> はじめにはじめに
置換神学とは、イスラエルが不信仰のゆえに神の計画から退けられ、新約時代の教会がイスラエルに取って代わった(置き換わった)とする考え方です。本シリーズでは、置換神学が根拠としている聖書箇所を一つずつ取り上げ、その解釈が聖書に照らして正しいかどうかを検証しています。
今回取り上げるのは、ペテロの手紙第一の2章9~10節です。ここでは9節を引用します。
9 しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。(1ペテロ2:9)
この箇所では、「選ばれた種族」「王である祭司」「聖なる国民」「神のものとされた民」という、かつてイスラエルに与えられていたような称号(タイトル)が、手紙の読者、つまりクリスチャンに対して使われています。そのため置換神学では、この箇所を「教会が新しいイスラエルになった」ことを示す代表的な根拠の一つとして用いてきました。
しかし、この箇所を文脈と原語に沿って読むと、置換神学の解釈には大きな問題があることがわかります。本記事では、ペテロがこの手紙をだれに宛てて書いたのか、そしてこの称号がだれに当てはまるのかを確認しながら、この箇所が本当に「教会がイスラエルに取って代わった」と教えているのかを考えていきます。
> 置換神学の主張置換神学の主張
ペテロの手紙第一の2章9~10節の全体を引用します。
9 しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。 10 あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。(1ペテロ2:9~10)
1ペテロ2:9に挙げられている称号は、旧約聖書でイスラエルに与えられたことばを背景としています。特に「王である祭司」「聖なる国民」は、シナイ山で神がイスラエルに語られた「あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジプト19:6)ということばに由来しています。
置換神学では、1ペテロ2:9の「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民」という称号、特権、役割は、旧約聖書でイスラエル民族に与えられていたものだと考えます。そして、ペテロがこの称号を手紙の読者であるクリスチャンに当てはめているということは、そうしたものが新約時代の教会へと完全に引き継がれた証拠として解釈します。つまり、イスラエルが持っていた立場は、今では教会のものになったというのです。
また、1ペテロ2:10の「あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり」という記述から、この手紙は異邦人(ユダヤ人以外の民族)に向けて書かれたものだと主張します。
以下では、この置換神学の解釈にどのような問題があるのかを見ていきます。
> 置換神学の主張の問題点置換神学の主張の問題点
問題1:教会は「エスノス(民族)」ではない
前回の記事でも述べたように、聖書は教会を「エスノス(民族)」と呼んでいません。
1ペテロ2:9で「国民」と訳されているギリシア語の原語は「エスノス」(単数形)です。エスノスは、血筋や言語、文化などを共有する一つの民族や国民を表すことばです。新約聖書でこの語は約160回使われています。単数形の場合は一つの民族を指し、多くの場合、イスラエル民族を指しています(ルカ7:5、ヨハネ11:48~52、使徒10:22など)。一方、複数形の場合は、イスラエル以外の諸民族、つまり「異邦人」を指すのが一般的です。
これに対して、新約聖書は教会を「エクレシア(呼び出された者たちの集まり)」、「キリストのからだ」(エペソ1:23)、ユダヤ人と異邦人から造られた「新しい一人の人」(エペソ2:15)などと呼んでいます。教会は、あらゆる部族、言語、民族、国民の中から贖い出された人々の集まりです(黙示録5:9)。つまり教会は、多くの民族の人々から成る共同体であって、教会自体が一つの民族(エスノス)なのではありません。そのため、聖書で教会が単数形の「エスノス」で呼ばれている確実な例を見つけることはできません。
そうであれば、「聖なる国民(エスノス)」という称号を、そのまま教会全体に当てはめることには無理があります。
問題2:ペテロの手紙はユダヤ人信者に向けて書かれている
新約聖書には、異邦人信者を含む教会全体に宛てて書かれた手紙だけでなく、主にユダヤ人信者に向けて書かれた手紙もあります。ところが置換神学は、ユダヤ人信者に宛てて書かれた手紙の記述を、そのまま教会全体に当てはめて、誤った解釈に陥っていることがよくあります。1ペテロ2:9~10は、その一例です。
ペテロは、この手紙の冒頭で読者について次のように書いています。
イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤおよびビテニヤに離散し寄留している人たち、(1ペテロ1:1。口語訳)
ここで「離散し」と訳されているギリシア語の原語は「ディアスポラ」です。ディアスポラは、新約聖書の時代には、イスラエルの地を離れて諸国に散らされて住むユダヤ人を指す言葉としてすでに定着していました。
