終末時代の背教を見分ける(2)クィア神学

LGBTQ

このシリーズでは、終末預言に見られる背教のパターンを確認し、現在キリスト教界で広まっている誤った教えを見分けていきます。今回はLGBTQ+の神学として知られる「クィア神学」を取り上げます。

クィア神学とは

「クィア(Queer)」とは、異性愛(異性が性的対象)以外の性的指向や性自認を持つ人々を包括的に表す用語です。英語では元々「変態」「奇妙な」といった意味で、同性愛者を蔑視する言葉として長年使われていたものです。これをLGBTQ+の人々がポジティブな意味にとらえ直して、LGBTQ+コミュニティを象徴する表現として使い始め、今に至っています。

MEMO
LGBTQとは、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、クエスチョニング[性自認や性指向が決まっていない人]の頭文字を取って作られた略語で、「+」はその他の(通常の異性愛以外の)性的指向や性自認も含まれることを意味します。

この「クィア」の概念に基づいて構築されたのが「クィア神学(Queer Theology)」です。クィア神学は、Wikipediaでは次のように定義されています。

クィア神学は、クィア理論の哲学的アプローチから発展した神学的手法で、マルセラ・アルトハウス=リード、ミシェル・フーコー、ゲイル・ルービン、イヴ・コソフスキー・セジウィック、ジュディス・バトラーといった学者の研究を土台としている。クィア神学は、ジェンダーの多様性とクィアな欲望は、さまざまな信仰の伝統やユダヤ教の聖典、聖書のような経典を含め、人類の歴史に常に存在してきたという仮定から始まっている。かつてはゲイ神学とレズビアン神学という2つの神学に分かれていたが、その後統合され、より包括的な用語であるクィア神学へと発展した。
― “Queer theology,” Wikipedia (https://en.wikipedia.org/wiki/Queer_theology)

Queer theology is a theological method that has developed out of the philosophical approach of queer theory, built upon scholars such as Marcella Althaus-Reid, Michel Foucault, Gayle Rubin, Eve Kosofsky Sedgwick, and Judith Butler. Queer theology begins with the assumption that gender variance and queer desire have always been present in human history, including faith traditions and their sacred texts such as the Jewish Scriptures and the Bible. It was at one time separated into two separate theologies; gay theology and lesbian theology. Later, the two would merge and expand to become the more inclusive term of queer theology.

この説明に出てくる「クィア理論(Queer Theory)」とは、性的指向や性に関する伝統的な考え方、特に異性愛が自然で正常な性表現であるという考え方に異議を唱える研究分野です。クィア理論の学者は、異性愛を規範とする考え方は社会がつくり上げたものであり、教会や法律などの制度によって強化され、究極的には権力と支配をふるう手段となってきたと主張します。また、性的指向や性自認は生物学的に固定されたものでなく、社会的なものなので、男性の体でも性自認が女性、あるいはその逆もあり、流動的なものだと強調します。現在話題となっているトランスジェンダーという考え方は、明らかにクィア理論の影響を受けています。

まとめると、クィア神学の基本的な主張は、異性愛以外の性のあり方も正常なものとして神学的に位置付け、そこから出発してキリスト教神学を再構築することです。

クィア神学の特徴

クィア神学には、上記に説明した以外にもいくつかの特徴があります。

同性愛以外の性的指向も含む

クィア神学はゲイ神学とレズビアン神学をベースに発展してきたものですが、クィアには同性愛以外の性的指向も含まれます。

その一例は、クィア理論の立役者とも言えるミシェル・フーコーに見ることができます。フーコーは同性愛者でしたが、小児性愛を擁護する言動が見られました。実際に、フーコーは、哲学者のジャンポール・サルトルやジャック・デリダらと共に、性的な合意ができる年齢は15歳以上と定める法律に反対する建白書に署名し、1977年にフランス議会に提出しています。つまり、15歳未満であっても合意があれば性行為は許されるべきだという小児性愛を正当化する主張を展開していました。また、フーコーは実際にチュニジアで小児性愛を行っていたという告発もあります。

マルクス主義の影響を受けている

クィア神学は、マルクス主義の影響を色濃く受けています。「抑圧する者」と「抑圧される者」という対立構造でものを見る見方や、資本主義に対する敵視、現在の秩序をくつがえして新しい秩序を構築しようとする姿勢など、マルクス主義と共通する主張が見られます。

