一度救われても、救いを失うことがありますか?(1)ヘブル6:4~6の検証

救済論

クリスチャンが「救い」をどのように理解するかは重要なテーマです。救いをどう理解するかによって、生き方や信仰のあり方がまるで変わってくるためです。それは多くのクリスチャンが体験していることですが、筆者自身の体験でもあります。また、真の救いを受けているかどうかという重要な問題にも関わってきます。

このバイブルスタディでは「一度救われても、救いを失うことがある」という教えの根拠とされている聖句を検証し、聖書は何を教えているかを確認します。

MEMO
聖書が語る救いと救いの条件については、クリスチャンコモンズWebサイトの「福音とは」をご参照ください。

今回は、救いを失うという教えの根拠として引用される以下の「ヘブル人への手紙6:4~6」を取り上げ、この聖句が何を教えているかを確認します。

4 一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、 5 神のすばらしいみことばと、来たるべき世の力を味わったうえで、 6 堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。

文脈の確認

この聖句を検証する前に、ヘブル人への手紙(ヘブル書)全体の文脈を確認しておきます。

宛先

宛先は、キリストを信じるユダヤ人信者です。

この書は「ヘブル人への手紙」というタイトルからわかるように、ユダヤ人に宛てて書かれた手紙です(ヘブル人はユダヤ人の別名)。律法、神殿、いけにえ、レビ人の祭司職など、ユダヤ人を対象とした内容になっていることで、それが裏付けられています。この点を理解していないと、文脈を見誤ることになります。

また、ヘブル3:1から、読み手はキリストを信じる信者であることがわかります。

1  ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。

「聖なる兄弟たち」「私たち」という言葉から、筆者と同様、読者もイエスをキリストと信じる信者であることがわかります(ヘブル3:12、6:9参照)。

時代

この手紙は、エルサレムの神殿が崩壊する前の時代に書かれたものです。

ヘブル8:4、10:1~3、8、11などの箇所では、祭司がいけにえをささげる行為が過去のものとしてではなく、現在行われているものとして語られています。ヘブル8:4では、次のように言われています。

4  もしこの方が地上におられたなら、祭司であることは決してなかったでしょう。律法にしたがってささげ物をする祭司たちがいるからです。 

つまり、この手紙が書かれた頃には、エルサレムに神殿がまだ建っていて、機能していたことがわかります。ヘブル7:8でも、祭司が十分の一税を受け取ることが現在形で語られています。

また、ヘブル書では、神殿でささげるいけにえやレビ系の大祭司よりもキリストの方が優れていると何度も強調されています。もし神殿が崩壊した後に手紙が書かれたのであれば、もはや存在しない神殿やレビ系の大祭司をキリストと比較し、キリストにある信仰にとどまるようにうながすことに何の意味があるのかわかりません。

そのため、この手紙が書かれたのは、エルサレムの神殿が破壊される紀元70年以前であることがわかります。

次に、この手紙が書かれた頃には、キリストが十字架にかかられてからある程度の時間が経過しています。ヘブル2:3では、次のように書かれています。

3 こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を逃れることができるでしょう。この救いは、初めに主によって語られ、それを聞いた人たちが確かなものとして私たちに示したものです。

「この救いは…それを聞いた人たちが確かなものとして私たちに示したもの」という言葉から、読者はキリストの宣教を直接聞いて救われた第一世代の信者ではなく、第二世代の信者であることがわかります。

キリストが十字架にかかられた紀元30年からある程度の時間が経過していて、神殿が崩壊する紀元70年以前に手紙が書かれたことになりますので、紀元60年代頃の執筆と考えるのが妥当です。つまり、紀元70年のエルサレム崩壊が直前に迫っている時代に書かれたことになります。

