モーセの律法とキリストの律法では何が違うのですか(3)信仰生活(後編)

ヘブル語聖書

前回は、モーセの律法の下で生きるクリスチャン生活について語りました。それでは、キリストの律法の下で生きるクリスチャン生活とはどのようなものなのでしょうか。

ローマ8章:キリストの律法の下で生きるクリスチャン

ローマ7章では、モーセの律法の下で生きる信仰生活はどのようなものかを見てきました。今回は、ローマ8章から、キリストの律法の下で生きる信仰生活はどのようなものかを見ていきます。

1. キリストの律法による解放(8:1~2)

使徒パウロは、ローマ8章の冒頭、ローマ8:1~2で次のように語っています。

1 こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 
2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。

2節でパウロは、「いのちの御霊の律法」が「罪と死の律法」から信者を解放したと語っています。「いのちの御霊の律法」とは、キリストの律法のことです。一方、「罪と死の律法」とは、モーセの律法のことです。つまり、この箇所では、クリスチャンはキリストの律法によってモーセの律法から解放されていると教えています。

律法によって律法から解放されるというのは不思議な教えですが、聖書が語っていることです。人によっては、モーセの律法から解放されたと思ったら、またキリストの律法という別の律法で縛られるのか、と思うかもしれません。ただ、これは誤解です。ローマ8:2の記述からわかるように、キリストの律法はモーセの律法のように人を罪に定め、死罪を宣告するものではなく、まったく違う性質を持ったものだからです。

それでは、ここで「いのちの御霊の律法」と呼ばれているキリストの律法とはどのようなものかを見ていきましょう。

(1)なぜ「いのちの御霊の律法」なのか

キリストの律法が何かは、ローマ8:2で使われている「いのちの御霊の律法」というキリストの律法の別名から読み解くことができます。この名前は「新しい契約」が記されたエゼキエル36:25~27の約束から導き出せるものです。

25 わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよくなる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、 26 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。 27 わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。

ここでは、(1)罪の赦し(25節)、(2)新生(26節)、(3)聖霊の内住(27節)という3つの約束が与えられています。そして、最後の27節で「わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする」と言われています。「わたしの掟」「わたしの定め」とは、教会時代ではキリストの律法に該当します。つまり、キリストの律法を守り行うことができるように、(1)罪赦され、(2)新しく生まれ変わり、(3)聖霊の内住がすでに与えられていると言われています。特に重要なのは、27節で言われている聖霊の内住です。聖霊によって、信者はキリストの律法を守り行う豊かないのちに導かれるためです。

MEMO
エゼキエル36:25~27の約束について詳しくは「モーセの律法とキリストの律法では何が違うのですか(1)土台となる契約の約束」をご覧ください。

ローマ8:1で「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」とパウロが断言しているのは、キリストの律法の土台となっているエゼキエル36:25~27の約束を前提にしているためです。この3つの約束が、クリスチャンがキリストの律法の下で信仰生活を送る土台となります。

この3つは、すべて神から一方的に与えられたもので、人間の努力によって勝ち取ったものは何一つありません。そのため、クリスチャンはキリストの律法の下にありますが、実質的には律法ではなく恵みの下にあると言うことができます。パウロが1コリント9:21で「(自分は)キリストの律法を守る者です」と語っている一方で、ローマ6:14で「あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです」と語っているのは、そのためです。この2つの発言は矛盾するものではなく、調和するものです。

MEMO
 ローマ8:2で使われている「律法」という言葉のギリシャ語は「ノモス」です。ノモスは「原理」とも訳せる言葉で、ここでは「律法」ではなく「原理」と訳すべきという主張があります(新改訳第3版では実際にそう訳されていた)。しかし、7章のテーマはモーセの律法でした。そのため、それ受けて「罪と死の律法」はモーセの律法と解釈するのが最も自然です。とすれば、対比されている「いのちの御霊の律法」も律法と訳すのが自然です。
 ただ、ここで教えられていることは実質的に信仰生活の「原理」だという側面もあります。キリストの律法は、(1)義認、(2)新生、(3)聖霊の内住という3つの約束の上に成り立つもので、一つの信仰生活の原理ととらえることもできるためです。
(2)位置的真理が信仰生活の出発点

もう一つ注目する必要がある点は、パウロが「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」という言葉で、キリストの律法の下での信仰生活を教え始めていることです。クリスチャンは、モーセの律法ののろいから解放されており、二度と罪に定められることはありません。これを「位置的真理」と言います。位置的真理は信者が今どのような状態にあっても変わることのない真理です。つまり、自分がキリストにあってどのような者かを確認することから信仰生活を始めよと語っているのです。

