくいことです。聖書で教会が言及される場合は、「一人の人」(エペソ2:15)、「一つのからだ」(ローマ12:4~5、1コリント10:17、1コリント12:12~13、エペソ2:16、コロサイ3:15)など、全体で一つ、一人として描写されています。そのため、この観点でも、十人の娘が花嫁(教会)であると解釈することは不自然です。

それでは「十人の娘」とは誰のことでしょうか。それを考えるには以下の点を考慮する必要があります。

  • 地上に再臨するキリスト(花婿)を迎え出る人々である。
  • キリストが再臨する直前の時代は、大患難時代と呼ばれる苦しみの時代である。

つまり、マタイ25:1~13でいう「十人の娘」とは、大患難時代に地上で生きている人であることがわかります。この人々は、教会が携挙された後、地上に残っている人々です。

これが大患難時代の話であることは、花婿が戻ってくるのが「夜中」と言われていることとも符合します(マタイ25:6)。これはキリストの初臨から再臨までの期間が長くなり、キリストの再臨が遅いと感じることを示唆している一方で(25:5)、夜中はさばきを象徴する表現でもあります(出エジプト11:4、12:29、ヨブ34:20)。大患難時代は、神のさばきの時です(黙示録14:7、15:4、16:5~7)。この点も、十人の娘は大患難時代の人々であるという解釈を裏付けています。

MEMO
十人の娘は全員、異邦人(ユダヤ人以外の人々)です。キリストが再臨する条件は、ユダヤ民族全体がキリストをメシアとして受け入れることです(マタイ23:37~39)。そのため、キリストの再臨時には、すべてのユダヤ人が救われています(ローマ11:26a)。再臨の時点で、愚かな娘のように御国から締め出されるユダヤ人はいないので、これは異邦人のことと考える必要があります。

以上、「十人の娘」はキリストが再臨する直前の大患難時代に生きている人々を指しています。

「油」とは何か

聖書では、油は聖霊の象徴です(1サムエル16:13など)。そのため、油を持っていなかった娘は、聖霊を持っていなかったということになります。聖霊を持っていなかったということは、未信者ということになります。ローマ8:9で次のように言われているためです。

しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。 

聖霊はキリストを信じる者すべてに与えられます(ヨハネ7:37~39、1コリント3:16)。また、一度与えられた聖霊は取り去られません(ヨハネ14:16)。つまり、油を持っていない娘は、キリストを信じていない未信者だということになります。

また、油を持っていない娘は「愚か」と言われています。これは次の詩篇14:1の文脈で考える必要があります。

 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。彼らは腐っていて 忌まわしいことを行う。善を行う者はいない。 

愚かな娘は、神を信じないという点で、愚かなのです。この点は、マタイ25:12で主人(神)が愚かな娘たちに次のように言っていることからも分かります。

12  しかし、主人は答えた。『まことに、あなたがたに言います。私はあなたがたを知りません。』 

これは信者に対する神のことばではありません。愚かな娘は神を信じていないので、神も「あなたがたを知りません」と言われるのです。

油を持っていなかった娘は、救われていない未信者です。救いを失った人々や、聖霊を受けていない信者、携挙から漏れる信者のことではありません。

「ともしび」とは何か

「ともしび」を持っているという理由で、十人の娘はすべて救われていると言う人がいます。しかし、聖書でともしびを救いという意味で使っている例はなく、「ともしび」は希望やみことばの光という意味で使われています。ともしびがみことばという意味で使われている例で、よく知られているのは詩篇119:105です。

 あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。 

マタイ25:1~13も、同様の意味でとらえる必要があります。特に、マタイ25:1~13の文脈では、ともしびは苦しい時代を生きる人々の行く道を照らす「福音のことば」を指しています。十人の娘全員がともしびを持っていたのは、十人全員が福音を聞いていたためです。

ここで問題になるのは、「愚かな娘たち」とは誰のことかということです。

「愚かな娘たち」とは誰か

愚かな娘たちは、福音を聞いていたのに聖霊を持っていませんでした。この愚かな娘の解釈は、以下の二通りあると思います。

偽の回心者

第一の解釈は、偽の回心者(false coverts)だというものです。いわゆる「名ばかりクリスチャン」です。信者の集会には来ているが、聖書の福音を実際には信じていない人々です。この人々は、福音を聞いてはいるが、信じてはいないので、新生していません。そのため、聖霊も持っていません。

大患難時代の未信者全般

第二の解釈は、大患難時代のすべての未信者を指すという解釈です。大患難時代には、キリストが再臨するまでにあらゆる人々に福音が宣べ伝えられるので、すべての人に「ともしび」が与えられるからです。マタイ24:14では次のように約束されています。