クィア神学者の草分け的存在と言えるマルセラ・アルトハウス=リード(Marcella Althaus-Reid)は、アルゼンチンの出身で、南米で支配的だった解放の神学の学者です。解放の神学は、マルクス主義的な社会経済的分析を取り入れ、抑圧された人々の解放を主張する神学的アプローチです。「宗教は阿片である」と語り、宗教は来世の希望を語ることで現状を改革する意思を人々から奪っていると主張したマルクスのように、永遠のいのちや霊的な救いではなく、現世での救済を重視します。

MEMO
共産主義時代のルーマニアの諜報機関「セクリターテ」の高官で、旧ソ連圏から米国に亡命した中で最も高い中将という地位にあったイオン・ミハイ・パチェパ(Ion Mihai Pacepa)は、解放の神学運動はソ連が浸透工作のために作り出したものであると証言しています。この証言が本当であれば、解放の神学は共産主義が広めた神学ということになります。

また、現在邦訳されている数少ないクィア神学に関する書籍1の著者であるパトリック・S・チェン(Patrick S. Cheng)は、博士号を取得したユニオン神学校で、黒人の解放の神学を提唱したジェイムズ・コーン(James Cone)に師事しています。コーンは『Black Church and Marxism(黒人教会とマルクス主義)』という著作があることからもわかるように、マルクス主義の分析手法を神学に取り入れることを主張した神学者で、解放の神学の影響を受けています。

伝統的なキリスト教に対する「革命」

クィア神学は、伝統的なキリスト教に対する「革命」です。同性愛者に対するミニストリーを行っている「Living Out」は、クィア神学における「クィア」の意味を次のようにまとめています。

クィアとは、何かをひっくり返し、裏返しにすることを意味します。周縁にあるものを中心的なものにします。伝統的な境界線を消し去ることで、社会を不安定にして脱構築(解体)するものです。
― Adam Curtis, “What Is Queer Theology?” (https://www.livingout.org/resources/articles/46/what-is-queer-theology)

Queer means turning something upside down and inside out. It takes something from the margins and makes it central. It destabilizes and deconstructs society by erasing traditional boundaries.

この「革命」は、一般的なクリスチャンにとって決して良い意味ではありません。たとえば、マルセラ・アルトハウス=リードのキリスト論では、キリストは「バイセクシャル」だということになっています。Wikipediaでは、アルトハウス=リードの言葉を引用して次のように説明しています。

彼女はまた、「下品なキリスト」についても語っている。…彼女は「(イエスは)異性愛志向を持つ(性的関係を持たない独身)男性という神学的な衣を着させられてきた。生殖器を消されたイエス、性愛の体を差し引いたイエスである」と説明する。その代わりに彼女は、受肉のインクルーシブな理解として、キリストのバイセクシュアリティについて語っている。
― “Marcella Althaus-Reid,” Wikipedia (https://en.wikipedia.org/wiki/Marcella_Althaus-Reid)

She also speaks about an “indecent Christ”… She explains that “[Jesus] has been dressed theologically as a heterosexually oriented (celibate) man. Jesus with erased genitalia; Jesus minus erotic body.” Instead, she speaks about the bi-sexuality of Christ as an inclusive understanding of the incarnation.

Wikipediaの定義にあったように、クィア神学は「ジェンダーの多様性とクィアな欲望は、さまざまな信仰の伝統やユダヤ教の聖典、聖書のような経典を含め、人類の歴史に常に存在してきたという仮定」を置いているので、アルトハウス=リードのような解釈が生まれるのは容易に予想されます。そのほか、クィア神学では、ダビデとヨナタン、ナオミとルツ、イエスと弟子ヨハネまたはラザロの間にも同性愛関係があったというような主張がよくされます。