キリストにあって、律法ののろいはすでに取り除かれています。ガラテヤ3:13では次のように言われています。

13 キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。 

キリストは、私たちが受けるはずだった律法ののろいをすべてご自分が代わりに受けてくださいました。コロサイ2:14でも次のように言われています。

14 私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。 

ここでも、私たちが犯した罪に対する「債務証書」をキリストがすべて引き受けて、十字架に釘付けにしてくださったと教えられています。

ローマ6:14でも、パウロは「罪があなたがたを支配することはない」と明言しています。キリストは、私たちの罪の債務証書を十字架上で引き受け、「完了した」と言って息を引き取られました(ヨハネ19:30)。この「完了した」という言葉のギリシャ語は「テテレスタイ」で、借金をすべて完済した時に借用書に書き入れられる言葉です。そのため、私たちの罪に対する代価はすべて支払い済みで、贖いは完了しています。この位置的真理を確認することが、信仰生活の出発点となります。

MEMO
「一度救われても救いを失うことがある」という教えを信じている人は、この出発点に立つことができません。そのため、律法を行うのろいの下に自分を置くことになります。「一度救われても救いを失うことがある」という教えの問題点については、「永遠の救い」に関する記事をご覧ください。
(3)クリスチャンの自由と責任

クリスチャンはモーセの律法によるのろいから解放され、自由が与えられています。このクリスチャンが持つ自由について、ガラテヤ5:13では次のように言われています。

13 兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。 

信者には自由が与えられていますが、その自由をどのように使うかは信者の選択です。そのため、「自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい」と良い選択をするように勧められているわけです。

クリスチャンは内住の聖霊が与えられている一方で、選択の自由も与えられています。この2つの側面が、これ以降のローマ8章のテーマとなっていきます。

2. 律法を「行う」のではなく「成就する」(8:3~4)

キリストの律法の下での信仰生活でもう一つ重要な点は、律法を「行う」のではなく「成就する」という教えです。これは特にパウロの書簡で強調されているものです。

(1)御霊に従って歩むことで律法を成就する

次のローマ8:3~4では次のように言われています。

3 肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。 4 それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。 

肉の弱さによって律法を守ることができない人間に対し、神はキリストの肉体にあって罪を処罰することで、罪から逃れる道を用意してくださいました。それは「御霊に従って歩む」ことで「律法の要求が満たされる」という道です。この「満たされる」という言葉のギリシャ語は「プレロー」で、「全うする」「成就する」とも訳せる言葉です。そのため、ここは「聖霊に従うことで律法を成就する」と言い換えることもできます。

聖霊に従うことで律法を成就するという考え方は、キリストの律法を考える上で重要です。これがモーセの律法の下で生きる信者とキリストの律法の下で生きる信者で大きく違う点です。モーセの律法はただ「律法を行え」と言うだけだからです(レビ18:5参照)。2コリント3:6で、モーセの律法の土台であるモーセ契約のことは「文字は殺す」と言われているのに対して、キリストの律法の土台である新しい契約のことは「御霊は生かす」と言われている理由は、この辺りにあります。

前回の記事でも同様のことを書きましたが、パウロはローマ5:5以降、ローマ8章に入るまで一度も「聖霊」に言及していません。ところが、ローマ8章に入ると、この章だけで聖霊に21回言及しています。このことだけでも、キリストの律法の下で生きる信仰生活で聖霊の果たす役割の大きさがわかります。2コリント3:8で、キリストの律法の土台である新しい契約が「御霊に仕える務め」と呼ばれているゆえんです。

それでは、聖霊に従うことで具体的にどのように律法を成就するのでしょうか。

(2)聖霊の実を結ぶことで律法を成就する

クリスチャンは、聖霊に導かれて聖霊の実を結ぶことで、結果的に律法を成就することになります。ガラテヤ5:22~23では次のように言われています。

22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 23 柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。 

ここでは、聖霊の実に「反対する律法はありません」と言われています。つまり、聖霊の実を結ぶことで、律法が成就されているということです。聖霊に導かれている人は、律法を守ろうと意識しなくても、律法を結果的に守る実を結ぶのです。そのため、ガラテヤ5:18では次のように言われています。

18 御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。 

パウロがこう語っているのは、御霊によって導かれている人は、律法を意識していなくても律法の要求を満たしているためです。これは、エゼキエル36:27で約束されていた「わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする」というみことばの成就でもあります。

