一度救われても、救いを失うことがありますか?(2)ヘブル10:26~27の検証

救済論

クリスチャンが「救い」をどのように理解するかは重要なテーマです。救いをどう理解するかによって、生き方や信仰のあり方がまるで変わってくるためです。それは多くのクリスチャンが体験していることですが、筆者自身の体験でもあります。また、真の救いを受けているかどうかという重要な問題にも関わってきます。

このバイブルスタディでは「一度救われても、救いを失うことがある」という教えの根拠とされている聖句を検証し、聖書は何を教えているかを確認します。

MEMO
聖書が語る救いと救いの条件については、クリスチャンコモンズWebサイトの「福音とは」をご参照ください。

今回は、前回取り上げたヘブル6:4~6の検証結果を前提として、次のヘブル人への手紙10:26~27を検証します。

26 もし私たちが、真理の知識を受けた後、進んで罪にとどまり続けるなら、もはや罪のきよめのためにはいけにえは残されておらず、 27 ただ、さばきと、逆らう者たちを焼き尽くす激しい火を、恐れながら待つしかありません。

結論から言うと、この聖句を使って「一度救われても救いを失うことがある」と教えることはできません。その理由を以下に説明します。

文脈の確認

この聖句を検証する前に、ヘブル人への手紙(ヘブル書)の文脈を確認しておきましょう。詳しくは、「一度救われても、救いを失うことがありますか?(1)ヘブル6:4~6の検証」を参照してください。

  • 読者:ユダヤ人信者
  • 時代:紀元70年のエルサレム崩壊前(紀元60年代頃)
  • 状況:キリストを信じたことで迫害を受けていたユダヤ人信者に向けて書かれた
  • 内容:以下のアウトラインを参照

福音の優位性を示す3つのポイント
(1)優れたお方(1~6章)
①預言者よりも優れたお方
②天使よりも優れたお方
③モーセよりも優れたお方
④アロンよりも優れたお方
(2)優れた祭司(7~10章)
①アロン系の祭司ではなく、メルキゼデク系の祭司
②旧い契約ではなく、新しい契約
③地上の聖所ではなく、天の聖所
④動物のいけにえではなく、御子の犠牲
(3)優れた原理(11~13章)
①信仰の例
②信仰による忍耐
③信仰の証拠
― 中川健一「60 分でわかる新約聖書(19) 『ヘブル人への手紙』」(メッセージステーション)

ヘブル6:4~6とヘブル10:26~27

ヘブル10:26~27の解説に入る前に、前回の記事で取り上げたヘブル6:4~6との比較を以下に示します。この2つの箇所は、構造と内容がよく似ています。

注: さばきの宣告までを比較するため、ここではヘブル6:4~6だけでなく6:8までを比較対象にしています。

ヘブル6:4~8 ヘブル10:26~27
対象 聖霊にあずかる者(6:4) 真理の知識を受けた者(10:26)
問題 堕落してしまう(6:6) 進んで罪にとどまり続ける(10:26)
赦されない 悔い改めに立ち返らせることはできない(6:6) もはや罪のきよめのためのいけにえは残されていない(10:26)
さばき やがてのろわれ、最後は焼かれてしまう(6:8) さばきと逆らう者たちを焼き尽くす激しい火を恐れながら待つしかない(10:27)

この2つの箇所はどちらも、ユダヤ教とキリストを比較し、キリストを信じる信仰の方が優れていると説く文脈の中にあります。同様の文脈で同様の内容を語っているこの2つの聖句は、おそらく緊急性のために、同じ警告を繰り返し語っています。ただ、前後の文脈が少し違いますので、この2つの聖句を合わせて総合的に検討することで、語られているメッセージが立体的に浮かび上がってくるはずです。

ヘブル10:26~27の検証

ヘブル10:26~27の内容を確認しましょう。

26 もし私たちが、真理の知識を受けた後、進んで罪にとどまり続けるなら、もはや罪のきよめのためにはいけにえは残されておらず、 27 ただ、さばきと、逆らう者たちを焼き尽くす激しい火を、恐れながら待つしかありません。

この聖句について、以下の3つのポイントで検証していきます。

(1)だれに対する言葉か

26節の「真理の知識を受けた」の「知識」とは、ギリシャ語の「エピグノーシス」で、「完全な知識」を意味します。この言葉から、福音を信じて救われた信者、あるいはこの手紙をここまで読み、十分に真理を理解した信者に語りかけていることがわかります。

(2)「進んで罪にとどまり続ける」とは何を意味するか

「進んで罪にとどまり続ける」とは、無知や弱さのゆえではなく、自分の意思で罪を犯すことです。この「罪」が何かは、前後の文脈と全体の文脈から見えてきます。この直前のヘブル10:25では、次のように言われています。

