> はじめにはじめに
置換神学とは、イスラエルがイエスをメシアとして受け入れることを拒んだため、神はイスラエルを退け、イスラエルに与えられていた約束や祝福は教会に移された、とする考え方です。この考え方の根拠としてよく引用される聖句の一つが、マタイ21:43です。イエスは、エルサレムの神殿で次のように語っています。
ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます。(マタイ21:43)
一見すると、この聖句は、神の国がイスラエルから取り去られて教会に与えられた、と語っているように読めます。しかし、原語と文脈に注意して読むと、まったく違う意味が見えてきます。
今回は、この聖句を取り上げ、神はイスラエルを永遠に退けたのかどうかを考えていきます。
> 置換神学の主張置換神学の主張
もう一度、マタイ21:43を以下に引用します。
ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます。(マタイ21:43)
置換神学は、この聖句を次のように解釈します。
- 「神の国はあなたがたから取り去られ」とは、イスラエルが神の民として退けられたということである。
- 神の国が与えられる「神の国の実を結ぶ民」とは、教会のことである。
しかし、この解釈には問題があります。以下に問題点を見ていきましょう。
> 置換神学の解釈上の問題置換神学の解釈上の問題
問題1:イスラエルは神の民として退けられたわけではない
第一の問題は、イスラエルが退けられたという理解です。イスラエルはイエスをメシアとして受け入れなかったためにさばきを受けましたが、神の民として退けられたわけではありません。
この点を正しく理解するには、イエスがマタイ21:43で誰に向かって語っているのかを確認する必要があります。そのすぐ後の45節では、次のように言われています。
祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスのこれらのたとえを聞いたとき、自分たちについて話しておられることに気づいた。(マタイ21:45)
ここからわかるように、マタイ21:43の「あなたがた」とは、祭司長たちとパリサイ人たち、つまりユダヤ人の指導者のことです。イエスは、ご自分をメシアとして受け入れないユダヤ人指導者から神の国が取り去られる、と語っているのです。ここでいう「神の国」とは、メシアであるイエスが王として地上を治める国のことで、「千年王国」とも呼ばれます(黙示録20:1〜6参照)。イエスは、この「神の国」をまずイスラエルに提示していました(マルコ1:15、マタイ4:17、10:5~7など)。
しかし、歴史が示すとおり、ユダヤ人指導者はイエスをメシアとして受け入れませんでした。そのため、当時のユダヤ人指導者からは神の国が取り去られたのです。
また、その影響は指導者たちだけにとどまりませんでした。指導者たちに従った当時の民衆も、同じ運命をたどることになります。イエスは、別の箇所で次のようにも語っているからです。
37 エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。 38 見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。(マタイ23:37~38)
この場面で、イエスは「エルサレム、エルサレム」と呼びかけて、指導者だけでなく、町全体に対して語っています。また、エルサレムはイスラエルの首都であり、「預言者たちを殺し」という言葉もイスラエルの歴史全体を指しています。そのため、ここではイスラエルの民全体が視野に入っていると考えられます。実際に、ローマ帝国に対する反乱(紀元66〜73年のユダヤ戦争)で、紀元70年にエルサレムが陥落し、神殿は破壊されました。多くの人が殺されたり奴隷として売られたりし、イエスの言葉どおり、エルサレムは荒れ果てました。
ただし、このさばきはイスラエルが神に完全に見捨てられたことを意味するのではありません。そもそも、イスラエルのメシア拒否は部分的なものでした。十二使徒に代表されるユダヤ人は、ユダヤ人指導者に追随することなく、イエスをメシアとして受け入れました。「使徒の働き」では、何万人というユダヤ人がイエスを信じたと言われています(使徒21:20)。そのため、イスラエルは完全にイエスを拒んだわけではなく、神もイスラエルを完全に退けたわけでもないのです。パウロも次のように語っています。
それでは尋ねますが、神はご自分の民を退けられたのでしょうか。決してそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の出身です。(ローマ11:1)
パウロはここで、神はイスラエルを退けてはいないと明言しています。そして、イスラエル人であるパウロ自身がその証拠であると語っています。さらに、パウロは次のように続けています。
2 神は、前から知っていたご自分の民を退けられたのではありません。それとも、聖書がエリヤの箇所で言っていることを、あなたがたは知らないのですか。エリヤはイスラエルを神に訴えています。 3 「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを狙っています。」
4 しかし、神が彼に告げられたことは何だったでしょうか。「わたしは、わたし自身のために、男子七千人を残している。これらの者は、バアルに膝をかがめなかった者たちである。」
5 ですから、同じように今この時にも、恵みの選びによって残された者たちがいます。(ローマ11:2~5)
この箇所は、前回の記事でも少し触れたところです(「レムナントの神学」参照)。エリヤの時代も今も、イスラエルには真の信仰者(レムナント)が恵みによって残されている。パウロは、このレムナントの存在こそ、神がイスラエルを退けていない証拠だと教えています。
問題2:ここで言われている「民」とは教会を意味しない
第二の問題は、「神の国の実を結ぶ民」とは、教会を意味しないことです。
マタイ21:43で「民」と訳されている言葉は、ギリシア語で「エスノス」です。エスノスとは、共通の血筋や文化を持つ人々の集団、つまり「民族」や「国民」を表す言葉です。英語の「ethnic(民族の)」や「ethnicity(民族性)」は、この語から来ています。
