置換神学の神学的問題(4)「アブラハムの子孫」はイスラエルか(ガラテヤ3:7、29)

イスラエルは教会に置き換わったのか

はじめに

キリストを信じるクリスチャンは、霊的な意味で「アブラハムの子孫」となっています。聖書で次のように教えられているためです。

ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。(ガラテヤ3:7)

「信仰によって生きる人々」とは、キリストを信じる信仰によって生きるクリスチャンのことです。そして、ここでクリスチャンが「アブラハムの子」と呼ばれているのは、霊的な意味です。というのは、パウロはこの手紙を異邦人(ユダヤ人以外の民族)の地にあったガラテヤの諸教会に書き送っており、読者は基本的にアブラハムと血のつながった子孫ではないためです。そのため、クリスチャンは霊的な意味で「アブラハムの子」ということになります。

同じ3章の終わりでも、パウロは同じことを語っています。

あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。(ガラテヤ3:29)

キリストを信じて「キリストのもの」となっているクリスチャンは、霊的な意味で「アブラハムの子孫」であり、アブラハムに約束されていた祝福を受け継ぐ者とされています。

ここまでは、聖書が教えていることです。しかし、そこからもう一歩踏み込んで、クリスチャンは「霊的なイスラエル」である、と教える人々がいます。たとえば、新約聖書学者のジョージ・エルドン・ラッド(George Eldon Ladd, 1911~1982年)は、次のように教えています。

アブラハムが霊的な民の父であり、すべての信者がアブラハムの子、アブラハムの子孫であれば、霊的な意味で、信者はイスラエルだということになる。1

“If Abraham is the father of a spiritual people, and if all believers are sons of Abraham, his offspring, then it follows that they are Israel, spiritually speaking.”

このような主張は、次のような三段論法によって成り立っています。

  1. アブラハムと血のつながりのない異邦人であっても、キリストを信じれば霊的にアブラハムの子孫となる。
  2. アブラハムの子孫とは、イスラエルのことである。
  3. そのため、クリスチャンは霊的なイスラエル人であり、今では教会が霊的なイスラエルとなっている。

この論理に立つ人々は、旧約聖書でイスラエルに与えられた約束や使命が、今では教会に与えられていると教えます。このような考え方を「置換神学」と言います。教会がイスラエルに取って代わった、とする神学です。

ただ、この三段論法には問題があります。2つ目の「アブラハムの子孫とは、イスラエルのことである」という等式が成り立たないためです。この記事では、この点を、次の3つのポイントで見ていきます。

  1. 「アブラハムの子孫」は必ずしもイスラエルを意味しない
  2. 聖書が語る「アブラハムの子孫」の4つの意味
  3. ガラテヤ書の文脈から見た「アブラハムの子孫」の意味

1. 「アブラハムの子孫」は必ずしもイスラエルを意味しない

最初に確認しておく必要があることは、アブラハムの子孫がすべてイスラエルなのではない、ということです。

アブラハムには、イスラエルの先祖となるイサクのほかに、エジプト人の女奴隷ハガルとの間に生まれたイシュマエルという子どもがいました(創世記16:1、15)。イシュマエルは、アラブ人の先祖となった人物です(ヨセフス『ユダヤ古代誌』1巻12章2節、4節参照)。もし「アブラハムの子孫=イスラエル」という等式が成り立つのであれば、アラブ人もイスラエル(ユダヤ人)ということになってしまいます。

また、アブラハムには、妻サラの死後、後妻として迎えたケトラとの間にも、ミディアンをはじめとする子どもたちが生まれています(創世記25:1~2)。

さらに、神の約束によってアブラハムに生まれた子、イサクにも、イスラエルの先祖となるヤコブのほかに、エサウという子どもがいました。このエサウの子孫は、エドム人です(創世記36:9)。エドム人は、アブラハムの子孫であり、イサクの子孫でもありますが、イスラエルではありません。むしろ、イスラエルに敵対する民族となります(民数記20:14~21)。

このように、「アブラハムの子孫」であるというだけでは、イスラエルであるとは言えません。物理的な領域で「アブラハムの子孫=イスラエル」と言えないのであれば、霊的な領域でも同じです。クリスチャンが霊的な意味で「アブラハムの子孫」と呼ばれているというだけでは、霊的な「イスラエル」になったと結論づけることはできないのです。