25  ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。 

この箇所では、信者同士で集まることをやめないようにと言われています。1~6章では、当時のユダヤ教の柱である①預言者、②天使、③モーセ、④大祭司(アロン)とキリストを比較し、キリストの方が優れていることを説いていました。また、7~10章では、アロン系の祭司ではなく、メルキゼデク系の祭司であるキリストの優位性が語られていました。このように見ていくと、26節の「罪」とは、キリストを信じる信者の交わりから離れて、ユダヤ教に回帰することであると考えることができます。これはヘブル6:6の「堕落」と同じです。また、「とどまり続ける」という言葉から、ユダヤ教に永続的に戻ることを意味しています。パウロの例を見ても(使徒21:26~30など)、一時的に神殿で礼拝することはあったからです。

(3)「もはや罪のきよめのためのいけにえは残されていない」のはなぜか

26節では「もはや罪のきよめのためにはいけにえは残されていない」と言われています。ヘブル6:6で「悔い改めに立ち返らせることはできない」と語られていたのと同じです。ここでも、この罪は「赦されない罪」と考えられていることがわかります。その理由は、ヘブル10:28~29で説明されています。

28  モーセの律法を拒否する者は、二人または三人の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死ぬことになります。 
29  まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものと見なし、恵みの御霊を侮る者は、いかに重い処罰に値するかが分かるでしょう。 

キリストは、ただ一度ご自分の命をささげることによって、ご自分を信じる者をきよめ、罪の赦しを与えられました。ユダヤ教に戻り、動物のいけにえをささげることは、イエスの犠牲は不完全だったと言っているのと同じことです。それはイエスの血を動物の血と同じように扱うことであり、冒涜です。それがヘブル10:1~18で語られていることでもあります。ヘブル6:6で「彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです」と言われていたのも同様の意味です。

また、ユダヤ教に戻る者は「恵みの御霊を侮る者」であると言われています。この言葉で思い出すのが、マタイ12:31~32でイエスが語られた次のことばです。

31 ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけますが、御霊に対する冒涜は赦されません。 32 また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。

ここで語られている「御霊に対する冒涜」「聖霊に逆らう」罪とは、イエスを悪霊憑きだとして、イエスがメシアであることを受け入れなかった当時のユダヤ人が犯した罪です。これをイエスは「赦されない罪」と呼びました。ただし、この罪は、個人が犯す罪ではなく、当時のイスラエルの民が犯した集団的な罪です。これはイエスがマタイ12:41~42で語られた次のことばからわかります。

41 ニネベの人々が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。 
42  南の女王が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。 

ここでイエスは繰り返し「この時代の人々」の罪を語っています。この「罪」とは、文脈と内容から、31~32節の「赦されない罪」を指しています。キリストは、ヨナやソロモンにまさるメシア(救い主)である方なのに、当時のユダヤ人はご自分を受け入れなかったことを責めておられるのです。

この赦されない罪に対して、イエスはルカ19:41~44で次のようなさばきのことばを語っておられます。

41  エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。 
42  「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。 43  やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、 44  そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」

ここでイエスは、さばきの理由を「神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ」と語っています。これはメシアとして来られたイエスを拒絶した罪を指しています。

実際に、エルサレムはイエスのことばどおりにローマ軍に包囲され、紀元70年に破壊され、焼かれます。この攻撃の前には過越の祭りがあったので、多くのユダヤ人がエルサレムに上ってきていました。そのため、エルサレムの住民ではない多くのユダヤ人もろとも、エルサレムは滅びました。もしヘブル書を受け取ったユダヤ人信者がユダヤ教に回帰し、エルサレムで過越の祭りを祝っていたらどうなっていたでしょうか。ヘブル書で警告されていたとおり、「逆らう者たちを焼き尽くす激しい火を、恐れながら待つ」(10:27)ことになり、「やがてのろわれ、最後は焼かれてしまう」(6:8)ことになっていたはずです。それがまさにヘブル6:4~8、ヘブル10:27~28で警告されていたことでした。ヘブル書の著者は、ルカ19:41~44のイエスの預言を知っていたので、ユダヤ教に戻ろうとするユダヤ人信者に対して警告したのです。

結論

ヘブル6:4~6とヘブル10:26~27で言われている「堕落」「罪」とは、ユダヤ教に回帰することであり、それは当時のイスラエルの民が犯していた「赦されない罪」に加わることを意味していました。この「赦されない罪」とは、個人的な罪ではなく、集団的な罪です。