アルトハウス=リードの三位一体については、次のように言われています。

アルトハウス=リードにとって三位一体は、二項対立的・一夫一妻的関係性の特権を崩壊させる乱交パーティーのようなものと理解される。一見すると三位一体は、神の三つの位格が閉鎖的で互いに貞節な性的関係の中にいる「制限された複数愛」の例のように見える。しかし、アルトハウス=リードは、三位一体のそれぞれの位格は実は秘密の恋人や「許されざる欲望」(たとえば、イエスとマグダラのマリアの関係、またはイエスとラザロの関係のように)を持っていると論じる。そしてこの事実は、「関係性が制限されるべきものであるという幻想」を打ち砕くのである。…このように、三位一体は複数愛を支持する人々のモデルとなりうる。
― パトリック・S・チェン著(工藤万里江訳)『ラディカル・ラブ ― クィア神学入門』(新教出版社、2014年)p.76

複数愛(ポリアモリー)とは、同時に複数人と恋愛関係を築くことを意味します。このポリアモリーも、LGBTQ+の性的指向の一つとしてとらえる見方があります。アルトハウス=リードは、三位一体を「乱交パーティーのようなもの」と呼び、ポリアモリーのモデルとなると主張しています。

また、パトリック・S・チェンは、著書『Radical Love: An Introduction to Queer Theology』(邦訳:『ラディカル・ラブ ― クィア神学入門』新教出版社)の中で、ソドムの罪は同性愛ではなく、旅人をもてなさなかったことであるとし、次のように書き記しています。

ナンシー・ウィルソンやキャシー・ルーディのようなLGBTの神学者や倫理学者の中には、もてなしをクィア神学の中心に置くことで、ソドムの物語を「クィア化」している者もいる。たとえば、ウィルソンは、多くのLGBTの人々が持つ「性的に奔放」あるいは「肉体的なもてなし」といった賜物に焦点を当てることで、「セクシュアリティのクィア神学」を構築している。デューク大学の倫理学者で、レズビアンを公言しているルーディは、一人のパートナーとだけ行うのではない性行為(見知らぬ人同士の性行為や集団的な性行為を含む)は、もてなしという進歩的な倫理観でとらえることができると提案している。
― Patrick S. Cheng, Radical Love: An Introduction to Queer Theology (Seabury Books, 2011) Kindle版, p.107-108

… some LGBT theologians and ethicists such as Nancy Wilson and Kathy Rudy have “queered” the Sodom narrative by placing hospitality at the center of queer theological reflection. For example, Wilson has constructed a “queer theology of sexuality” by focusing on the gift of “promiscuous” or “bodily hospitality” that many LGBT people have. Rudy, an openly lesbian ethicist at Duke University, has suggested that nonmonogamous sex acts—including anonymous and communal sex—can be viewed in terms of a progressive ethic of hospitality.

ソドムの罪は同性愛でなく、旅人をもてなさなかったことであり、見知らぬ人でも肉体関係を持つことがもてなしという愛の実践であるとする「革命」的な聖書解釈です。先ほど引用した「Living Out」の説明にあったように、これは従来の見方や価値観をくつがえすものです。

さらに、チェンは「神の法を犯せば、必ず罰せられる」という論理のアプローチを律法主義的アプローチと呼び、罪とは何かについて次のように語ります。

…この律法主義的アプローチとは対象に、罪を「ラディカル・ラブの拒否」と考えると、罪をより深く理解することができる。つまり、もし神がラディカル・ラブ(すなわち、あらゆる種類の境界を崩壊させるほど極端な愛)ならば、罪とは神に反すること、つまりラディカル・ラブに反することを指す。罪とは境界や隔てを消し去ることに対する抵抗である。具体的に言えば、セクシュアリティやジェンダー・アイデンティティ、またその他の既存の境界線を強固なものとするとき、私たちは罪を犯しているということだ。
― パトリック・S・チェン著(工藤万里江訳)『ラディカル・ラブ ― クィア神学入門』(新教出版社、2014年)p.88

この定義からすると、同性愛が罪なのではなく、同性愛を罪であると言うことが罪ということになります。確かにクィア神学は神学の「革命」と呼ぶにふさわしい内容です。しかし、ソ連や中国の共産党が起こした革命の結果、数千万の人々が殺されたように、この革命が良いものであるというわけではありません。

以上の例からでもわかるように、クィア神学では、「LGBT+は人類の歴史に常に存在してきた」というレンズを通して聖書を読むので、聖書の文脈を無視し、LGBT+の性的指向を正当化する方向で聖書を解釈します。