ヘブル書を読み解くには、宛先がユダヤ人信者であるという事実に加えて、この書簡が書かれた時代を認識しておくことが重要になります。

状況

この手紙は、キリストを信じる者として迫害を受けていたユダヤ人に向けて、信仰にとどまるように励ますために書かれたものです。

ヘブル10:32~34では、読者であるユダヤ人信者が受けていた迫害について次のように書かれています。

32  あなたがたは、光に照らされた後で苦難との厳しい戦いに耐えた、初めの日々を思い起こしなさい。 
33  嘲られ、苦しい目にあわされ、見せ物にされたこともあれば、このような目にあった人たちの同志となったこともあります。 
34  あなたがたは、牢につながれている人々と苦しみをともにし、また、自分たちにはもっとすぐれた、いつまでも残る財産があることを知っていたので、自分の財産が奪われても、それを喜んで受け入れました。 

ヘブル3:12で筆者は、不信仰になって神から離れることがないようにと読者に注意しています。

12  兄弟たち。あなたがたのうちに、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。 

以上の記述から、ヘブル書が書かれた当時、読み手のユダヤ人信者は迫害を受けており、キリストにある信仰から離れる危険性があったことがわかります。

内容

以上を踏まえて、ヘブル書の内容を見てみましょう。

ヘブル書は以下のような内容となっています(中川健一牧師の「60 分でわかる新約聖書(19) 『ヘブル人への手紙』」のアウトラインからの引用)。

福音の優位性を示す3つのポイント
(1)優れたお方(1~6章)
①預言者よりも優れたお方
②天使よりも優れたお方
③モーセよりも優れたお方
④アロンよりも優れたお方
(2)優れた祭司(7~10章)
①アロン系の祭司ではなく、メルキゼデク系の祭司
②旧い契約ではなく、新しい契約
③地上の聖所ではなく、天の聖所
④動物のいけにえではなく、御子の犠牲
(3)優れた原理(11~13章)
①信仰の例
②信仰による忍耐
③信仰の証拠
― 中川健一「60 分でわかる新約聖書(19) 『ヘブル人への手紙』」(メッセージステーション)

ヘブル書の全体的な文脈をつかんだところで、本論に入ります。

ヘブル6:4~6の検証

もう一度、ヘブル6:4~6の内容を確認しましょう。

4 一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、 5 神のすばらしいみことばと、来たるべき世の力を味わったうえで、 6 堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。

この聖句について、以下の3つのポイントで検証していきます。

(1)だれに対する言葉か

4節の「天からの賜物を味わい」「聖霊にあずかる者となって」、5節の「来たるべき世の力を味わった」などの言葉から、信者に対して語られていることがわかります。「一度救われても、救いを失うことがある」と教える人と、ここは意見が一致しています。

(2)「堕落してしまう」の意味

6節の「堕落してしまう」という言葉は、原語のギリシャ語で「パラピプトー」です。直訳すると「傍らに落ちる(fall aside)」という意味で、ここでは「正しい道から逸れる(to deviate from the right path)」「真の信仰から離れる(to fall away from the true faith)」といった意味になります(Thayer’s Greek Lexicon)。

これが具体的に何を意味しているかは、前後の文脈で判断する必要があります。先ほど紹介したアウトラインを見ると、6章までに、著者は①預言者、②天使、③モーセ、④大祭司(アロン)のどれよりもキリストの方が優れていると説いています。ここで挙げた4つは、当時のユダヤ教の柱です。つまり、ユダヤ教と比較してキリストの方が優れていると主張しています。この文脈を考えると、「堕落」とは「ユダヤ教に回帰すること」を意味していると解釈するのが最も自然です。

ユダヤ教の礼拝に戻れば、ユダヤ人から迫害を受けることはなくなります。この手紙が書かれた当時の状況を考えると、ユダヤ教に回帰することはユダヤ人信者にとって大きな誘惑だったと考えられます。

(3)「もう一度悔い改めに立ち返らせることはできません」の意味

ヘブル6:4~6が「一度救われても救いを失うことがある」ことを教えているのであれば、6節の「もう一度悔い改めに立ち返らせることはできません」とは、いったん救いを失ったら二度と救われない、という意味になります。これはかなり厳しい教えです。この解釈をとると、キリストを信じて救われたが信仰を失って教会を離れた信者には、二度と救いのチャンスがないことになります。