しかし、教会は民族や国民ではありません。教会は、さまざまな民族や国民から召された人々です。使徒15:14では、次のように言われています。
神が初めに、どのように異邦人を顧みて、彼らの中から御名のために民をお召しになったかについては、シメオンが説明しました。(使徒15:14)
この箇所の「異邦人」とは、原語では複数形の「エスノス(エスネー)」です。つまり、さまざまな民族、国民という意味です。この中から召されたのが教会です。ここで「民」と訳されている言葉の原語は、「ラオス」です。ラオスは、ある場所に集まった人々や、ある集団に属する人々が基本的な意味です。つまり、さまざまな民族や国民から召し出されて集められた人々が教会だということです。
聖書では、教会は「エスノス」とは呼ばれていません。1ペテロ2:9が、教会に「エスノス」を当てはめている例として挙げられることがありますが、これも当てはまりません(この聖句については次の記事で詳しく取り扱います)。
このように見ていくと、「神の国の実を結ぶ民(単数のエスノス)」(マタイ21:43)を教会と解釈することには無理があることがわかります。
> マタイ21:43の解釈マタイ21:43の解釈
それでは、マタイ21:43はどのように解釈すればよいのでしょうか。
イスラエルは将来に回復する
イスラエルは、イエスをメシアとして受け入れなかったためにさばかれました。しかし、そのさばきは永遠に続くものではありません。先ほど引用したマタイ23:37~38(イエスがエルサレムのことを嘆いている場面)の後で、イエスは次のように語っているからです。
わたしはおまえたちに言う。今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」(マタイ23:39)
この言葉は、裏を返せば、イスラエルがイエスに「祝福あれ、主の御名によって来られる方に」と言う時が来れば、イエスを見ることができるということです。
「祝福あれ、主の御名によって来られる方に」は詩篇118:26から取られた言葉で、メシアを迎える時の言葉です。つまりこの聖句は、イスラエルがイエスをメシアとして受け入れる時が来れば、イエスが再臨するという約束でもあります。
群衆は、イエスの前を行く者たちも後に続く者たちも、こう言って叫んだ。「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に。」(マタイ21:9)
この「ダビデの子」とは、メシアの称号です。つまり、この時は、群衆はイエスをメシアとして迎えたのです。しかし、それから1週間もたたないうちに、祭司長たちに扇動された群衆はイエスを「十字架につけろ」と叫び、イエスをメシアとして受け入れることを拒否しました(マタイ27:20~23参照)。
イスラエルの民が「祝福あれ、主の御名によって来られる方に」と言ってイエスを迎える時こそ、パウロが「こうして、イスラエルはみな救われる」(ローマ11:26)と語ったイスラエルの民族的回心が起こる時です。このイエスの言葉(マタイ23:39)は、ローマ11:26と組み合わせて考えると、将来、すべてのユダヤ人がイエスをメシアとして受け入れる時代がやって来るという預言でもあります。
この預言は、ザカリヤ12:10の預言ともつながっています。
わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。(ザカリヤ12:10)
将来のある時点で、イスラエルの民は、自分たちの民族が十字架に渡したイエスを仰ぎ見て、悔い改めて主に立ち返ります。
神の国は将来のイスラエルに与えられる
ここで、もう一度マタイ21:43に戻りましょう。
ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます。(マタイ21:43)
ここで「あなたがた」と呼ばれている世代、つまり当時の指導者たちとそれに従ったユダヤ人は、イエスをメシアとして受け入れませんでした。そのため、神の国は彼らから取り去られました。
一方、神の国が与えられる「神の国の実を結ぶ民」とは誰でしょうか。原文の「エスノス」は単数形で、「一つの民族」を指しています。そして、先に見たように、イエスご自身が、イスラエルがやがて「祝福あれ、主の御名によって来られる方に」と言ってご自分を迎える時が来ると語っています。したがって、この「民」とは、イエスをメシアとして受け入れる将来の世代のイスラエルと考えられます。この世代は自分たちの罪を悔い改めて主に立ち返り、その結果、「神の国」、すなわちキリストが地上を治める千年王国に迎え入れられるのです。
つまり、神の国はイスラエルから教会に移されたのではありません。イエスを拒んだ世代から取り去られ、イエスを受け入れる将来の世代のイスラエルに与えられたのです。
> 結論結論
置換神学は、マタイ21:43を根拠に、神はイスラエルを退け、神の国を教会に与えたと主張します。しかし、この解釈には無理があります。
第一に、文脈を見ると、イエスが語りかけていたのは祭司長たちとパリサイ人たちでした。神の国が取り去られたのは、イエスを拒んだ当時の指導者たちと、彼らに従った人々からです。しかも、イスラエルがイエスを拒んだのは部分的なものであり、いつの時代にも真の信仰者であるレムナントが残されていました。
第二に、「民」と訳されている「エスノス(単数形)」は一つの民族や国民を表す言葉であり、民族や国民ではない教会を指していると考えることはできません。
そしてイエスは、イスラエルが「祝福あれ、主の御名によって来られる方に」と言ってご自分を迎える日が来ることを預言しています。その時、悔い改めたイスラエルは神の国に迎え入れられます。イスラエルに対する神のさばきは一時的なものであり、神はイスラエルを永遠に退けたのではないのです。
次回は、教会に「エスノス」が当てはめられている例として挙げられる1ペテロ2:9を取り上げます。
> 参考文献参考文献
- アーノルド・フルクテンバウム著(佐野剛史訳)『イスラエル学』(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ、2018年)
- Michael J. Vlach, Has the Church Replaced Israel? (B&H Academic, 2010)