イスラエルとは「アブラハム、イサク、ヤコブの子孫」である

聖書的には、イスラエルとは「アブラハム、イサク、ヤコブの子孫」のことです。そもそも、神から「イスラエル」という名前を与えられたのは、アブラハムではなく、孫のヤコブです(創世記32:28)。イスラエル十二部族も、ヤコブの十二人の息子たちから出ています(創世記49:28)。

ユダヤ人(メシアニック・ジュー)神学者のアーノルド・フルクテンバウム博士は、この点について次のように語っています。

契約神学者が行う必要があるのは、信者はみな「ヤコブの子孫」であると証明し、この議論にきっぱりと決着を付けることである。そうすれば、教会が霊的なイスラエルであること、また異邦人が霊的なユダヤ人であることを証明できる。これが、まさに契約神学者が証明できていない点である。アブラハムの子孫はユダヤ人とは限らないが、ヤコブの子孫はみなユダヤ人である。「イスラエル」という言葉自体が、アブラハムではなくヤコブから出た言葉である。もし教会がヤコブの子孫であることがはっきりとわかる聖書箇所が一つでもあれば、契約神学の鍵を握る主張の一つを証明したことになる。だが、これができないのである。それでアブラハムの子孫について語っている聖書箇所に訴えるしかないのであるが、それだけでは自分たちの主張の裏付けにはならない。2

MEMO
引用文中の「契約神学者」とは、旧約と新約を一つの「恵みの契約」で一貫して理解する立場の神学者で、その多くは教会を「霊的なイスラエル」と見なしています。

つまり、成り立つのは「ヤコブの子孫=イスラエル」という等式であって、「アブラハムの子孫=イスラエル」という等式ではないということです。そのため、教会をイスラエルと呼ぶためには、教会が「ヤコブの子孫」であることを示す必要があります。しかし、フルクテンバウム博士が指摘するとおり、教会を「ヤコブの子孫」と呼んでいる箇所は聖書にないのです。そのため、クリスチャンが「アブラハムの子孫」と呼ばれているからといって、教会を「イスラエル」と見なす根拠とはなりません。

「アブラハムの子孫」とは何か

では、パウロが言う「アブラハムの子孫」とは、どのような意味なのでしょうか。

組織神学者のロバート・L・ソーシー(Robert L. Saucy, 1930~2015年)は、「アブラハムの子孫」という言葉の意味について、次のように語っています(文中の聖書引用には新改訳第3版を使用)。

もしアブラハムがイスラエルだけの父であれば、現在アブラハムの子孫の一部となっている異邦人は、イスラエルの一部となっていると結論付けざるをえないだろう。しかし新約聖書によれば、アブラハムはそれ以上の存在である。アブラハムは、イスラエルと異邦人の両方の父として描かれている。アブラハムが割礼を受ける前に、つまりヘブル人(訳注:イスラエル人の古い呼び名)として認識される前にすでに信仰者であったことを根拠に、使徒パウロはアブラハムを「割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父……また割礼のある者の父」と宣言している(ローマ4:9~12。16節も参照)。3

If Abraham were merely the father of Israel, we would have to conclude that the Gentiles who are now a part of this seed are therefore a part of Israel. But according to the New Testament, Abraham is more than that; he is portrayed as the father of both the people of Israel and of the Gentiles. On the grounds that Abraham was a believer before he was circumcised—that is, before he was recognized as a Hebrew—the Apostle Paul declared him to be “the father of all who believe but have not been circumcised . . . and . . . also the father of the circumcised” (Ro 4:9–12; cf. v. 16).

