キリストの律法とは

教会

前回の記事「モーセの律法は今も有効か」では、モーセの律法は今では無効となっていることを確認しました。

ただ、モーセの律法が無効になったとはいえ、何をしてもいいというわけではありません。新約聖書は無律法主義を教えていません。

ここで浮かぶ問いは、「モーセの律法が無効であるなら、クリスチャンは何を基準として生きていけばよいのか」というものです。

端的に言うと、その答えは「キリストの律法」にあります。新約時代の信者には、モーセの律法ではなくキリストの律法が与えられています。クリスチャンは、この律法が信仰生活の基準となります。

それでは、キリストの律法とは何でしょうか。

キリストの律法とは

「キリストの律法」という言葉は、新約聖書の2か所に登場します。そのうちの1つ、1コリント9:21では次のように言われています。

21 律法を持たない人たちには──私自身は神の律法を持たない者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。律法を持たない人たちを獲得するためです。

ここでパウロは、自分は「キリストの律法を守る者」だと明言しています。

もう1か所のガラテヤ6:2では、次のように言われています。

2 互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。 

この箇所を読むと、クリスチャンはキリストの律法を成就するように求められていることがわかります。

ただ、いずれの聖句の前後を見ても、パウロはキリストの律法が何かを説明していません。おそらく、パウロの手紙を受け取った人々は、この言葉が何を意味しているか知っていたので、説明する必要がなかったのだと思われます。

当時の信者が理解していたキリストの律法とは、どのようなものなのでしょうか。

キリストの律法は何でないか

「キリストの律法は何か」を見ていく前に、「キリストの律法は何でないか」を確認しておきましょう。

モーセの律法の一部ではない

キリストの律法はモーセの律法の一部ではありません。モーセの律法を祭儀法、市民法、道徳法に分けて、祭儀法と市民法は廃棄されたが、十戒に代表される道徳法がキリストの律法となったという主張があります。しかし、この主張は正しくありません。先ほどの1コリント9:21の前後の文脈(1コリント9:19~21)を見れば、その点は明らかです。

19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。 20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人たちには──私自身は律法の下にはいませんが──律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。 21 律法を持たない人たちには──私自身は神の律法を持たない者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。律法を持たない人たちを獲得するためです。 

ここでパウロは「私自身は律法の下にはいません」(20節)と明言しています。文脈から、この「律法」とは明らかにモーセの律法を指しています。そして、この直後に、自分は「キリストの律法を守る者です」(21節)と述べています。自分はモーセの律法の下にはいないと明言した後、自分はキリストの律法を守る者と語っていることから、両者が別のものであることがわかります。

また、モーセの律法は分割不可能なものです(ヤコブ2:10、ガラテヤ5:3参照)。そのため、モーセの律法の一部が今も有効とする解釈は成り立ちません(記事「モーセの律法は今も有効か」参照)。

山上の垂訓ではない

キリストの「山上の垂訓」も、キリストの律法ではありません。山上の垂訓は「キリストによるモーセの律法の義の解釈」です。

山上の垂訓では、キリストによるモーセの律法の義の解釈が、当時のパリサイ人の解釈である口伝律法と対比して教えられています。これは山上の垂訓で使われている定型句を見るとわかります。

山上の垂訓で「…と言われたのを、あなたがたは聞いています」(マタイ5:27など)と言われているのは、当時の口伝律法の内容です。一方、「しかし、わたしはあなたがたに言います」という言葉に続く内容が、キリストによるモーセの律法の義の解釈です。

ただ、山上の垂訓も口伝律法も、同じモーセの律法の解釈であることに変わりはありません。モーセの律法はすでに廃止されているので、山上の垂訓は新約時代の信者に向けて語られたキリストの律法ではないことになります。

もし山上の垂訓がキリストの律法であれば、教会時代にもモーセの律法に含まれる613の命令をすべて守る必要があります。山上の垂訓の中でキリストは「これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます」(マタイ5:19)と語っておられるためです。しかし、モーセの律法はすでに廃止されているので、山上の垂訓もまたクリスチャンの信仰生活を規定する律法ではなくなっています。