御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。 

この言葉を裏付けるように、大患難時代には以下のような大宣教が行われることが黙示録に預言されています。

  1. 14万4千人のユダヤ人による宣教(黙示録7:1~9)
  2. エルサレムの二人の証人による宣教(黙示録11:3~4)
  3. 御使いによる宣教(黙示録14:6~7)

この宣教の対象は、それぞれ「すべての国民、部族、民族、言語」(黙示録7:9)、「もろもろの民族、部族、言語、国民」(黙示録11:9)、「あらゆる国民、部族、言語、民族」(黙示録14:6)と言われており、世界の隅々にまで福音が行き渡ることが強調されています。

油を持っていない娘が未信者であったら、花婿を迎えに出るはずがないとして、これは聖霊に満たされていない信者のことであると言う人がいます。しかし、大患難時代にはすべての人に福音が宣べ伝えられますので、キリストの再臨のことも当然聞くはずです。そのため、実際にキリストが再臨されたら、伝えられていたことが本当だったと「すべての国民、部族、民族、言語」の人々が知ることになります。また、マタイ25:11で愚かな娘たちが「ご主人様、ご主人様、開けてください」と言うのは、信者であるからではなく、キリストが再臨した時点で、キリストが天地の主、真の神であることを知るためです。

キリストが再臨すれば、地上のすべての人がキリストが神であり、主であることを知ります。しかし、愚かな5人の娘のように、再臨の時点でキリストが救い主、真の神であると知っても手遅れなのです。

まとめ

どちらの解釈もありえますが、筆者は第二の解釈を採用します。というのは、大患難時代は、キリストを信じる者に対する大迫害が起こり、多くの信者が殉教する時代だからです。真の救いを受けていない名ばかり信者が、命を落とすリスクを負ってまで信者のようにふるまうことは考えられません。

いずれにせよ、愚かな娘も含め、十人の娘が全員ともしびを持っているのは、全員が福音を聞いているためです。

「十人の娘のたとえ」で教えられていること

このたとえでは、キリストが再臨するまで、準備をし(マタイ25:4)、目を覚ましておくように教えられています(マタイ25:13)。愚かな娘たちが、花婿が戻ってきてから「私たちのともしびが消えそうなので、あなたがたの油を分けてください」(マタイ25:8)と願っても手遅れだったように、キリストが再臨してからでは遅いからです。

ここで言われている準備とは、油を持っておくこと、つまり福音を信じ、救いを受けておくことです。賢い娘たちも、居眠りをしてはいましたが(マタイ25:5)、この準備ができていたので、花婿を出迎え、婚礼の祝宴に入ることができました。

また、このたとえでは、キリストがいつか地上に戻ってこられるという意識を持って(「目を覚まして」)生きることの重要性が教えられています。日々生活する上で、終末論が重要であることがわかる箇所でもあります。

結論

マタイ25:1~13で語られている「十人の娘のたとえ」は、一度救われても救いを失う可能性があることや、キリストを信じて救われていても携挙に漏れる可能性があることを警告したものではありません。賢い娘と愚かな娘は、聖霊に満たされた信者と聖霊に満たされていない信者ではなく、信者と未信者の象徴です。そのため、このたとえを引用して、一度救われても救いを失うことがあると教えるのは間違っています。

付録:誤解が生じる原因

十人の娘のたとえで誤解が生じる最大の原因は、ユダヤ的文脈と切り離して聖書を読むことです。このたとえは、ユダヤ式結婚という文脈を踏まえないと、十分に理解できません。ある国の文学をその国の文化から切り離して読むと解釈を間違えてしまうことがあるように、ユダヤ的文脈の中で書かれた聖書をユダヤ文化から切り離して理解しようとすると、誤った解釈になる場合があります。これはイスラエルを教会と読み替え、ユダヤ的なものを排除してきた教会の歴史が残した負の遺産です。

もう一つの原因は、信者になっても「聖霊のバプテスマ(異言)」を受けていない人は聖霊を持っていないという、初期のペンテコステ派の間違った教えがあります。ローマ8:9は、信者であれば例外なく聖霊を持っていると教えています。しかし、この間違った「聖霊のバプテスマ」論により、信者でも聖霊を持っていないことがあるという考えが生まれ、このたとえでも間違った解釈を生む原因の一つとなっています。

参考資料

  • 中川健一「メシアの生涯(170)—オリーブ山での説教(6)—」(メッセージステーション)
  • Arnold G. Fruchtenbaum, Yeshua: The Life of Messiah from a Messianic Jewish Perspective, Volume 3 (Ariel Ministries, 2017)
  • Arnold G. Fruchtenbaum, “The Jewish Wedding System and The Bride of The Messiah” (Ariel Ministries, 2005)

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