文中で引用されているローマ4:9~12が語っていることは、アブラハムはユダヤ人(割礼のある者)の父であるだけでなく、割礼を受けないまま信じる異邦人信者の父でもあるということです。そのため、「アブラハムの子孫」となったからといって、自動的にユダヤ人となるわけではないのです。クリスチャンが「アブラハムの子孫」と呼ばれているのは、アブラハムのように信仰によって義と認められた者であるからであって、ユダヤ人になったからではありません。

この点については、3つ目のポイントで詳しく説明します。

2. 聖書が語る「アブラハムの子孫」の4つの意味

聖書全体を見ると、「アブラハムの子孫」という言葉は、少なくとも4つの意味で使われていることがわかります。

(1)アブラハムの肉体的子孫

1つ目は、アブラハムの血を引く肉体的な子孫です。

アブラハムの子孫である兄弟たち、ならびに、あなたがたのうちの神を恐れる方々。この救いのことばは、私たちに送られたのです。(使徒13:26)

これは、パウロがピシディアのアンティオキアの会堂で聴衆に語りかけた言葉です(使徒13:14、16参照)。パウロがここで、「アブラハムの子孫である兄弟たち」(イスラエル人)と「神を恐れる方々」(イスラエルの神を敬う異邦人)を区別して呼びかけている点に注目してください。このように、聖書では確かにイスラエル人に対して「アブラハムの子孫」という言葉が使われています。

しかし、先ほど述べたように、肉体的な意味でのアブラハムの子孫はイスラエルだけではありません。実際に、聖書では、アブラハムとエジプト人の女奴隷ハガルとの間に生まれたイシュマエルも、アブラハムの子孫と呼ばれています。

12 神はアブラハムに仰せられた。「その少年とあなたの女奴隷のことで苦しんではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。というのは、イサクにあって、あなたの子孫が起こされるからだ。 13 しかし、あの女奴隷の子も、わたしは一つの国民とする。彼も、あなたの子孫なのだから。」(創世記21:12~13)

ここでいう「あの女奴隷の子」とは、イシュマエルのことです。神は「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」と語る一方で、イシュマエルについても「あなたの子孫」と呼んでいます。つまり、肉体的な意味での「アブラハムの子孫」には、イスラエル以外の民族も含まれるのです。

(2)イエス・キリスト

2つ目は、イエス・キリストです。

 約束は、アブラハムとその子孫に告げられました。神は、「子孫たちに」と言って多数を指すことなく、一人を指して「あなたの子孫に」と言っておられます。それはキリストのことです。(ガラテヤ3:16)

パウロは、アブラハムへの約束で使われている「子孫」という言葉が単数形であることに注目し、究極的にはただ一人の方、キリストを指していると説明しています。イエスは肉体的にもアブラハムの子孫として生まれ(マタイ1:1)、アブラハムに与えられた約束を受け継ぎ、成就される方です。

(3)信仰あるユダヤ人(レムナント)

3つ目は、アブラハムの肉体的な子孫であると同時に、信仰によって霊的な子孫にもなっているユダヤ人信者です。聖書は彼らを、イスラエルの「残りの者(レムナント)」と呼んでいます(ローマ9:27、11:5参照)。パウロはこのレムナントについて、次のように語っています。

6 しかし、神のことばは無効になったわけではありません。イスラエルから出た者がみな、イスラエルではないからです。 7 アブラハムの子どもたちがみな、アブラハムの子孫だということではありません。むしろ、「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」からです。 8 すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもなのではなく、むしろ、約束の子どもが子孫と認められるのです。(ローマ9:6~8)

パウロは、「イスラエルから出た者がみな、イスラエルではない」と語っています。これは、民族としてのイスラエルの中に、信仰を持つ「イスラエルの中のイスラエル」がいるという意味です。イシュマエルではなくイサクが約束の子とされたように、アブラハムの肉体的な子孫の中で、約束を信じる者が「子孫」と認められるのです。

ここで注意したいのは、パウロがこの箇所で語っているのは、あくまでもイスラエル民族の中での区別だということです。異邦人がイスラエルになるという話ではありません。そのことは、直前の箇所を見るとよくわかります。

3 私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。 4 彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法の授与も、礼拝も、約束も彼らのものです。(ローマ9:3~4)

パウロは、まだキリストを信じていない同胞のユダヤ人を、なお「イスラエル人」と呼んでいます。そして、子とされることも、契約も、約束も、今も「彼らのもの」だと語っています。キリストの十字架と復活の後であっても、イスラエルへの約束は教会に移されたのではなく、依然としてイスラエルのものなのです。

さらにパウロは、ガラテヤ人への手紙の結びで、次のように祈っています。

この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。(ガラテヤ6:16)