MEMO
モーセの律法は613ある命令全体で一つのものであり、すでに廃止されていることについては、「モーセの律法は今も有効か」をご覧ください。
また、山上の垂訓がメシアによるモーセの律法の義の解釈であることについては、中川健一「30日でわかる聖書 マタイの福音書(6)山上の垂訓(2)」でわかりやすく説明されています。

キリストの律法が与えられる根拠となる契約

聖書では、律法は神が人と結ぶ契約の中で与えられます。

たとえば、モーセの律法は、神がイスラエルの民と結ばれたモーセ契約(シナイ契約)の中で与えられました(出エジプト24:7~11)。また、神がノアと結ばれたノア契約でも、「生めよ。増えよ。地に満ちよ」「肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない」などの命令が与えられました(創世記9:1~17)。

キリストの律法も同じように、神が人と結ばれた契約の中で与えられています。キリストの律法が与えられた根拠となる契約は「新しい契約」です。

新しい契約

「新しい契約」は、恵みの時代(教会時代)の土台となった契約で、エレミヤ31:31~33に記されています。

31 見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。 32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──【主】のことば──。 33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──【主】のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 

契約の当事者

31節を読むとわかるように、本来、「新しい契約」は神と「イスラエルとユダ」(イスラエル民族)との間で結ばれる契約です。ところが、この箇所では啓示されていなかったことですが、新約時代になると、この契約の祝福が異邦人(ユダヤ人以外の民族)にも及ぶことが啓示されました。「新しい契約」が新約時代になって異邦人にも及んだことは、次の箇所で確認できます。

  • ルカ22:20「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です」:この「新しい契約」の原語には、定冠詞が付いています。つまり、イエスと使徒たちには、「新しい契約」と言った時に思い浮かぶ具体的な契約があったということになります。該当するものは、上記のエレミヤ31:31~33など、旧約聖書で約束されていた「新しい契約」ということになります。イエスは、福音を信じる異邦人にも新しい契約の祝福を差し出しています。
  • ローマ11:17「枝の中のいくつかが折られ、野生のオリーブであるあなたがその枝の間に接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分をともに受けている」:野生のオリーブである異邦人は、神がイスラエルと結ばれた契約である「オリーブの根」に接ぎ木され、新しい契約の祝福を受ける者となりました。
  • エペソ3:5~6「福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になる」:キリストがユダヤ人と異邦人の間の「隔ての壁」となっていたモーセの律法を廃止することで、ユダヤ人と異邦人がキリストのからだとして一つになり(エペソ2:11~16)、異邦人も神とユダヤ人との「新しい契約」の祝福にあずかることになりました。

そのほか、キリストが新しい契約の仲介者となり(ヘブル8:6~13、ヘブル9:15、ヘブル12:24)、教会時代のクリスチャンが新しい契約に仕える者とされた(2コリント3:6)とも言われています。

新しい契約の律法に関する約束

この「新しい契約」では、律法に関する約束も与えられています。「わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す」(エレミヤ31:33)という約束がそれです。「ただ中に」という言葉がわかりにくいですが、訳としては「わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす」という口語訳の方がわかりやすくなっています。新しい契約によって、信者の心に律法が記されるという約束です。

新しい契約について記されたもう一つの箇所、エゼキエル36:26~27では、新しい契約の律法について次のように言われています。

26 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。 27 わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。 

ここでは「わたしの霊をあなたがたのうちに授け」と言われています。これはキリストを信じた者に与えられる聖霊の内住(エペソ2:22、1コリント3:16)を指しています。この聖霊の内住によって、信者が神の律法(「掟と定め」)を守り行うことが可能になることが約束されています。

新しい律法の約束

モーセの律法は「石の上に刻まれた文字」と呼ばれています(2コリント3:7、出エジプト31:18参照)。このことから、新しい契約で約束されている「心に書き記された律法」は、モーセの律法とは別のものです。

また、ヘブル7:11~12では、もっと明確に次のように言われています。

11 民はレビ族の祭司職に基づいて律法を与えられました。もしその祭司職によって完全さに到達できたのなら、それ以上何の必要があって、アロンに倣ってではなく、メルキゼデクに倣ってと言われる、別の祭司が立てられたのでしょうか。 12 祭司職が変われば、必ず律法も変わらなければなりません。