ただ、そのように考えると、いくつかの聖書箇所と矛盾が生じます。たとえば、1ヨハネ1:9では次のように言われているためです。

9  もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。 

ヘブル6:6では「もう一度悔い改めに立ち返らせることはできません」と言われているのに、1ヨハネ1:9では「すべての不義からきよめてくださいます」と語られています。矛盾ではないでしょうか。

このような一見矛盾に見える問題を解消するためにあるのが、神学です。神学を軽視すると、こうした矛盾に目をつぶり、いずれかの聖句を事実上否定してしまう危険性があります。

この矛盾を解消するには、罪には「個人的な罪」と「集団的な罪」の2つがあることを理解する必要があります。1ヨハネ1:9で約束されているように、個人的な罪(「自分の罪」)はどのような罪であっても神に告白することで赦されます。

しかし、集団的な罪は異なります。集団的な罪には「赦されない罪」があります。この代表的な例が、イスラエルの民がカデシュ・バルネアで犯した罪です(民数記13~14章)。カデシュ・バルネアは、エジプトを出たイスラエルの民が、約束の地を目前にして宿営した場所です。イスラエルの民はここまで来て、約束の地を偵察するために12名の斥候を送りました。しかし、12名のうち10名は、約束の地に住む住民は巨人で自分たちには倒せないと主張し、民の心をくじいてしまいます。その結果、民はモーセとアロンに不平を言い、エジプトに帰ろうとします。ここで神が下されたのが、民数記14:20~36に記されているさばきです。民数記14:29~30では、次のように言われています。

29 この荒野におまえたちは、屍をさらす。わたしに不平を言った者で、二十歳以上の、登録され数えられた者たち全員である。 30 エフンネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、おまえたちを住まわせるとわたしが誓った地に、だれ一人入ることはできない。 

この宣告を受けて、イスラエルの民は嘆き悲み、民の一部は思い直して約束の地を占領しに行こうとしますが、あっけなく撃退されてしまいます。そして実際に、当時成人だったイスラエルの民は、40年間荒野を放浪した挙げ句、カレブとヨシュアを除いて全員が荒野で死に絶えました。

神学者のランドール・C・グリーソン(Randall C. Gleason)は、カデシュ・バルネアで不信仰の罪を犯したイスラエル人と、ヘブル人への手紙を受け取ったユダヤ人は同じような状況にあったとし、次のように語っています。

 イスラエルの民とこの手紙の読者の間には、数多くの類似点がある。イスラエルの民が主の御声に聞き従わず(民数記14:22)、主の約束(出エジプト23:27~31、33:1~2)に従って行動することを拒んだように、この人々も「成熟を目指して進む」ことを拒む危険性があった(ヘブル6:1)。イスラエルの民は、翌日には心を入れ替えて約束の地に入ろうとしたが(民数記14:39~45)、エジプトに戻るという決断に対する悔い改めは許されなかった。ヘブル書の読者も同様に、成熟を目指して進むことを神が許されるかどうかという問題があった(「神が許されるなら、先に進みましょう」ヘブル6:3)。一度「堕落」してしまうなら、「もう一度悔い改めに立ち返らせることはできない」(6節)からである。荒野の世代がカナンで「安息」の祝福を受けることができず、荒野で死んだように(ヘブル3:17~19)、このユダヤ人クリスチャンも、もし堕落してユダヤ教に戻ることを選ぶなら、神の安息の祝福を失い、神の一時的な懲らしめを受けることになる。
要するに、出エジプトの世代と同じように、ヘブル書の最初の読者は「カデシュ」の地点にいたのである。彼らは決断を迫られていた。
― Randall C. Gleason, “The Old Testament Background of Rest in Hebrews 3:7-4:11” in Bibliotheca Sacra, July – September, 2000, p.82-83, sited in Arnold Fruchtenbaum, Ariel’s Bible Commentary: The Messianic Jewish Epistles (Ariel Ministries, 2005), p.83-84

