> はじめにはじめに
「教会は新しいイスラエルである」。このような教えを聞いたことはないでしょうか。これは「置換神学」と呼ばれる立場で、その代表的な根拠とされるのがガラテヤ6:16の「神のイスラエル」という言葉です。しかし、この聖句は本当に教会を指しているのでしょうか。この記事では、原文の構造、パウロの用法などから、この解釈の問題点を検証します。
> 定義定義
置換神学とは、教会がイスラエルに取って代わり、神の民としての地位を教会が受け継いだと考える神学的立場です。
置換神学は次のように主張します。
- イスラエル民族の大半がイエスをメシアとして受け入れなかったため、教会がイスラエルに取って代わった。
- 神とイスラエルの契約は、教会(イエスを信じる人々)が引き継いだ。
- 教会が「新しいイスラエル」「霊的イスラエル」となった。
置換神学には神学的な問題と実際的な問題がありますが、本シリーズでは神学的な問題を取り上げます。
> ガラテヤ6:16「神のイスラエル」の解釈ガラテヤ6:16「神のイスラエル」の解釈
置換神学の根拠として挙げられる重要な聖句の一つが、ガラテヤ6:16です。
この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。(新改訳2017)
置換神学では、この「この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に」という部分を、「この基準にしたがって進む人々、すなわち神のイスラエルの上に」と理解します。
つまり、「この基準にしたがって進む人々」=「神のイスラエル」と考えるわけです。
「この基準にしたがって進む人々」とは、直前の15節にある「割礼の有無ではなく、新しく創造されること」を重視する人々です。したがって、割礼などの律法上の行為ではなく、キリストを信じる信仰によって救われると考える人々のことを指しています。置換神学者は、このガラテヤ6:16を根拠として、新約時代には教会が「霊的イスラエル」となったと主張します。
しかし、この解釈にはいくつもの問題があります。
ガラテヤ6:16は置換神学の土台となる重要な箇所ですから、ここで詳しく検討する必要があります。
> 問題1:イスラエルを教会と読み替えられる可能性がある聖句はこの箇所しかない問題1:イスラエルを教会と読み替えられる可能性がある聖句はこの箇所しかない
「イスラエル」を「教会」と読み替えることができる聖句として挙げられるのは、事実上この箇所だけです。置換神学者は、ガラテヤ6:16以外に、「イスラエル」を「教会」と読み替えることができる聖書箇所を挙げることができません。
新約聖書には「イスラエル」という言葉が70回以上登場します。いずれも、民族としてのイスラエルを指しています。それにもかかわらず、この箇所だけは「教会」を指すと主張するのであれば、立証責任は主張する側にあります。しかし、以下に見ていくとおり、置換神学者がその責任を果たしているとはとても言えません。
しかも、ガラテヤ6:16は教理を体系的に論じている箇所ではなく、手紙の結びに置かれた祝祷の言葉です。このような箇所を根拠に、聖書全体の読み方を根本から変えてしまうような神学を打ち立てるのは誤りです。
ガラテヤ6:16は、いわば置換神学という巨大な象を支える、1本の割り箸のようなものです。しかし、この1本の聖句では、置換神学という巨大な神学体系の重みを支え切れません。
> 問題2:「カイ」を「すなわち」と訳す用法はまれである問題2:「カイ」を「すなわち」と訳す用法はまれである
新改訳2017で「そして」と訳され、置換神学が「すなわち」「つまり」の意味に解釈しているギリシア語の原語は「カイ」です。
「カイ」は英語の「and」にあたる接続詞で、新約聖書では「そして」「と」「また」と訳されることが多い言葉です。ただし、直前の語を言い換えたり説明したりする用法(説明的用法)もあり、その場合は「すなわち」「つまり」などと訳されます。しかし、「カイ」がこのような意味で使われている例は少数にとどまります。用例の多くが「そして」「また」の意味である以上、ここで「すなわち」と読むには、それなりの根拠が必要になります。
> 問題3:近年の日本語訳では置換神学に合う解釈は採用されていない問題3:近年の日本語訳では置換神学に合う解釈は採用されていない
以前の新改訳聖書では、置換神学に合う解釈に沿った訳文が採用され、次のように訳されていました。
どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。(ガラテヤ6:16、新改訳第三版)
