前回の記事では、モーセの律法とキリストの律法では土台となる契約が異なるため、律法の性質が大きく異なることを見てきました。
今回は、モーセの律法の下で生きる信仰生活と、キリストの律法の下で生きる信仰生活はどのように違うのかという実際的なテーマを見ていきたいと思います。ここでも、土台となる契約の違いが信仰生活の上でも大きな影響を及ぼすことを見ていきます。
> モーセ契約の下で生きる信者と新しい契約の下で生きる信者の違いモーセ契約の下で生きる信者と新しい契約の下で生きる信者の違い
前回の記事では、モーセの律法の土台となるモーセ契約と、キリストの律法の土台となる新しい契約では、与えられている約束が以下のように大きく異なることを確認しました。
モーセ契約
モーセ契約では、律法を守る者が永遠のいのちを受けることが約束されていました(レビ18:5、ルカ10:25~28)。しかし、以下の点でそれは実現不可能であることを確認しました。
- 律法に示された神の義の基準を守ることができる人は誰もいない
- 信者には律法を守る力は約束されていない
新しい契約
一方、新しい契約では、信者の罪が赦され、罪が取り除かれるという約束が与えられています。義とされた信者は、永遠のいのちをすでに受けています(義認)。また、信者には次のことが約束されています。
- 律法が信者の心に書き記される(新生)
- 律法に従うことを可能にする聖霊が与えられる(聖霊の内住)
このような違いが、信仰生活の上で大きな違いを生み出します。
> モーセの律法の下で生きるクリスチャンとキリストの律法の下で生きるクリスチャンの対比モーセの律法の下で生きるクリスチャンとキリストの律法の下で生きるクリスチャンの対比
教会時代(恵みの時代)は「新しい契約」に基づくものですが、キリストの律法ではなく、モーセの律法に従って生きようとすることも可能です。ピューリタン(清教徒)のサミュエル・ボルトンは、クリスチャンとモーセの律法の関係について次のように語っています。
この世の荒野にいる間は、モーセの導きの下で歩まなければならない。律法は、義とされるために私たちを福音に送り、福音は、義とされた者としての私たちの義務は何かを問うために、私たちを再び律法に送る。
While you are in the wilderness of this world, you must walk under the conduct of Moses. The law sends us to the Gospel that we may be justified; and the Gospel sends us to the law again to inquire what is our duty as those who are justified.1
モーセの律法の下で生きるクリスチャンとは、簡単に言うと、律法を守ることできよめられ、神に近付こうとするクリスチャンと言うことができます。
聖書でも、ローマ人への手紙7章に、モーセの律法の下で生きるクリスチャンの状態がどのようなものかが記されており、キリストの律法の下で生きるローマ8章のクリスチャンと対比されています。
> ローマ7章:モーセの律法の下で生きるクリスチャンローマ7章:モーセの律法の下で生きるクリスチャン
ローマ7章には、モーセの律法の下で聖化を求める信者の状態が記されています。パウロは、このことを自身の体験を通して語っています。ここでパウロは、まずモーセの律法の役割を明らかにすることから説明を始めています。
1. モーセの律法の役割(ローマ7:7~13)
ローマ7:7~13で、パウロはモーセの律法には以下の役割があることを明らかにしています。
(1)罪を示す
モーセの律法の役割の第一は、罪を示すことです。
モーセの律法には、神の義の基準が示されています。モーセの律法を読むと、人は自分が神の基準に達していないことを示され、自分の罪を知ることになります。この点について、ローマ7:7では次のように言われています。
7 それでは、どのように言うべきでしょうか。律法は罪なのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。
ここでパウロは、モーセの律法の一部である十戒の「隣人のものを欲してはならない」という命令を読むことで、自分のむさぼりの罪が示されたことを証ししています。
また、ローマ3:20でも、パウロは「律法を通して生じるのは罪の意識です」と明快に語っています。
(2)罪をもっと犯させる
モーセの律法の第二の役割は、罪をもっと犯させることです。罪を犯してはならないと教える律法によって、さらに罪を犯すようになるとは逆説的ですが、パウロが聖書で語っていることです。ローマ7:8では次のように言われています。
8 しかし、罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。
「戒め」とはモーセの律法の命令のことです。また、「機会」とは、原語のギリシャ語では「アフォルメイ」で、軍事用語です。本来は「上陸拠点」や「前線基地」といった意味で、敵地で軍事作戦を展開するための拠点のことです。ここでは、罪が律法によって人の内に拠点を築き、そこからさまざまな欲望を引き起こしていることが明らかにされています。
ユダヤ人神学者のアーノルド・フルクテンバウム博士は、ローマ7章と、1コリント15:56の「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」というみことばを引用して、モーセの律法が持つ「罪をもっと犯させる」という役割について次のように説明しています。