Similarities between the Israelites and the readers of the epistle are numerous. As the Israelites refused to obey the voice of the Lord (Num 14:22) and act according to His promises (Exod. 23:27-31;33:1-2), so too these people were in danger of refusing to “press on to maturity” (Heb 6:1). Though the Israelites changed their minds and tried to enter the land the next day (Num 14:39-45), they were not permitted to repent of their decision to return to Egypt. Similarity with the readers of Hebrew there was the question of whether God would permit them to go on to maturity (“This we shall do, if God permits,” 6:3), for once they decided to “fall away” it would be “impossible to renew them to repentance” (v. 6). As the wilderness generation was denied the right to the blessings of “rest” in Canaan and died in the wilderness (3:17-19), these Jewish Christians, if they chose to turn away and return to Judaism, would forfeit the blessing of God’s rest and would experience His temporary discipline.
In summary, like the Exodus generation, the initial readers of Hebrew were at their “Kadesh.” They were faced with a decision.

カデシュ・バルネアの罪を犯したイスラエルの民は、エジプトに戻るという決定を悔いても、約束の地に入ることは許されませんでした。それは「赦されない罪」でした。もう後戻りができない回帰不能点を越えていたからです。ただ、そのさばきは約束の地に入ることができずに荒野で死ぬことであって、霊的な救いを失うことではありませんでした。約束の地に入れなかったことは、天の御国に入れないことの型であって、霊的な救いを失うことを意味すると教える人がいますが、そのような比喩的解釈は辻褄が合いません。もしそうであれば、約束の地に入ることができずに荒野で死んだモーセやアロンも救われていないことになります。カデシュ・バルネアのさばきは、あくまでも地上の肉体におけるさばきでした。この罪は、個々のイスラエル人としては赦されていました(民数記14:20)。しかし、イスラエルの民が全体として犯した集団的な罪は赦されなかったのです。

カデシュ・バルネアのほかにももう一つ、旧約時代に犯された「赦されない罪」があります。それは南王国ユダがマナセ王の時代に犯した罪で、バビロン捕囚の原因ともなった罪です。このマナセ王の後に立てられたヨシヤ王は善王で、徹底した宗教改革を行いますが、それでもマナセ王の時代にユダが犯した罪が赦されることはありませんでした。2列王記23:25~27では、次のように言われています。

25  ヨシヤのようにモーセのすべての律法にしたがって、心のすべて、たましいのすべて、力のすべてをもって【主】に立ち返った王は、彼より前にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、一人も起こらなかった。  
26  それにもかかわらず、マナセが引き起こした主のすべての怒りのゆえに、【主】はユダに向けて燃やした激しい怒りを収めようとはされなかった。 
27  【主】は言われた。「わたしがイスラエルを除いたのと同じように、ユダもわたしの前から除く。わたしが選んだこの都エルサレムも、わたしの名を置くと言ったこの宮も、わたしは退ける。」 

マナセ王は後に悔い改め、個人的には赦しを受けますが(2歴代誌33:12~13)、ユダという国の集団的罪は赦されませんでした。その結果が、バビロン捕囚です。

ヘブル書を受け取ったユダヤ人信者も、カデシュ・バルネアやマナセ王の時代と同様に、「赦されない罪」を犯す瀬戸際に立っていたと考えられます。この赦されない罪が何であったのかは、同様の警告が記されているヘブル10:26~27を取り上げる次の記事で明らかにしたいと思います。

まとめ

ヘブル6:4~6は、ユダヤ教に回帰する可能性があったユダヤ人信者に対する警告です。この罪は、「もう一度悔い改めに立ち返らせることはできません」と言われているように、赦されない罪です。ただ、この罪は集団的な罪であり、個人的な罪ではありません。個人的な罪で、主に悔い改めて赦されない罪はありません。また、この罪に対するさばきは地上のさばきであり、救いを失うという霊的なさばきではありません。この点については、次の記事で詳しく見ていきます。

参考資料

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