ここで一つひとつ解説をすることはしませんが、聖書的な信仰からすると、クィア神学は冒涜、背教と呼ぶにふさわしい内容が含まれていると言えます。

MEMO
LGBTQ+に対する聖書的な視点については、性の聖書的理解ネットワーク「NBUS」サイトの「推薦図書」と「推薦サイト」が参考になります。

終末預言

現在が終末時代であり、欺きがはびこる時代であることは前回の記事で確認しました。性的な問題については、聖書は終末預言で何を語っているのでしょうか。

ユダ17~19「不敬虔な欲望のままにふるまう」

ユダ17~19では、次のような預言が語られています。

17  愛する者たち。あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの使徒たちが前もって語ったことばを思い起こしなさい。 18  彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、嘲る者たちが現れて、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう。」 19  この人たちは、分裂を引き起こす、生まれつきのままの人間で、御霊を持っていません。

18節で「終わりの時」と言われていますので、これは終末時代の預言です。「不敬虔な欲望」とは、神に逆らう欲望であり、婚姻関係外で抱く情欲が含まれます。

MEMO
聖書の結婚観は、マタイ19:4~6でイエス・キリストが次のようにまとめています。

4 イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。 5  そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。 6  ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」

この箇所によると、人は男と女に造られており(4節)、結婚は男と女の間で行うものです(5節)。イエスの教えからは、トランスジェンダーや同性婚といった考え方は出てきません。この結婚の外で行われる性行為は、聖書では「不品行」や「姦淫」と呼ばれています。

ここで注意する必要があるのは、「嘲る者たち」(ユダ18)は、「分裂を引き起こす」(ユダ19)と言われていることです。この「分裂」とは、文脈では教会の分裂のことです。つまり、この「嘲る者たち」は教会内の人々を指しています。また、この人々は「生まれつきのままの人間で、御霊を持っていません」と言われています。つまり、教会に属しているだけで、新生体験を通して救われていない、聖霊が内住してもいない人々です(ローマ8:9参照)。

MEMO
LGBTQ+イデオロギーをめぐっては、社会や家庭でも分裂が起きています。ユダの手紙の直接的な文脈では教会の分裂ですが、社会や家庭の分裂も視野に入っている可能性があります。

このみことばから、クリスチャンを名のる人々であっても、聖書で神が認めていない情欲を正当化する人々には警戒する必要があることがわかります。

いつの時代にも「自分の不敬虔な欲望のままにふるまう」人々はいました。しかし、ここでは教会の中でそのような人々が現れることが預言されています。これは、2テモテ3:1~5の「終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい。そのときに人々は、…神を冒涜し、…神よりも快楽を愛する者になり、 5  見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者になります」という終末預言とも符号します。

逆に言うと、性的に奔放な生き方をする人々が教会内に現れることは終末時代のしるしであり、今はそのしるしが現れている時代であると言えます。

ルカ17:26~30「第二のソドムの時代」

ルカ17:26~30で、イエス・キリストは次のような終末預言を語っています。

26  ちょうど、ノアの日に起こったのと同じことが、人の子の日にも起こります。 27  ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていましたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。 
28  また、ロトの日に起こったことと同じようになります。人々は食べたり飲んだり、売ったり買ったり、植えたり建てたりしていましたが、 29  ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降って来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。 
30  人の子が現れる日にも、同じことが起こります。 

26節の「人の子の日」とは、聖書の用語である「主の日」と同じで、大患難時代を指します。「人々が食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」して普通に生活している時に、大患難時代が始まるという預言です。同様の内容は、1テサロニケ5:1~3にも記されています。

ここで注目する必要があるのは「ノアの日」(26節)、「ロトの日」(28節)という表現です。ノアの時代の社会も、ロトがいたソドムの町も、どちらも堕落していました。ノアの時代については「【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった」(創世記6:5)と言われ、ソドムについては「【主】は言われた。『ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、彼らの罪はきわめて重い』」(創世記18:20)と言われています。

特に、ソドムでは性的逸脱がはびこっていました。ソドムに住んでいたロトは、広場に泊まろうとしていた二人の男(実は天使)を自分の家に招き入れたところ、次のような出来事が起きます(創世記19:4~5)。