(3)愛によって律法を成就する

聖霊に従うというと、ある日突然、「アフリカに宣教に行きなさい」という聖霊の語りかけを聞いて導かれる、といったことを想像するかもしれません。そういうことがないとは言い切れませんが、通常はそうではありません。エゼキエル36:27で言われていたように、聖霊は信者をキリストの律法を守る方向で導きます。キリストの律法で最も重要な命令は、以前の記事「キリストの律法とは」で書いたように、キリストが最後の晩餐で語った「新しい戒め」です(ヨハネ13:34)。

34 わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 

ローマ8:9で、聖霊は「キリストの御霊」と呼ばれています。また、ローマ8:10では「キリストがあなたがたのうちにおられる」とも言われています。聖霊は三位一体の神ですので、聖霊の内住があるということは、キリストが信者の内におられることと同義です。そのため、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という戒めを実行することが可能になるのです。聖霊の内住がなければ、これは実行不可能なことです。

また、神は愛です(1ヨハネ4:8、16)。そのため、神である聖霊は人を愛する方向に人を導きます。そして、人を愛する者は、律法を成就するのです。ガラテヤ5:13~14で次のように言われているとおりです。

13 兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。 14 律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。 

この箇所は、隣人を自分自身のように愛している人は、モーセの律法全体を成就しているのだと教えています。

このガラテヤ5:14について、聖書学者のリチャード・ロングネカーは次のように語っています。

 パウロは14節で、律法を「行う」ことと「成就する(全うする)」という言葉を注意深く分けている。クリスチャンはユダヤ人の律法を「行う」必要はないが、「成就する」必要はある。……パウロは、モーセの律法を「行う」こと(3:10、12、5:3、ローマ10:5参照)とモーセの律法を「成就する」こと(ガラテヤ5:14、ローマ8:4、13:8、10参照)を意図的に区別し、クリスチャンは律法を「行う」とは一言も言っていない。……ガラテヤ5:14自体は律法を成就しなさいという命令ではなく、人が隣人を愛する中で律法全体が成就されるという意味の発言である。
 この2つの違いは、義務を全うする方法にある。ユダヤ主義者(Judaizers)にとって、クリスチャンの義務とは、モーセの律法を神のみこころの表現として従い、モーセの律法の規定を道徳的に生きるための指針とすることである。パウロにとって、クリスチャンの義務とは他者への奉仕として表現される愛であり、この義務はクリスチャンが「御霊」にあって歩む新しい存在になっていることに根差し、導かれるものである。

Paul in v. 14 carefully distinguishes between the “doing” and the “fulfilling” of the Torah — the “doing” of the Jewish Torah is not required for Christians, but the “fulfilling” is. … Paul in his own mind drew a deliberate distinction between “doing” the Mosaic law (as in 3:10, 12; 5:3; cf. Romans 10:5) and “fulfilling” the Mosaic law (as here; cf. Romans 8:4; 13:8, 10), never saying that Christians “do” the law. …Galatians 5:14 is not itself a command to fulfill the law but a statement that, when one loves one’s neighbour, the whole law is fully satisfied in the process.
The difference between them, however, was in the manner in which that obligation is to be fulfilled. For the Judaizers, Christian obligation is to be understood in terms of subjection to the Mosaic law as the expressed will of God, with the prescriptions of Torah given guidance for ethical living. For Paul, the obligation of the Christian is love that expresses itself in service to others, with that obligation being grounded in and guided by the Christian’s new existence [walking] in “the Spirit.”1

ローマ13:8~10でも、愛によって律法を成就することが教えられています。

8 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です。他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。 9 「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。隣人のものを欲してはならない」という戒め、またほかのどんな戒めであっても、それらは、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」ということばに要約されるからです。 10 愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ、愛は律法の要求を満たすものです

キリストの律法は、愛を実践することで成就される律法です。そのため、「愛の律法」と呼ぶことができます。パウロは、この「愛の律法」という性質に関連する、キリストの律法のもう一つの性質について語っています。

(4)互いに重荷を負うことによって成就する

ガラテヤ6:2で、パウロはキリストの律法について次のように教えています。

2 互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。 

ここでは、キリストの律法は「互いに重荷を負い合う」ことで成就すると教えられています。つまり、キリストの律法は個人だけでなく、クリスチャンの共同体として成就するということが教えられています。モーセの律法とは違い、キリストの律法は人を罪に定めるためのものではなく、人を建て上げるために与えられていることがわかる戒めです。