基本的に、パウロがローマ7章と1コリント15章で語っているのは、罪の性質には活動拠点が必要だということである。具体的には、罪の性質は律法を活動拠点としている。パウロは「律法のないところには違反もありません」と語った。もちろん、律法が与えられる前は罪がなかったという意味ではない。「違反」という言葉は、特定の命令に反する特定の種類の罪のことである。人は律法が与えられる前から罪人だったが、律法が与えられるまでは律法の違反者ではなかった。しかし、ひとたび律法が与えられると、罪の性質が活動拠点を得ることになった。なぜなら、律法が「~をしてはならない」と言ったとたんに、罪の性質は「ああ、そうしよう」と言うからである。あるいは、律法が「~をしなさい」と言うや否や、罪の性質は「いや、やらない」と言うのだ。罪の性質が、活動拠点を見つけたのである。罪の性質は、律法を前線基地として大々的に活動を始め、そのような新しい命令が与えられると、人に命令に違反させ、さらに罪を犯させるのである。
Basically what Paul is saying in Romans 7 and I Corinthians 15 is that a sin-nature needs a base of operation; furthermore, the sin-nature uses the Law as a base of operation. Paul said, “where there is no Law, there is no transgression.” He did not mean, of course, that there was no sin before the Law was given. The term transgression is a specific type of sin in violation of a specific commandment. Men were sinners before the Law was given, but they were not transgressors of the Law until the Law was given. Once the Law was given, then the sin-nature had a base of operation. Because as soon as the Law said, “you shall not,” the sin-nature said, “oh yes I will.” Or as soon as the Law said, “you will do this,” the sin-nature said, “oh no I won’t.” The sin-nature found a base of operation. The Law was used a a beachhead and suddenly all these new commandments were given, and the sin-nature “went to town” more or less, and started doing what it could to cause the individual to violate these commandments and sin all the more. 2
(3)自分の義によって永遠のいのちを得ることはできないことを悟らせる
モーセの律法の第三の役割は、自分の義によって永遠のいのちを得ることはできないことを教えることです。ローマ7:9では次のように言われています。
9 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たとき、罪は生き、 10 私は死にました。それで、いのちに導くはずの戒めが、死に導くものであると分かりました。
前回の記事で解説したように、律法はすべての律法に従う者に永遠のいのちを約束しています。しかし、罪ある人間には律法に定められた神の義にはとうてい到達できません。また、モーセの律法では、新しい契約のような律法を守り行う力も約束されていません。そのため、律法を通して、自分がかえってのろいを受けて死に定められている人間であることを悟るのです。これが1コリント3章で「死に仕える務め」(2コリント3:9)、「罪に定める務め」(2コリント3:9)と呼ばれていたモーセの律法の役割です。
ガラテヤ3:10でも、次のように言われています。
10 律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。
律法が定める義の基準に到達したのは、歴史上でイエス・キリストただ一人です。そして、イエス・キリストが現れた今、キリストを信じる信仰によって、キリストの義を通して義と認められ、永遠のいのちが与えられる道が開かれています。このキリストが、律法ののろいから私たちを解放してくださるのです。ガラテヤ3:13で次のように言われているとおりです。
13 キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。
キリストは、十字架の木にかけられ、私たちのすべての罪に対するのろいを負って死なれることで、キリストを信じる者を律法ののろいと死の定めから解放してくださいました。
以上見たように、律法の役割は、罪を示し、罪をさらに犯させ、自分の義で永遠のいのちを獲得することは不可能であることを人に教えることで、神への信仰に人々を導くことでした。ガラテヤ3:24~25では次のように言われています。