4  彼らが床につかないうちに、その町の男たち、ソドムの男たちが若い者から年寄りまで、その家を取り囲んだ。すべての人が町の隅々からやって来た。 5  そして、ロトに向かって叫んだ。「今夜おまえのところにやって来た、あの男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」 

5節の「彼らをよく知りたいのだ」の「知る」の原語(ヘブル語)は「ヤダー」で、創世記4:1「人は、その妻エバを知った」の「知った」と同じです。つまり、性行為を指しています。

この出来事は、新約聖書でも言及されていて、次のように言われています(2ペテロ2:6~7)。

6  また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、不敬虔な者たちに起こることの実例とされました。 7  そして、不道徳な者たちの放縦なふるまいによって悩まされていた正しい人、ロトを救い出されました。 

7節の「不道徳な者たちの放縦なふるまい」とは、明らかに創世記19章で言及されている出来事を含む性的な堕落を指しています。また、ユダ7でも次のように言われています。

7  その御使いたちと同じように、ソドムやゴモラ、および周辺の町々も、淫行にふけって不自然な肉欲を追い求めたため、永遠の火の刑罰を受けて見せしめにされています。 

ここで「不自然な肉欲」とは、明らかに同性愛のことを指しています(ローマ1:27~28参照)。

また、もう一つ重要な点は、ソドムとゴモラに起こったことは後に起こることの「型」だということです。「永遠の火の刑罰を受けて見せしめにされています」(ユダ7)、「不敬虔な者たちに起こることの実例とされました」(2ペテロ2:6)とは、同じようなことが将来に起こるということです。そして、イエスが語った「ロトの日に起こったことと同じようになります」(ルカ17:28)という言葉は、ソドムとゴモラのように性的に堕落した時代に、大患難という神のさばきが下ることが示唆されていると考えることができます。

黙示録9:20~21「患難時代の9つの罪」

黙示録9:20~21には、大患難時代の人々に関する次のような描写があります。

20  これらの災害によって殺されなかった、人間の残りの者たちは、悔い改めて自分たちの手で造った物から離れるということをせず、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた偶像、すなわち見ることも聞くことも歩くこともできないものを、拝み続けた。 21  また彼らは、自分たちが行っている殺人、魔術、淫らな行いや盗みを悔い改めなかった。

ここでは、大患難時代の人々が犯す数々の罪が挙げられています。こうした罪が、大患難時代という神のさばきを引き起こす一因になったと考えられます。この中で「淫らな行い」が罪の一つとして挙げられています。この言葉は原語のギリシャ語では「ポルネイア」で、「姦淫、不品行」を意味し、同性愛、レズビアン、獣姦なども含まれます(Thayer Greek Lexicon)。クィア神学の主張を見ていると、強制的な関係でなければ、ほとんどの性行為が許されているという印象を抱きます。しかし、そうだとすると、この箇所で大患難時代の人々が性的な罪で非難されていることと辻褄が合いません。むしろ、この時代の人々は、性的な罪が一因となって神のさばきを受けたと考える方が理にかなっています。

まとめ

今回は、性的な罪に関連する背教の終末預言を確認し、預言に関連すると思われるクィア神学を取り上げました。

最近では、LGBTQ+の人々が教会に来やすいようにしようという動きがキリスト教内で高まっています。このこと自体はよいことだと思います。福音は「信じるすべての人に救いをもたらす神の力」(ローマ1:16)であり、キリストも罪人としてユダヤ社会から村八分にされていた取税人たちや遊女たちに進んでみことばを語ったからです。ただ、ヨハネ8:1~11でイエスが姦淫の女に「あなたにさばきを下さない」と言った後に、「これからは、決して罪を犯してはなりません」と命じられたことを覚えておく必要があります。罪のライフスタイルをクリスチャンになっても続けることができると教えることは間違っています。それが、クィア神学がまさに行っていることです。

MEMO
LGBTQに関して聖書が何と語っているかについては、YouTube動画「LGBTQ問題について聖書は何と述べているか 【字幕つき】 (ウィリアム・ウッド)」が参考になります。

今のような性的堕落と背教の時代に、私たちはローマ12:2のみことばに目を留める必要があります。

この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。 

参考資料

  1. パトリック・S・チェン著(工藤万里江訳)『ラディカル・ラブ ― クィア神学入門』(新教出版社、2014年)

1 COMMENT

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です