ディアスポラは離散のユダヤ人
「ディアスポラ」という名詞は、新約聖書で3回使われています。この箇所を含め、すべて離散のユダヤ人を指しています。ヨハネの福音書では次のように言われています。
すると、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには見つからないとは、あの人はどこへ行くつもりなのか。まさか、ギリシア人の中に離散している人々のところに行って、ギリシア人を教えるつもりではあるまい。(ヨハネ7:35)
この「離散している人々」の原語が「ディアスポラ」です。ここでは、ギリシア人の住む地域に離散して暮らしているユダヤ人を指しています。
また、イエスの兄弟ヤコブ(ガラテヤ1:19、マタイ13:55参照)は、「ヤコブの手紙」の冒頭で次のように書いています。
神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、離散している十二部族にあいさつを送ります。(ヤコブ1:1)
ここでも「離散している」の原語はディアスポラです。しかもここでは「離散している十二部族」と言われているので、イスラエル民族を指していることがいっそう明確になっています。ヤコブの手紙も、ユダヤ人信者に宛てて書かれた手紙の一つです。
このように、新約聖書のほかの2か所でディアスポラが離散のユダヤ人を指している以上、1ペテロ1:1も同じ意味で理解するのが自然です。
ペテロはユダヤ人への使徒
パウロが「異邦人への使徒」として召されていたのに対して、ペテロは「割礼を受けた者への使徒」とされていました(ガラテヤ2:7~9)。ペテロは主にユダヤ人に対する働きを委ねられていたのです。
また、ヤコブはエルサレム教会の中心人物であり(使徒15:13~21、21:18)、教会の伝承では、エルサレム教会の初代監督だったと伝えられています(エウセビオス『教会史』2.1.2~3、2.23.1参照)。つまり、ペテロもヤコブも、ユダヤ人信者を指導する立場にありました。そのため、二人がユダヤ人信者に向けて手紙を書いたのはごく自然なことです。
そのため、「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民」(1ペテロ2:9)ということばは、第一義的にはユダヤ人信者に向けて語られたものだと言えます。
教会教父もペテロの手紙がユダヤ人に宛てて書かれたと語っている
ペテロの手紙がユダヤ人に宛てて書かれたという考え方は、新しいものではありません。教会教父のオリゲネスやカエサリアのエウセビオス、そして宗教改革者のカルバンも、ペテロの手紙第一の読者をユダヤ人信者として考えていました。
置換神学に詳しい神学者、マイケル・J・ヴラフ(Michael J. Vlach)は、このことについて次のように書いています。
私は、「ペテロはこの手紙で異邦人信者に語りかけている」という見方を当然のものとは考えない。ヒーバートが指摘しているように、「オリゲネスをはじめとする多くの人々は、彼ら[ペテロの手紙の読者]をユダヤ人クリスチャンとみなしていた」。この「多くの人々」には、カルバンや、ベンゲル、ヴァイス、アルフォード、イングリッシュ、ウエストが含まれる。『古代キリスト教聖書注解(Ancient Christian Commentary on Scripture)』は、ペテロの手紙第一の序論で、「ごくわずかな例外を除いて、教父たちは、この手紙が使徒ペテロによって書かれ、ディアスポラのユダヤ人クリスチャンに送られたと信じていた」と述べている。そして、ペテロの手紙第一の読者をユダヤ人とするこの見解を持っていた人物として、カエサリアのエウセビオス、ディデュモス、アンドレアス、オイクメニオスを挙げている。1
I do not take it as a given that Peter was addressing Gentile believers in his epistle. Hiebert points out that “Origen and many others, saw them [Peter’s audience] as Jewish Christians.” These “others” include Calvin, Bengel, Weiss, Alford, English, and Wuest. In its introductory comments on 1 Peter, the Ancient Christian Commentary on Scripture states, “With few exceptions, the Fathers believed that this letter was written by the apostle Peter and sent to Jewish Christians in the Diaspora.” It then lists Eusebius of Caesarea, Didymus, Andreas, and Oecumenius as those who held this view of the Jewish audience of 1 Peter.