ここでは「カイ」が「すなわち」と訳され、「この基準に従って進む人々」=「神のイスラエル」と解釈されていることがわかります。しかし、先に引用したとおり、最新の新改訳2017では「カイ」は「そして」と訳されており、「この基準にしたがって進む人々」と「神のイスラエル」は別のグループとして扱われています。
この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。(ガラテヤ6:16、新改訳2017)
新改訳は新日本聖書刊行会が刊行する聖書ですが、同じ傾向は日本聖書協会が刊行する聖書にも見られます。1987年に刊行された新共同訳の後継として2018年に刊行された聖書協会共同訳(聖共同訳)でも、新改訳2017と同様に「カイ」の訳語が改められています。
このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。(新共同訳)
↓
この基準に従って進む人々の上に、また、神のイスラエルの上に、平和と憐れみがありますように。(聖共同訳)
なお、「カイ」を新改訳2017や聖書協会共同訳のように「そして」「また」と訳すのは、最近始まった傾向ではありません。1954年に刊行された口語訳新約聖書でも、同じように訳されています。
この法則に従って進む人々の上に、平和とあわれみとがあるように。また、神のイスラエルの上にあるように。(口語訳)
口語訳では、「この法則に従って進む人々」と「神のイスラエル」がそれぞれ別の文に置かれており、両者が別の存在であることがはっきりしています。これは、原文の構造に忠実な訳し方と言えます(次の「問題4」を参照)。
さらにさかのぼると、宗教改革の時代に訳されたジュネーブ聖書(Geneva Bible、1560年刊行)では、ガラテヤ6:16の「神のイスラエル」に「つまり、ユダヤ人の上に(that is, upon the Jewes)」という注が付けられています(「Jewes」は原書の綴り)1。
> 問題4:原文の構文上、「カイ」を置換神学のように解釈するには無理がある問題4:原文の構文上、「カイ」を置換神学のように解釈するには無理がある
ガラテヤ6:16の原文では、「カイ」が3回使われています。
原文の構造に忠実な英語訳を見ると、3つの「カイ」をすべて「and」と訳し、原文とまったく同じ位置に置いていることがわかります。
And as many as shall walk by this rule, peace be upon them, and mercy, and upon the Israel of God. (ASV)(ガラテヤ6:16)
この構造を見ると、「この基準にしたがって進む人々(them)」と「神のイスラエル(Israel of God)」の間が、2つの「カイ」で隔てられていることに気づきます。さらに、「神のイスラエル」の直前には、英語の前置詞「upon」にあたるギリシア語「エピ」が改めて置かれています。「この基準にしたがって進む人々の上に(エピ)」と書いた後に、もう一度「神のイスラエルの上に(エピ)」と言い直しているのです。これは、祝福の対象が2つあることを示す書き方です。
こうした構造は、「カイ」を「すなわち」と訳している新約聖書のほかの箇所には見られません。たとえば、テトス2:13は次のようになっています。
祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。(テトス2:13)
「すなわち」と訳されているカイは、「祝福に満ちた望み」という言葉のすぐ後に置かれています。そして、その後に「大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れ」という説明が続くという構造になっています。原文の構造に忠実な英語訳やギリシア語原文を見ても、構造は同じです。
looking for the blessed hope and appearing of the glory of the great God and our Saviour Jesus Christ; (テトス2:13、ASV)
つまり、説明的用法の「カイ」は、説明される語の直後に置かれ、その後に説明が続きます。その間に別の語句や前置詞を挟みません。
ガラテヤ6:16では、そうなってはいません。したがって、原文の構造から見ても、ガラテヤ6:16の「カイ」を説明的用法と解釈するのは無理があります。「この基準にしたがって進む人々」=「神のイスラエル」と考えるより、「神のイスラエル」は「この基準にしたがって進む人々」とは別のグループであると考えるほうが、文法構造上も自然な解釈です。