12節では「祭司職が変われば、必ず律法も変わらなければなりません」と言われています。そのため、レビ族の祭司職に代わってイエス・キリストというメルキゼデクの位の祭司が立てられた結果、モーセの律法の代わりにキリストの律法という新しい律法が導入されました。

キリストの律法の授与

それでは、キリストの律法は実際にいつ、どのように与えられたのでしょうか。この点を考える上で参考になるのが、モーセの律法が与えられた時の状況です。

モーセの律法の授与

モーセの律法が与えられた時の状況は、出エジプト24:7~11に記されています。

7 (モーセは)…契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らは言った。「【主】の言われたことはすべて行います。聞き従います。」 
8 モーセはその血を取って、民に振りかけ、そして言った。「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、【主】があなたがたと結ばれる契約の血である。」 
9 それからモーセとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は登って行った。 10 彼らはイスラエルの神を見た。御足の下にはサファイアの敷石のようなものがあり、透き通っていて大空そのもののようであった。 11 神はイスラエルの子らのおもだった者たちに、手を下されなかった。彼らは神ご自身を見て、食べたり飲んだりした。 

ここで「契約の書」と言われているのが、モーセの律法です。この書に契約の血として雄牛の血が振りかけられ、契約が締結されました。その後、契約の当事者であるイスラエルの民が、神の臨在の下で食事をしています。この場面を見ると、モーセの律法が与えられた場面では以下の3つの要素があることがわかります。

  1. 律法の授与
  2. 契約の血
  3. 契約の食事

この情報を元にして、キリストが弟子たちの前で「新しい契約」の締結を宣言された「最後の晩餐」の場面を見てみましょう。

最後の晩餐

「新しい契約」が結ばれたのは、イエスが十字架にかかられる前の晩、「最後の晩餐」と呼ばれる過越の食事の時です。この時、イエスは弟子たちを前に次のように宣言されました(マタイ26:26~28)。

26  また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」 
27 また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。 28 これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」

新しい契約は、キリストの血を契約の血として締結されました。また、パンを裂き、契約の食事が食されました。ここではモーセの律法と同様に「契約の血」と「契約の食事」の要素が見られます。それでは、モーセの律法のような「律法」に該当するものは何でしょうか。最後の晩餐の記述を見渡して「律法」に該当する箇所は「新しい戒め」と呼ばれる以下の命令です(ヨハネ13:34~35)。

34  わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35  互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。

まとめると、モーセ契約と新しい契約の締結では、下表のように3つの共通要素があったことがわかります。

要素 モーセ契約 新しい契約
律法の授与 「契約の書」(出エジプト24:7) 「新しい戒め」(ヨハネ13:34~35)
契約の血 雄牛の血(出エジプト24:8) キリストの血(マタイ26:27~28)
契約の食事 「食べたり飲んだり」(出エジプト24:11) 「取って食べなさい。これはわたしのからだです」(マタイ26:26)

こう見ると、「新しい契約」が締結された最後の晩餐で律法に相当するものは、キリストの「新しい戒め」ということになります。この戒め以外に、律法と呼べるようなものは最後の晩餐では語られていません。

また、最後の晩餐の直後にイエスが語られた「二階部屋の説教」の中でも、「新しい戒め」が繰り返し命じられ(ヨハネ15:12~13、17)、合計3回命じられています。このことからも「新しい戒め」の重要性がわかります。

新しい戒め

キリストは最後の晩餐で「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じられました。主がイスラエルとシナイ契約を結ばれた時にモーセの律法を授与されたように、キリストは新しい契約を結ばれた時に、この「新しい戒め」を与えられました。

冒頭に紹介したガラテヤ6:2では、次のように言われています。

2  互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。 

この「互いの重荷を負い合いなさい」ということばは、「互いに愛し合いなさい」というキリストの新しい戒めを言い換えた内容と言うこともできます(ガラテヤ5:13も参照)。

この戒めは、最後の晩餐で繰り返し語られ、イエスはヨハネ15:12~13でも次のように語っています。

12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。 13 人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。 