このように、ペテロの手紙の読者をユダヤ人信者とする理解は、古代の教父から宗教改革者、そして現代の聖書学者(アーノルド・フルクテンバウム博士など)に至るまで、長い歴史を持つ見解です。
また、「先祖伝来のむなしい生き方」は、口伝律法を中心とした律法主義的な生き方を指していると理解することができます。さらに、1世紀のディアスポラには、周囲の異教文化に同化し、律法を捨てたユダヤ人がいたことが知られています2。アレクサンドリアのユダヤ人哲学者フィロンも、律法を捨てた同胞が放縦や泥酔、快楽に身をゆだねる様子を、1ペテロ4:3とよく似たことばで描いています(フィロン『徳について』182)。ペテロの手紙の読者の中にも、そうした過去を持つ人々がいたと考えられます。
> 1ペテロ2:9の解釈1ペテロ2:9の解釈
しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。
では、この節に挙げられている「選ばれた種族」「王である祭司」「聖なる国民」「神のものとされた民」という四つの称号は、だれに当てはまるのでしょうか。
一部は異邦人信者にも当てはまる
四つの称号のうち、「王である祭司」は新約時代の教会(異邦人を含む)にも当てはまります。黙示録では、キリストに贖われた人々について次のように言われています。
私たちの神のために、彼らを王国とし、祭司とされました。彼らは地を治めるのです。(黙示録5:10)
ここで「彼ら」と言われているのは、直前の黙示録5:9にあるとおり、あらゆる民族の中から贖われた人々です。
「神のものとされた民」も、同じく教会全般に当てはまります。エルサレム会議で、ヤコブは次のように語りました。
神が初めに、どのように異邦人を顧みて、彼らの中から御名のために民をお召しになったかについては、シメオンが説明しました。(使徒15:14)
1ペテロ2:9と使徒15:14で「民」と訳されているギリシア語はどちらも「ラオス」で、「エスノス」ではありません。神は異邦人の中からも、ご自分の名のために「民(ラオス)」を召し出しておられます。ただし、教会は神の「民」ではあっても、一つの「民族(エスノス)」ではありません。
一部はユダヤ人信者にしか当てはまらない
しかし、「聖なる国民」と「選ばれた種族」(いずれも単数形)は、教会には当てはまりません。これは、今もイスラエルという民族に与えられている称号です。ペテロは、その称号を、イスラエルの中でイエスをメシアと信じた者たちに向けて使っています。
「国民」と訳されている「エスノス」は、先に見たとおり、一つの民族を意味します。そのため、多くの民族から構成される教会を「聖なる国民(単数のエスノス)」と呼ぶのは不自然です。
また、「種族」と訳されているギリシア語「ゲノス」は、部族、氏族、民族といった、血筋によって結ばれた集団を意味します。さまざまな背景の人々の集まりを表せる「ラオス(民)」とは違い、教会を「選ばれた種族(単数のゲノス)」と呼ぶことには無理があります。
教会は、さまざまな民族や種族の人々が集まった共同体です。そのため、一つの「種族」や一つの「民族」と理解することはできません。したがって、1ペテロ2:9の「選ばれた種族」「聖なる国民」は、この手紙の読者であるユダヤ人信者にしか当てはまらないことばだと理解するべきです。
また、旧約聖書でイスラエルに与えられていた称号や特権、役割の一部が教会にも与えられているとしても、それで教会がイスラエルに置き換わったことにはなりません。教会がイスラエルと同じ祝福にあずかることと、イスラエルが神の計画から外されることとは、まったく別の問題だからです。
> 1ペテロ2:10の解釈1ペテロ2:10の解釈
あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。(1ペテロ2:10)
置換神学は、このことばを異邦人に向けて語られたものだと考えます。つまり、かつて神を知らなかった異邦人が、今ではキリストへの信仰によって神の民となり、神のあわれみを受けている、と解釈するのです。