24 こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。 25 しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。
以上をまとめると、律法の目的は人を信仰に導くことだと言うことができます。そして、イエス・キリストにある信仰に導かれた人は、もはや「養育係」である律法の下にはいません。これは位置的真理と呼ばれ、信者の状態にかかわらず当てはまる真理です。その一方で、信者は律法の下に自分を置いて、律法によって聖化しようとする道を選択することもできます。それが次のローマ7:14~25のテーマです。
2. 信仰生活の中での戦い(ローマ7:14~25)
(1)モーセの律法の下で生きる信者の状態
ローマ7:14~25でパウロは、キリストを信じてモーセの律法から解放されたにもかかわらず、モーセの律法の下で生き、律法を行うことできよめられようとしている信者の状態を自分の体験を通して語っています。
この部分は現在形で書かれているので、パウロの救われる前の経験ではなく、救われてからの体験であることがわかります。また、このローマ7章が、5章から始まる「聖化」をテーマとした文脈の中にあることからも、その事実が裏付けられます。
ローマ7:14~15で、パウロはモーセの律法を通して罪を知った上で、それでも罪を犯してしまう自分のことをこう嘆いています。
14 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は肉的な者であり、売り渡されて罪の下にある者です。15 私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。
「肉的」とはギリシャ語の原語では「サルキコス」です。基本は「肉(体)に関する」という意味で、ここでは肉欲に左右される者といった意味になります。このテーマ全体のキーワードでもあります。
パウロのような信仰者が「肉的な者」であるはずがないと考え、この箇所はパウロが救われる前の話だと主張する人がいます。しかし、パウロにもキリストにある幼子であった時期はあるはずですし、自分の肉(欲望)との戦いは生きている間続くものです。この記述はクリスチャンの現実の一部です。
また、パウロはローマ7:16~17で次のように語っています。
16 自分のしたくないことを行っているなら、私は律法に同意し、それを良いものと認めていることになります。 17 ですから、今それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪なのです。
ここでパウロが言う「罪」とは、アダムから受け継いだ罪の性質(原罪)を指しています。この性質は、クリスチャンになったからといってなくなるものではありません。この自分の内にある罪の性質との戦いが、ローマ7章と8章のテーマとなっています。
(2)信者の2つの性質の間で起こる戦い
すべての人には罪の性質がありますが、クリスチャンには別の性質も備わっています。キリストを信じた時に起きた新生体験で「心に神の律法が書き記されている」(エレミヤ31:33)ためです。パウロはローマ7:22~23で次のように語っています。
22 私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいますが、 23 私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることが分かるのです。
信者に「神の律法を喜ぶ」性質があるのは、新生体験によって神の律法が心に書き記されているためです。しかし、その新しい性質に戦い挑むのが、罪の性質です。また、パウロはローマ7:25でも次のように語っています。
25 私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
ローマ7:19~21では、神の律法が書き記された心と肉体に宿る罪の性質の間で戦いがあり、苦しむ信者の葛藤が告白されています。
19 私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。 20 私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。 21 そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。
これは、新生して新しい心が与えられ、神の律法を喜んではいるが、律法を守ることができないで苦しんでいるクリスチャンの告白です。そして、律法を守ろうとすればするほど、律法の「罪をもっと犯させる」という性質によって、さらに罪を犯して苦しむという悪循環に陥るのです。
この戦いに勝利する鍵は、聖霊によって導かれることです。この点については、ローマ8章の解説を中心にした次の記事で詳しく説明します。
(3)クリスチャンがモーセの律法の下で生きることの問題
モーセの律法の下で聖化を求めるクリスチャンの問題点は、新生して新しい性質を持ってはいても、もう一つの約束である内住の聖霊ではなく、自分の力で律法を守り行おうとしていることにあります。
モーセの律法の役割は、罪を示して認罪に導くことです。罪に打ち勝つ力は、律法では約束されていません。一方、キリストの律法は、エレミヤ31:33の「わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す」(新生)と、エゼキエル36:27の「わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする」(聖霊の内住)という2つの約束を前提にしています。この点が、各律法の下での信仰生活に大きな違いをもたらします。
