イエスの十字架を語らない教会は、キリスト教の教会とは言えません。イエスが私たちの罪のために十字架で死んでくださったというメッセージが、キリスト教の語る福音の中心だからです(1コリント15:1~5参照)。
しかし、新使徒運動(NAR)系の教会では、使徒や預言者が神から受けた「ビジョン」や「預言」の話が中心で、肝心の福音が語られないという証言が数多くあります。この記事では、そのような証言の一部を紹介します。
> 英国のビンヤード系教会の元教会員英国のビンヤード系教会の元教会員
オスカー・J・ワットモアは、ジョン・ウィンバーが設立したビンヤード・クリスチャン・フェローシップに属する教会に集っていた英国人クリスチャンです。彼の教会は、最初は健全な教会のように見えたが、新使徒運動(NAR)の影響を受けて聖書的な教えから離れていったと言います。その様子をワットモアは次のように語っています。
(NARの影響を受けた教会に)神秘主義的、オカルト的な習慣が入ってきた。この一例が、パブで「アウトリーチ(宣教)」を行った時のことである。私たちはテーブルを準備し、「霊的な透視(spiritual reading)」を受けませんかと人々に呼びかける看板をバーに立てておいた。私たちに与えられていた指示は、人々に「預言的な言葉」を語るようにとのことだったが、一方でイエスや、罪、悔い改め、救いという実際の福音メッセージは語ってはならないと指導されていた。
ー Barbara M. Hansell, Narrow Is The Way – Have You Really Found It? (Sound Word, 2020), p.6 (Kindle 版)
IN CAME MYSTICISM/OCCULT PRACTICES—one example of this was when a group of us did an “outreach” in a pub. We set ourselves up at a table and left a notice on the bar, inviting people to receive a “spiritual reading.” Our brief was to give people “prophetic words” but were instructed not to talk about Jesus or the ACTUAL gospel message of sin, repentance & salvation.
これで「アウトリーチ(宣教)」と呼べるのかどうかあやしいものですが、語るように言われている「預言的な言葉」はさらにあやしいものです。教会で語られるようになった「預言」について、ワットモアは次のように語っています。
偽預言が入ってきて、教会の隅々にまで蔓延した。掃いて捨てるほどの「預言」が語られたが、その多くは具体的な内容に欠け、役に立たず、検証することもできないものだった。そうではない場合でも、預言の受け取り手が聞きたいことを語っているだけということは明らかだった。こうした「預言」を語る人々に対して、聖書で要求されている責任が問われることはなく、たとえ「預言」が成就しなかったことが明らかになったとしても、それは同じだった。
ー Barbara M. Hansell, Narrow Is The Way – Have You Really Found It? (Sound Word, 2020), p.7 (Kindle 版)
IN CAME FALSE PROPHECY—This became absolutely rampant! “Prophecies” given out like they’re two a penny; many of which were so lacking in substance or specifics as to be useless and untestable, and others that were clearly just telling recipients what they wanted to hear. Those giving the “prophecies” were not subject to the accountability required in scripture, even when the “prophecies” were demonstrably false.
新使徒運動(NAR)の影響を受けた教会では、メッセージの中心が奇跡や預言の話になり、イエスの十字架を中心とする福音メッセージを語られなくなるという証言です。
> カンザスシティ・フェローシップ(現IHOPKC)の元教会員の証言カンザスシティ・フェローシップ(現IHOPKC)の元教会員の証言
米国カンザスシティにあるカンザスシティ・フェローシップ(現IHOPKC:International House of Prayer of Kansas City)に集っていた婦人も、イエスの十字架による救いを説く福音を聞いたことがないと証言し、次のように語っています。
カンザスシティ・フェローシップでは、十字架のメッセージが語られていませんでした。主人はそのことについて何度かマイク・ビックルと話そうとしましたが、受け入れてはくれませんでした。
ー Ernie Gruen, “False Prophets: Do We Keep Smiling and Say Nothing?” (2018) (Kindle版)
The Message of the Cross was not being preached at Kansas City Fellowship. My husband tried to talk to Mike about it several times, but was not received well.
> ベテル教会のBSSM元学生の証言ベテル教会のBSSM元学生の証言
米国カリフォルニア州レディングにあるベテル教会に、超自然ミニストリースクール(BSSM:Bethel School of Supernatural Ministry)という神学校があります。このBSSMの元学生、リンジー・デイビスは、ベテル教会では聖書的な福音が語られていないとして、次のように証言しています。
レディングの住民はみな、ベテルの学生と出会ったことがあります。ベテルの学生たちがスーパーに出かけて行って、「あなたの体の病気のために祈らせてくれませんか?」と聞いて回っているからです。ベテルは町に出て伝道活動をしているので、誰でもベテル教会の学生や教会員と出会ったことがあるのです。ここでは、伝道という用語をかなり大雑把に使っています。伝道とは、単に誰かの腰痛が治るようにと祈ることではありません。福音を宣べ伝えることです。しかし、ベテルの人々はほとんど福音を語りません。神学的には、彼らが伝える福音は、聖書に書かれている福音とはまったく異なります。
ー “Defecting From Bethel: Part 2 (Exclusive)” Apologia Studios (https://www.youtube.com/watch?v=GF2t_VRorXQ)
Everyone in Redding has had an encounter with someone from Bethel because these students go out to the grocery stores and they ask “Can I pray for your bodily ailment?” Everyone has had an encounter with students or people from Bethel Church just because of Bethel’s activity in the town evangelistically. I use that term very loosely because evangelism isn’t just going out and praying for someone’s back pain to go away. It’s preaching the gospel which they rarely do at all. Theologically, the gospel they preach isn’t really the gospel that we find in Scripture at all.
デイビスは、BSSMの学生であった時にYoutube動画などで真の福音に触れて回心しましたが、ベテル教会内で伝道するために、その後も数か月間BSSMにとどまったといいます。逆に言うと、ベテル教会の多くの人が、真の福音ではないものを福音として信じていたことになります。
このような状況で、目に留めるべきはガラテヤ1:6~8のパウロの言葉です。パウロは次のように語り、「ほかの福音」を語る者に対して警告を呼びかけています。
6 私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに。 7 ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるわけではありません。あなたがたを動揺させて、キリストの福音を変えてしまおうとする者たちがいるだけです。 8 しかし、私たちであれ天の御使いであれ、もし私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反することを、福音として宣べ伝えるなら、そのような者はのろわれるべきです。
パウロは、「ほかの福音」を語る者は「のろわれるべき」とまで言って断罪しています。
現代の教会にも、「ほかの福音」を語る者がいます。教会は、規模が大きいとか、活気があるとか、音楽が良いとかで判断するのではなく、講壇から真の福音が語られているかどうかで良し悪しを判断する必要があります。
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