> 問題5:パウロの通常の用法ではない問題5:パウロの通常の用法ではない
パウロは手紙の中で「イスラエル」という語を17回ほど使っていますが、いずれも民族としてのイスラエルを指しています。
パウロは「イスラエルから出た者がみなイスラエルではない」(ローマ9:6)とも語っていますが、これもイスラエル民族の内部にいる「残りの者」を指しており、異邦人は視野に入っていません。「残りの者」とは、「レムナント」と呼ばれる、イスラエル内部の真の信仰者のことです。
レムナントの神学
聖書には「レムナント(Remnant)」と呼ばれる概念があります。「レムナント」とは「残りの者」という意味の言葉で、イスラエル民族の中の真の信仰者を指します。イスラエル民族の中でも、神に従う信仰者は一部にすぎないという事実を反映した概念です。
この概念は旧約聖書にすでに見られます。エリヤの時代、神はバアルにひざをかがめなかった7千人を「残している」と語られました(1列王記19:18)。パウロはこの7千人を引き合いに出し、自分の時代にも「恵みの選びによって残された者」がいると述べています(ローマ11:4〜5)。パウロはローマ9〜11章で、このレムナントの神学を展開しています(詳細は別の記事で紹介します)。
> 「神のイスラエル」の意味「神のイスラエル」の意味
では、「神のイスラエル」とはどういう意味でしょうか。
「神のイスラエル」という表現は、聖書のほかの箇所には見られません。しかし、パウロが持っていたレムナントの神学に照らすと、次のように理解できます。
パウロは別の箇所で、イスラエル民族として生まれた人々全体を「肉によるイスラエル」と呼んでいます(1コリント10:18)。「神のイスラエル」は、この「肉によるイスラエル」と対比される言葉であり、イスラエル民族の中の真の信仰者を指します。新約時代で言えば、イエス・キリストを信じて救われたユダヤ人のことです。これが新約時代の「残りの者(レムナント)」です。
この理解は、ガラテヤ書の文脈ともよく合います。パウロはこの手紙で、異邦人信者に割礼を強要するユダヤ主義者たちを厳しく批判してきました。その手紙の結びで、パウロはまず「この基準にしたがって進む人々」、つまり割礼ではなく信仰によって新しく造られたすべての信者を祝福します。そのうえで、改めて「神のイスラエル」、つまりパウロと同じ信仰に立つユダヤ人信者を祝福しているのです。ユダヤ人であることを誇って割礼を強いる人々ではなく、信仰に立つユダヤ人こそが真の「神のイスラエル」である、という対比がここに込められています。
> 結論結論
ガラテヤ6:16の「神のイスラエル」は、教会ではありません。この聖句を、教会がイスラエルに取って代わったとする教えの根拠とするには、あまりにも無理があります。
「神のイスラエル」とは、イスラエルの「残りの者(レムナント)」、すなわちイエス・キリストを信じたユダヤ人信者を指しています。
> 参考文献参考文献
- アーノルド・フルクテンバウム著(佐野剛史訳)『ヘブル的キリスト教入門』(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ、2016年)
- Michael J. Vlach, Has the Church Replaced Israel? (B&H Academic, 2010)
- Arnold G. Fruchtenbaum, “Replacement Theology and the Epistle of I Peter” (Ariel Ministries)
- Arnold G. Fruchtenbaum, Ariel’s Bible Commentary: The Messianic Jewish Epistles – Hebrews, James, I & II Peter, Jude (Ariel Ministries, 2005)
- Andrew D. Robinson, Israel Betrayed: Volume 1: The History of Replacement Theology (Ariel Ministries, 2018)
> 脚注脚注
Andrew D. Robinson, Israel Betrayed: Volume 1: The History of Replacement Theology (Ariel Ministries, 2018) ↩