クリスチャンになると、信じてすぐの時は喜びに満ちているのですが、しばらくすると自分の中でさまざまな葛藤が起こり、クリスチャンになった後の方が苦しいと感じることがあります。「自分は本当に救われているのだろうか?」と思うこともあるかもしれません。それは、かつては罪の性質しかなかった自分に、神の律法を喜ぶ新しい性質が加わって、古い性質と新しい性質の間で戦いが起こっているためです。葛藤があるということは、ある意味本物のクリスチャンになった証しです。ただ、聖霊に導かれるというキリストの律法の下での信仰生活に移行しなければ、この葛藤による苦しみが長く続くことになります。
モーセの律法の下で生きる信仰生活の別の問題点もあります。聖書学者のエドガー・アンドリューは次のように指摘しています。
律法を大事にする人は、御霊をないがしろにする危険性がある。律法によって生きることの問題の一つは、律法の明確な義務を果たしてしまうと、それ以上何も必要ないと感じてしまうことだ。それとは対照的に、御霊の実を結ぶ人は、キリストにならおうとする(ガラテヤ2:20)。キリストの御霊が心と思いに宿っているためである。こうした人は、信仰の創始者であり完成者であるイエスを仰ぎ見ながら、人生のレースを走る(ヘブル12:2)。彼らの行動や態度は、外からのルールによってではなく、内なる御霊によって導かれるのである。
Those who embrace the law are in danger of neglecting the Spirit. One of the problems with living by law is that once the explicit duties of the law have been fulfilled, the person feels that nothing more is required. By contrast, those who cultivate the fruit of the Spirit seek to imitate Christ, whose Spirit inhabits their hearts and minds (Gal. 2:20). They run life’s race looking to Jesus, the author and perfecter of their faith (Heb. 12:2). Their actions and attitudes are dictated by the Spirit within, rather than by external rules. 3
パリサイ人は、自分が守ることができる範囲で律法を守ることで、自分は律法に従っていると考えていました。一方で、従いたくない律法には従わず、さまざまな抜け穴を作ってもいました(マルコ7:9~13)。モーセの律法は、そのようなやり方を認めていません(ヤコブ2:10)。今日も、パリサイ人のような生き方に陥る可能性は大いにあります。
> 諸問題諸問題
ローマ7:14~25の解釈をめぐる議論
先ほども少し触れましたが、ローマ7:14~25は、パウロが救われてからの話ではなく、救われる前の話であると主張する人がいます。パウロのような使徒がそのような葛藤を抱えているわけがないという思い込みがあるのかも知れません。しかし、パウロも同じ肉体を持つ人間ですので、古い性質と新しい性質の戦いを経験していたはずです。そのような誤解は、パウロがコリント人への手紙第一で教えている3種類の人という概念を理解すると解けるかもしれません。1コリント2:14、3:1~3で、パウロは次のように語っています。
14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。
1 兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。 2 私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。3 あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。
ここでは、以下の3種類の人がいることが教えられています。
(1)生まれながらの人(1コリント2:14):未信者
(2)御霊に属する人(1コリント3:1):キリストにある成人
(3)肉に属する人(1コリント3:1):キリストにある幼子
3つ目の「肉に属する人」の「肉」のギリシャ語の原語は、ローマ7:14でパウロが自分は「肉的な者」であると語っていたときと同じ単語「サルキコス」です。上記の1コリント3:1では、「肉に属する人」は「キリストにある幼子」と言われていますので、成長はしていないにしても、クリスチャンであることに間違いありません。そのため、ローマ7:14でパウロが「肉的な者」という表現を使っていても、救われる前でなく、救われた後の話であると考えることに何の問題もありません。
以上を図式化すると次のようになります。
生まれながらの人 | 肉に属する人 | 御霊に属する人 | |
---|---|---|---|
古い性質 | ○ | ○ | ○ |
新しい性質 | × | ○ | ○ |
聖霊の支配 | × | × | ○ |
古い性質と新しい性質に関する神学的混乱
アリエル・ミニストリーズのジョン・メッツガーは、クリスチャンには古い性質と新しい性質という2つの性質があることについて、次のように語っています。