ここでいう「神のイスラエル」も、イスラエルの残りの者(レムナント)のことです。異邦人に割礼を強要するユダヤ主義者(後述)に従わず、信仰による救いの教えに立ち続けたユダヤ人信者を指しています。

MEMO
ガラテヤ6:16の「神のイスラエル」の解説については、「置換神学の神学的問題(1)教会は「神のイスラエル」か(ガラテヤ6:16)」を参照してください。

(4)クリスチャン

4つ目は、キリストを信じる人々、つまりクリスチャンです。

ここで言う「アブラハムの子孫」は、民族的な意味ではなく霊的な意味であり、ユダヤ人信者と異邦人信者の両方を含みます。異邦人信者は、肉体的にはアブラハムの子孫ではありませんが、キリストにあって、霊的な意味でアブラハムの子孫とされました。キリストを信じる信仰によって、信仰によって義とされたアブラハムにならう者となったためです(ローマ4:9~12)。これが、ガラテヤ3:7、29が言うところの「アブラハムの子孫」の意味です。なお、ユダヤ人信者は(3)と(4)の両方に当てはまります。

以上見てきたように、「アブラハムの子孫」という言葉には、複数の意味があります。

  1. 肉体的な子孫(イスラエル人のほか、アラブ人、エドム人など)
  2. イエス・キリスト
  3. 肉体的かつ霊的な子孫(イスラエルの「残りの者(レムナント)」)
  4. 霊的な子孫(キリストを信じるすべてのクリスチャン)

そのため、「アブラハムの子孫」という言葉が出てきたからといって、自動的に「イスラエル」を意味するわけではありません。どの意味で使われているのかは、文脈によって判断する必要があります。

3. ガラテヤ書の文脈から見た「アブラハムの子孫」の意味

では、パウロはガラテヤ書の中で「アブラハムの子孫」という言葉を使うことで、何を伝えようとしていたのでしょうか。聖書解釈の基本は「一に文脈、二に文脈、三に文脈」です。ガラテヤ3:7、29がどのような文脈に置かれているのかを見ていきましょう。

ガラテヤ書が書かれた当時、ガラテヤの諸教会には「異邦人も割礼を受け、ユダヤ人のように律法を守らなければ救われない」と教える人々がいました(ガラテヤ5:2~4、6:12~13参照)。この人々は一般に「ユダヤ主義者(Judaizers)」と呼ばれます。

パウロは、こうしたユダヤ主義者の影響を受けていたガラテヤ教会の人々に対して、人は律法の行いではなく信仰によって義と認められること、異邦人は割礼を受けてユダヤ人になる必要はなく、異邦人のままで救われることを教えました。そのような文脈で書かれたのが、次の言葉です。

26 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。 27 キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。 28 ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。 29 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。(ガラテヤ3:26~29)

ここでパウロは、キリストにあって神の子どもとなった人々について、「ユダヤ人もギリシア人もなく」と語っています(「ギリシア人」は異邦人の代表として挙げられている)。もしパウロが「異邦人もイスラエルになった」と教えたかったのであれば、「あなたがたはみなユダヤ人になった」と言ったはずです。しかし、パウロはそうは言いませんでした。パウロが言っているのは、キリストを信じる信仰によって救われるという点では、ユダヤ人も異邦人も変わらない、ということです。ですから、この箇所は、クリスチャンがイスラエルやユダヤ人になったことを教えているのではありません。

ガラテヤの異邦人信者にとって、これは大きな意味を持つ言葉でした。ユダヤ主義者は、異邦人がアブラハムの祝福にあずかるには、割礼を受けてユダヤ人のようにならなければならないと主張していたからです。それに対してパウロは、キリストのものであるなら、割礼を受けていない異邦人のままで、すでにアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのだと教えたのです。

そもそも、神がアブラハムに約束されたのは、地上のすべての民族がアブラハムによって祝福されることでした(創世記12:3)。すべての民族が祝福されるとは、すべての民族がイスラエルになることではありません。異邦人が異邦人のままで、信仰によってアブラハムの祝福を受けることこそが、アブラハムに対する約束の成就なのです。