ここでもう一つ注目する必要がある点は、この箇所の前に書かれているガラテヤ6:1のことばです。

1 兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。 

ここでは、キリストにある兄弟が罪や誤りに陥っていたりする場合は、その人を正すことが「互いの重荷を負い合う」ことの例として取り上げられています。ただし、高慢になったり(ガラテヤ6:3~4)、介入しすぎたりすること(ガラテヤ6:5)に気をつけるようにも戒められています。このみことばを見ても、キリストの律法は教会というコミュニティで実現していくものであるということがわかります。

(5)信仰によって律法を成就する

最後に、キリストの律法は、行いではなく、信仰によって成就するものであると教えられています。ガラテヤ3:2~3、5~7では次のように言われています。

2 これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。 3 あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。 …… 5 あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で力あるわざを行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも信仰をもって聞いたから、そうなさるのでしょうか。 6 「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。 7 ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。 

ここでパウロは、律法の行いではなく信仰によって救われたクリスチャンは、律法の行いではなく信仰によって完成すると教えています。義認も聖化も信仰によるというのが、新約聖書の教えです。ローマ1:17で言われているように、それが福音の本質でもあります。

17 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。 

ローマ3:27~28では次のようにも言われています。

27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り除かれました。どのような種類の律法によってでしょうか。行いの律法でしょうか。いいえ、信仰の律法によってです。 28 人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。 

27節では「信仰の律法」という言葉が使われています。この言葉はキリストの律法を指していると考えることができます。キリストの律法は、律法の行いではなく、信仰によって成就するものであることがよくわかる言葉です。通常、「信仰」と「律法」は相反する言葉とされ、実際に聖書でもそのような使われ方をしています。しかし、キリストの律法でいう「律法」は、信仰と相反するものではなく、信仰によって成就するものです。ローマ3:31で次のように言われているとおりです。

31 それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法を確立することになります。 

以上、キリストの律法の下では、以下によって律法が成就されると教えられていることがわかります。

  1. 聖霊に従って歩む
  2. 聖霊の実を結ぶ
  3. 互いを愛する
  4. 互いに重荷を負う
  5. 信仰によって歩む

上記は個々が独立したものではなくすべて相互に関連しているものです。

エゼキエル36:27を見るとわかるように、ここで特に重要になるのが、聖霊に従って歩むことです。この点がローマ8章の次の箇所、ローマ8:5~17の中心的テーマとなります。ここではローマ8:5~11のみを取り上げて見ていきたいと思います。

3. 信者の戦いの本質(8:5~11)

ローマ8:5~11では、キリストの律法の下で信者が直面する戦いが記されています。

(1)肉 vs. 御霊

ローマ8:5~7には、すべてのクリスチャンが体験する信仰生活上の戦いが記されています。

5 肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。 6 肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。 7 なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。 

信者の内には、肉体に宿る罪の性質と、新生した心に書き記された神の律法が共存しています。人間の古い性質と新しい性質が共存しているといってもよいでしょう。この時、信者には、肉に従う自由と、内住の聖霊に従う自由が与えられています。ここで、肉と御霊の間に板挟みになった信者の内で葛藤が起きます。1コリント9:27のパウロの言葉も、そのような文脈で理解する必要があります。

27 むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです。 

これは我力で聖化を求める信者の言葉のように受け取られがちですが、肉に従う道と聖霊に従う道の間の葛藤という文脈でとらえる必要があります。

同様の葛藤は、ガラテヤ5:16~18でも語られています。

16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。 17 肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。 18 御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。 

17節は、ローマ7章に記されているクリスチャンの葛藤を要約しています。この葛藤を克服する道が、18節の「御霊によって導かれる」という道です。そうすれば、キリストの律法の下で生きていながら、律法の下にはいないように生きることができるためです。

(2)未信者と信者の違い

ローマ8:8~9では、未信者と信者の決定的な違いについて語られています。

8 肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。 9 しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。 

8節の「肉のうちにある者」とは未信者のことで、未信者が神を喜ばせることはできないことが明言されています。9節の「神の御霊があなたがたのうちに住んでおられる」のは、信者です。信者は、肉に従うことがあっても、「肉のうちにではなく、御霊のうちにいる」と明言されています。つまり、信者は未信者と違って完全に肉に支配されることはないということです。内住の御霊がおられるためです。

(3)勝利の保証

ローマ8:10~11では、信者が最終的に勝利することが保証されています。

10 キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。 11 イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。 