私たちの内で常に対立している2つの性質は、教理上の重大な誤りにつながる可能性がある。ホーリネス・ペンテコステ派の教理を信奉するある男性と議論した際、彼は私に、彼の教団では、信者になると古い性質を失うと信じていると語った。つまり、信者として、新しい性質のみによって活動するようになるというのである。このペンテコステ派の教理は誤りであり、危険でもある。新約聖書全体が、この教理が神からのものではないことを示している。
Our dual and ever-warring natures can lead to serious doctrinal mistakes. In a discussion with a man who espouses Holiness Pentecostal doctrine, he told me that his sect believes that when you become a believer you lose the old nature, meaning that as a believer you are operating only with and from the new nature. This Pentecostal doctrine is both erroneous and dangerous: the entirety of the New Testament shows that this doctrine is not of God.4
このホーリネス・ペンテコステ系の教理だと、1コリント2:14~3:3のパウロの教えを否定することになります。そうすると、クリスチャン生活の現実から目をそらしてしまう結果となります。
「肉に属する人」に関する神学的混乱
メッツガーは、救われているのに「生まれながらの人」のようにふるまう「肉に属する人」の存在は、キリスト教の各教派を混乱させてきたとして、次のように語っています。
3番目の人は、肉に属する人である。この人は、信仰によってイェシュアを罪から救ってくださる自分の救い主として受け入れた人で、御霊に属する人と同じように新生しており、もはや罪の中で死んでいる者ではない。しかし、この人は御霊に属する人ではなく、生まれながらの人のように生きている。カルバン主義者やホーリネス派の人々が問題にするのは、このような人である。カルバン主義者たちは、そのような人は「選ばれた人」ではない、つまり、そもそも救われていない人だと言う。ホーリネス派の人々は、そのような人は救いを失っていると主張する。
肉に属する人は、両方の世界(生まれながらの人の世界と信仰者の世界)に足を入れているが、ほとんどの場合、生まれながらの人のように見え、生まれながらの人のようにふるまっている。私が話をしたことがあるホーリネス派の人は、人間は生まれながらの人と御霊に属する人の2種類しかいないと言う。もしそうだとしたら、なぜ新約聖書の書簡は、信者に宛てて書かれているはずなのに、聖徒と呼ばれながらも、生まれながら人のように生き、行動している人々について語っていることが多いのだろうか。こうした人々は、肉の中に生きている信者であり、その瞬間瞬間をキリストのうちに歩んでいる人ではなく、実際には自分のために生きている肉の人である。
The third kind of person is the carnal man. That person is one who has embraced Yeshua by faith as his personal Savior from sin, so he has been regenerated like the spiritual man and is no longer dead in [his] trespasses and sins. However, this man walks like a natural man and not like a spiritual man. This is the kind of person that the Calvinist and Holiness people have a problem with. The Calvinists say that such a person is not one of the “elect,” meaning that the person was never really saved; the Holiness people claim that he lost his salvation. So the carnal person has a foot in each world (the world of the natural man and the world of the believer), but he mostly looks like and acts like the natural man. The Holiness individual with whom I spoke says there are only two kinds of people, the natural and the spiritual. If that is so, why does the New Testament epistles — written to believers — contain so much material on people who are called saints but are living and acting like the natural man? They are believers who are living in the flesh, in carnality; rather than walking in Christ on a moment-by-moment basis, they are actually living for self, the flesh.5