この罪は、イエスがメシアとして地上に来ておられた当時のユダヤ人にしか犯せない罪でした。それはマタイ12:41~42でイエスが何度も「この時代の人々」と言っておられることからわかります。この罪に対する刑罰は、救いを失うという霊的なさばきではなく、イスラエルの民とエルサレムに下るさばきを受けて命を失うという肉体のさばきでした。その証拠に、使徒の働きの時代、ユダヤ人はこのさばきの宣告の下にありましたが、数多くのユダヤ人が救われています(使徒2:41、6:7など)。

以上のことから、ヘブル10:26~27およびヘブル6:4~6を「一度救われても、救いを失うことがある」という教えの根拠とすることはできません。

神は、メシアを拒否するという回帰不能点を越えたイスラエルの民の罪を赦すことはありませんでしたが、悔い改めた一人ひとりのイスラエル人は赦されました。私たちは、次の1ヨハネ1:9の約束をしっかり心に刻みつけておく必要があります。

9 もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。 

ユダ24~25では、次のような約束がされています。

24  あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びとともに栄光の御前に立たせることができる方、 25  私たちの救い主である唯一の神に、私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、支配、権威が、永遠の昔も今も、世々限りなくありますように。アーメン。 

ユダヤ人信者のその後と私たちへの教訓

イエスは、ご自分を信じるユダヤ人信者に対して、ルカ21:20~22で次のように語っておられました。

20  しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。 
21  そのとき、ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。都の中にいる人たちはそこから出て行きなさい。田舎にいる人たちは都に入ってはいけません。 
22  書かれていることがすべて成就する、報復の日々だからです。

この「報復」とは、メシアを拒否したイスラエルに対するさばきです。しかし、信者にはさばきを逃れる方法を明確に指示しておられました。

史実を紐解くと、多くのユダヤ人信者は、イエスとヘブル書の警告を忠実に聞き入れたようです。ユダヤ人神学者のアーノルド・フルクテンバウム博士は、著書で次のように記しています。

紀元66年、ローマに対するユダヤ人の最初の反乱が起こった時、セスティウス・ガルス将軍はカイザリアから軍団を引き連れて、エルサレムの町を包囲した。エルサレムのメシアニック会衆(ユダヤ人信者の共同体)は、それをイシュア(イエス)が語っていたしるしと受け止め、イシュアの指示に従い、エルサレムが破壊される前に町を出た。
― Arnold G. Fruchtenbaum, Yeshua: The Life of Messiah from a Messianic Jewish Perspective – Vol. 3 (Ariel Ministries)

When the first Jewish revolt against Rome broke out in the year A.D. 66, General Cestius Gallus brought his legions out of Caesarea in order to besiege and surround the city. The messianic congregation of Jerusalem took that to be the sign Yeshua had given and, in obedience to His instructions, left the city before it was destroyed:
紀元70年のローマ軍による包囲とエルサレム陥落
紀元70年のローマ軍による包囲とエルサレム陥落

ユダヤ人信者の共同体は、エルサレムの包囲が解かれた隙を見て町を脱出し、ヨルダン川の東側にあるペラという町に逃れました。そうしてユダヤ人信者はローマ軍の虐殺を逃れましたが、エルサレムに残ったユダヤ人は命を落とし、エルサレムの町は神殿と共に戦火により焼失しました。

フルクテンバウム博士は次のように記しています。

赦されない罪に対しては、神の報復と怒りのさばきが預言されていた。実際に、第一次ユダヤ戦争では110万人のユダヤ人が命を落とし、9万7千人が奴隷として連行された。信者たちはイシュアの命令に従ってこの地域を去っていたため、命を落としたメシアニックジューは一人もいなかった。
― Arnold G. Fruchtenbaum, Yeshua: The Life of Messiah from a Messianic Jewish Perspective – Vol. 3 (Ariel Ministries)

The vengeance and the wrath were prophesied judgments for the unpardonable sin. Indeed, 1,100,000 Jews were killed in the first Jewish revolt, and 97,000 were taken into slavery. Because the believers were obedient to Yeshua’s command to abandon the area, not one messianic life was lost.

当時のユダヤ人信者は、ヘブル書の警告を正しく受け取りました。この警告は私たちに直接適用されるものではありませんが、キリストにある信仰を捨てることで肉体のさばきを受けることは、いくつかの箇所で語られています(1コリント5:5、11:29~32など)。私たちも、ヘブル書の警告を受け取ったユダヤ人信者のように、聖書の警告を正しく受け取る必要があります。ただ、間違った解釈をすると、間違った警告を受け取ることになり、的外れな恐れを抱いて生きることになります。

参考資料

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