ここでは、イエスを復活させた方の御霊が自分の内でも働いていることが、罪との戦いに勝利するための秘訣であることが教えられています。11節では「あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます」と言われているように、聖霊の内住は、信者の体が復活して、栄光の体が与えられること(栄化)の保証でもあります。この内住の聖霊が、義認という出発点から、栄化という終着点まで信者の地上生涯を導いてくださるのです。

まとめ

前回と今回の2回にわたって、ローマ7章と8章を中心に、モーセの律法の下でのクリスチャン生活とキリストの律法の下でのクリスチャン生活を比較しました。

モーセの律法の下でのクリスチャン生活は、心では神の律法を喜びながらも、肉の弱さによって律法を行うことができない葛藤に苦しむ生活です。一方、キリストの律法の下でのクリスチャン生活は、御霊に導かれることで律法を結果的に成就する生活です。両者の決定的な違いは、聖霊の働きです(聖霊の働きの具体的な内容は付録をご覧ください)。この働きの違いは、モーセ契約と新しい契約で与えられている約束の違いによります。そのため、各契約で区分されたディスペンセーション(時代区分)の違いをはっきり認識することが、勝利ある信仰生活を送るための秘訣です。

罪も地獄も語らない繁栄の神学の教会や、聖書の一部しか神のみことばと認めない自由主義教会は論外として、聖書をそのまま信じる教会の中でも、避けるべき2つの立場があります。一方の立場は、十戒などのモーセの律法に従うことを強調して律法的になることです。もう一方は、教会時代はモーセの律法から解放された恵みの時代だからと無律法主義になる立場です。教会では、この両方の立場を避け、キリストの律法に従って歩むように教える必要があります。

キリストの律法には、律法と言うからには戒めがあります。しかし、モーセの律法のように人を罪に定める戒めではなく、人を平安と豊かないのちに導く戒めです。マタイ11:28~30で、イエス・キリストは次のように語っておられます。

28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。 30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

キリストの律法というくびきが軽いのは、キリストの御霊が信者の内におられ、共にくびきを負ってくださるためです。そのため、パウロはガラテヤ2:20で次のように言うことができたのです。

20  もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。 

キリストの律法の下では、義認、新生、内住の聖霊という神の律法に従うために必要なものがすべて与えられています。キリストの律法は、律法と言っても「恵み」と言い換えてもよいものです。

また、2コリント1:24でパウロは「私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために協力して働く者です」と語っています。キリストの律法は、人の喜びを奪うものではなく、「たましいに安らぎ」(マタイ11:29)をもたらし、喜びに導くものです。

付録:聖霊の助けに関して与えられている約束

聖書では、信仰生活の中で「聖霊によって導かれなさい」と命じられています。それと同時に、聖書ではただ「導かれなさい」と言うだけでなく、信仰生活を助けてくださる聖霊の働きが数多く約束されています。以下の表はその一部です。

聖霊の信者に対する働き 聖書箇所
人を新生させ、生かしてくださる エペソ2:5、テトス3:5
教師となり、すべての真理に導いてくださる ヨハネ16:13、1コリント2:10~11
どう祈ればいいのかわからない時に助けてくださる ローマ8:26~27、エペソ6:18
私たちのためにとりなしてくださる ローマ8:26~27
喜びと平安を与えてくださる ガラテヤ5:22~23
奉仕の賜物を与えてくださる 1コリント12: 4~7
証しする大胆さを与えてくださる 使徒4:31
キリストの律法を生きる力を与えてくださる エペソ3:16
心を照らし、知恵と啓示の霊を与えてくださる エペソ1:17~18

これを見ると、信仰生活のあらゆる面で聖霊の助けが約束されていることがわかります。

参考資料:John Metzger, The Law, Then And Now: What About Grace? (Grace Acres Press, 2019) Kindle版

参考資料

  • 中川健一「ローマ人への手紙(24)~(29)」(ハーベスト・メッセージステーション)
  • Arnold Fruchtenbaum, “The Law of Moses and The Law of Messiah” (Ariel Ministries Digital Press, 2005)
  • Arnold Fruchtenbaum, Yeshua: The Life of Messiah from a Messianic Jewish Perspective – Vol. 2 (Ariel Ministries, 2016)
  • John Metzger, The Law, Then And Now: What About Grace? (Grace Acres Press, 2019)
  • Charles Leiter, The Law of Christ (Granted Ministries Press, 2012)
  1. Richard N. Longenecker, Word Biblical Commentary: Galatians (WBC 41) (Dallas, TX: Word Books, 1990), 241. as quoted in Metzger (2019)

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