肉に属するクリスチャンを認めないことの問題点は、そのようなクリスチャンの救いを否定したり、救いを失ったという主張につながることです(ヨハネ10:28、ローマ8:37~39、1ヨハネ5:13)。また、クリスチャンになって間もない人に過大な期待をしてしまうことも問題です。それは赤子にしっかり歩けと言うようなものです。しかし、主の訓練が加わることで(ヘブル12:5~11)、肉に属するクリスチャンがずっとそのままでいることもできません。
> 自由の原則自由の原則
クリスチャンは、モーセの律法から解放されています。その一方で、モーセの律法の一部を守る自由も保証されています。このようなキリストの律法の「自由の原則」も確認しておく必要があります。
新約聖書でも、クリスチャンがモーセの律法の一部を守っている記述があります。たとえば、パウロは使徒18:18で誓願を立てていますが、これは民数記6:2、5、9、18に記されたモーセの律法に基づく行為です。また、使徒20:16でパウロが五旬節までにエルサレムに行こうと急いでいたのも、申命記16:16の規定に基づく行動です。
ユダヤ人の文化として、また未信者のユダヤ人に福音を伝える機会とするためにイスラエルの祭りを祝うことはよいことです。ただ、その行為自体は、義認にも、聖化にも役に立たないものとしてとらえておく必要があります。また、人に律法を守るように教えることは、自由の原則を破ることになります。
> まとめまとめ
モーセの律法を守ることで聖化を達成しようとすることは、新約聖書が教える聖化の方法ではありません。
モーセの律法の役割は、人に罪を示し、自力救済が不可能であることを悟らせて信仰に導くことです。キリストを信じた人は、もはやモーセの律法の下にはいません。クリスチャンには、モーセの律法ではなくキリストの律法が与えられています。
モーセの律法を守ることで聖化を達成しようとする教えには、「一度救われても救いを失うことがある」という教えが結び付くことがよくあります。これも聖書の教えではありません。救いはすべて信仰によるもので、「信仰+行い」で救われるというのは、福音ではなく、偽の福音です。ローマ1:17で次のように言われているとおりです。
17 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
ただし、救われた後には行いが伴うと聖書は教えています。
新しい契約が約束しているクリスチャン生活を送るには、ローマ7章の次の章、ローマ8章に目を向ける必要があります。後編では、ローマ8章からキリストの律法の下で生きるクリスチャン生活の原則を見ていきます。
> 参考資料参考資料
- 中川健一「ローマ人への手紙(24)~(29)」(ハーベスト・メッセージステーション)
- Arnold Fruchtenbaum, “The Law of Moses and The Law of Messiah” (Ariel Ministries Digital Press, 2005)
- Arnold Fruchtenbaum, Yeshua: The Life of Messiah from a Messianic Jewish Perspective – Vol. 2 (Ariel Ministries, 2016)
- John Metzger, The Law, Then And Now: What About Grace? (Grace Acres Press, 2019)
- Charles Leiter, The Law of Christ (Granted Ministries Press, 2012)
- “What is a carnal Christian?,” Got Questions (https://www.gotquestions.org/carnal-Christian.html)
写真:Image by Darelle from Pixabay
-
Samuel Bolton, The True Bounds of Christian Freedom (London: Banner of Truth, 1964) 76, 71 as quoted in Leiter (2012) ↩
-
Arnold Fruchtenbaum, “The Law of Moses and The Law of Messiah” (Ariel Ministries Digital Press, 2005), p.7 ↩
-
Edgar H. Andrews, Free in Christ: The Message of Galatians (Durham, UK: Evangelical Press, 1996), 281. as quoted in Metzger (2019) ↩
-
John Metzger, The Law, Then And Now: What About Grace? (Grace Acres Press, 2019) ↩
-
John Metzger, The Law, Then And Now: What About Grace? (Grace Acres Press, 2019) ↩