また、ガラテヤ3:28を根拠に、「キリストにあっては、もはやユダヤ人と異邦人の区別はない。だから教会がイスラエルなのだ」と言われることがあります。しかし、同じ節に「男と女もありません」とあることに注目してください。もし「ユダヤ人もギリシア人もなく」が民族の区別がなくなることを意味するのであれば、同じ論理で、男女の区別もなくなったことになってしまいます。しかし、キリストを信じた人が男女の別を失うわけではありません。パウロ自身、夫と妻にそれぞれ異なる勧めを与えています(エペソ5:22~33)。

同じように、キリストにあっても民族の区別はなくなりません。パウロは、キリストを信じた後も自分のことを「イスラエル人」と呼んでいますし(ローマ11:1)、教会に向けて語る際にも、ユダヤ人と異邦人を区別しています(ローマ11:13、1コリント7:17~20)。「キリスト・イエスにあって一つ」とは、ユダヤ人も異邦人も、奴隷も自由人も、男も女も、キリストにあって等しく神の子どもとされ、一つのからだに結ばれているという意味です。パウロが、キリストはユダヤ人と異邦人を「新しい一人の人」に造り上げたと語っているとおりです(エペソ2:15)。決して民族や性別の違いが消えるという意味ではないのです。

パウロがガラテヤ3章で一貫して語っているのも、異邦人が異邦人のままでアブラハムの祝福にあずかるということでした。

聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって福音を告げました。(ガラテヤ3:8)

それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。(ガラテヤ3:14)

パウロによれば、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」というアブラハムへの約束は、神が異邦人を信仰によって義と認めることを前もって告げたものでした。そして、その祝福はキリスト・イエスによって異邦人に及んだのです。ここでもパウロは、異邦人がイスラエルになったとは語っていません。異邦人は、異邦人のままで、アブラハムの祝福を受けるのです。

つまり、パウロがガラテヤ書で「アブラハムの子孫」という言葉を用いたのは、異邦人信者が割礼を受けなくても、すでにアブラハムへの約束にあずかっていることを示すためでした。教会がイスラエルに取って代わったと教えるためではありません。

結論

この記事では、「クリスチャンは『アブラハムの子孫』なのだから、教会はイスラエルである」という置換神学の主張を、3つのポイントで検証しました。

第一に、「アブラハムの子孫」は必ずしもイスラエルを意味しません。アブラハムの子孫には、アラブ人やエドム人も含まれます。聖書がイスラエルと呼ぶのは「アブラハム、イサク、ヤコブの子孫」であり、聖書は教会を「ヤコブの子孫」とは呼んでいません。

第二に、聖書が語る「アブラハムの子孫」には、(1)アブラハムの肉体的子孫、(2)イエス・キリスト、(3)信仰あるユダヤ人(レムナント)、(4)クリスチャンという4つの意味があります。そのため、「アブラハムの子孫」という言葉が出てくるたびに、それをイスラエルと解釈することはできません。

第三に、ガラテヤ書の文脈で見ると、パウロが教えていたのは、異邦人がイスラエルになることではなく、異邦人が異邦人のままで、信仰によってアブラハムの祝福にあずかるということでした。「ユダヤ人もギリシア人もなく」という言葉も、民族の区別がなくなったという意味ではなく、民族の違いにかかわらず、だれでも同じようにキリストに対する信仰によって神の子どもとされる、という意味です。

そのため、置換神学の土台となっている「アブラハムの子孫=イスラエル」という前提は、聖書全体の用法からも、ガラテヤ書の文脈からも支持されません。クリスチャンが「アブラハムの子孫」と呼ばれていることは、教会がイスラエルになったことを意味しないのです。

参考資料

  • アーノルド・フルクテンバウム著(佐野剛史訳)『イスラエル学』(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ、2018年)
  • Michael J. Vlach, Has the Church Replaced Israel? (B&H Academic, 2010)

脚注

  1. G. E. Ladd, “Historic Premillennialism,” in The Meaning of the Millennium: Four Views, ed. R. G. Clouse (Downers Grove, IL: InterVarsity, 1977), 24. ↩

  2. アーノルド・フルクテンバウム著(佐野剛史訳)『イスラエル学』(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ、2018年)p.172 ↩

  3. R. L. Saucy, The Case for Progressive Dispensationalism: The Interface Between Dispensational and Nondispensational Theology (Grand Rapids: Zondervan, 1993), 50. ↩

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