しかし、この箇所はホセア書からの引用です(ホセア1:6、9~10、2:23)。ホセアの預言の中で、神はご自分に背いた北王国イスラエルに対して、「ロ・ルハマ(あわれまれない)」「ロ・アミ(わたしの民ではない)」という名の子どもたちを通して、さばきを宣告されました。しかし同時に、やがて彼らが再び「わたしの民」と呼ばれ、あわれみを受ける日が来ることも約束されたのです(ホセア1:10~11、2:23)。
ホセアがこのことばを語ったのは、北王国イスラエルがアッシリアに滅ぼされて国を失い(紀元前722年)、十部族が捕囚の民となろうとしていた時代でした。つまり、この預言は本来、さばきを受けて国を失う北王国イスラエルの回復についての預言なのです。
ペテロは、このホセアの預言を、イエスをメシアと信じて神に立ち返ったイスラエル人(ユダヤ人)に当てはめています。かつて「わたしの民ではない」と言われた者たちが、今ではイエスを信じることによって再び「神の民」とされ、あわれみを受けているのです。これは、異邦人が新しいイスラエルになったという意味ではありません。イスラエルの中の真の信仰者を通して、ホセアの預言が成就し始めていることを示しているのです。
> 結論結論
本記事では、置換神学が1ペテロ2:9~10を根拠に「教会がイスラエルに取って代わった」と主張していることについて、その問題点を見てきました。
第一に、聖書は教会を一つの「エスノス(民族)」とは呼んでいません。教会はあらゆる民族から召し出された人々の集まりであり、「聖なる国民(エスノス)」という称号をそのまま教会全体に当てはめることはできません。
第二に、ペテロの手紙は、ディアスポラ、すなわち離散のユダヤ人信者に宛てて書かれた手紙です。「割礼を受けた者への使徒」であるペテロがユダヤ人信者に手紙を書いたのは自然なことであり、この理解は古代の教父や宗教改革者にも共有されていました。
第三に、1ペテロ2:9の四つの称号のうち、「王である祭司」と「神のものとされた民」は教会にも当てはまりますが、「選ばれた種族」と「聖なる国民」は今もイスラエルのみに当てはまる称号です。また、一部の称号が教会にも当てはめられているからといって、教会がイスラエルに置き換わったことにはなりません。
第四に、1ペテロ2:10はホセア書の引用で、本来は北王国イスラエルの回復を約束した預言です。ペテロはこれを、イエスを信じて神に立ち返ったイスラエル人(ユダヤ人)信者に当てはめています。
以上のことから、1ペテロ2:9~10は、教会がイスラエルに取って代わったことを教える箇所ではありません。むしろ、イスラエルの中の信仰ある残りの者たち(レムナント)が、神から与えられた本来の召しを果たし始めていることを示す箇所だと言えます。
> 参考文献参考文献
- Arnold G. Fruchtenbaum, “Replacement Theology and the Epistle of I Peter” (Ariel Ministries)
- Arnold G. Fruchtenbaum, Ariel’s Bible Commentary: The Messianic Jewish Epistles – Hebrews, James, I & II Peter, Jude (Ariel Ministries, 2005)
- Michael J. Vlach, Has the Church Replaced Israel? (B&H Academic, 2010)
- Andrew D. Robinson, Israel Betrayed: Volume 1: The History of Replacement Theology (Ariel Ministries, 2018)
- エウセビオス著(秦剛平訳)『教会史(上下巻合本版)』(講談社、2022年)Kindle版
> 脚注脚注
Michael J. Vlach, Has the Church Replaced Israel? (B&H Academic, 2010), p.147 (Kindle版) ↩
“Ancient Jewish History: Hellenism” (https://jewishvirtuallibrary.org/jsource/History/hellenism.html) ↩