これが「新しい契約」の締結時に示された戒めです。キリストを信じる者は、このキリストの愛にならうように召されています。

この新しい戒めについては、以下のことが言えます。

(1)モーセの律法にはない新しい戒めであるが、モーセの律法を成就する戒めでもある。

モーセの律法でも「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(レビ19:18)という戒めはありました。新しい要素は「キリストが愛したように」という部分です。モーセの律法で示された愛の基準は自分自身でしたが、新しい戒めで示された愛の基準はキリストです。

キリストは、愛がどのようなものかをみずからのことばと行いで教えてくださいました。キリストは三位一体の神ご自身であり(ヨハネ14:9)、神は愛です(1ヨハネ4:8、16)。そのため、キリストは、愛の完全な手本を示してくださったと言うことができます。それゆえ、キリストの律法を全うする者は「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という命令を成就することになります。

また、キリストは、父なる神を愛し、御父が命じられたとおりに生涯を全うされた方です(1ヨハネ14:31)。そのため、キリストのように愛することは、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい」(申命記6:5)という命令も成就することになります。

キリストは、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という第一の戒めと、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という第二の戒めの2つに、旧約聖書の全体がかかっていると言われました(マタイ22:37~40)。そのため、キリストの「新しい戒め」に従う者は、モーセの律法全体を成就することになります。

(2)第一義的には信者間の愛を命じている。

キリストがヨハネ13:34で「互いに愛し合いなさい」と言われたときの「互い」とは、弟子たちのことです。そのため、第一義的には信者の間での愛を語っています。この点はヨハネ13:35の「互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります」という言葉でも確認できます。クリスチャン同士の間に愛があるのを見て、世の人はクリスチャンがキリストの弟子であることを認めるのです。

もちろん、新約聖書では信者以外の人への愛も教えられています。たとえば、1テサロニケ3:12では次のように言われています。

12  私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いに対する愛を、またすべての人に対する愛を、主が豊かにし、あふれさせてくださいますように。

ただ、「すべての人に対する愛」という言葉は「あなたがたの互いに対する愛」に続く言葉として語られています。また、ガラテヤ6:10では次のように言われています。

10  ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。 

以上のような聖句を読むと、キリストにある愛はクリスチャンのコミュニティから外へ向かっていくものととらえることができます。

MEMO
 振り返ると、英会話のために教会を初めて訪れた筆者が、その後も通い続けることになったのは、教会のクリスチャン同士が楽しげにしている姿に惹かれたからでした。今も魅力的な集会だと感じるのは、やはりクリスチャン同士の間に愛があることを感じ取れる集会です。ただ、聖書的なメッセージが語られていないと、このようなコミュニティも愛が冷えていくというのが筆者の体験です。そのため、聖書的なメッセージとクリスチャンの間の愛はどちらも欠かせない車の両輪です。
 個人的な経験からも、クリスチャンの間に愛があることは、最も説得力のある伝道方法です。これが「互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります」(ヨハネ13:35)というイエスの言葉の意味であるように思います。
(3)相手を非難する言葉としては使えない。

この戒めに違反していると誰かを非難したりさばいたりするとき、その矛先は自分にも向かっています。「互いに」という言葉からわかるように、この戒めは相手と自分の双方向に向けられているからです。人の罪を負って十字架上で死なれたキリストと同じ愛で自分も相手を愛しているかと自問するなら、この戒めで相手を非難したりさばいたりするのは不可能であることに気付きます。

(4)キリストを見上げる生活に導かれる。

キリストの「新しい戒め」に従おうとするなら、キリストを見上げる生活に導かれます。ヘブル書で語られた「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい」(ヘブル12:2)というみことばが教える状態におのずと導かれることになります。

(5)聖霊の助けがないと実行不可能である。

キリストのような愛で人を愛することは、人間的には不可能です。もし自力でこの戒めを守るように言われるのなら、絶望するしかありません。しかし、絶望する必要はありません。新約時代の信者には「聖霊の内住」が与えられているためです。それが、新しい契約で「わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする」(エゼキエル36:27)と約束されていることでもありました。

最後の晩餐の後、二階部屋の説教で、キリストが使徒たちに聖霊が与えられる約束を語ったのは、新しい契約の内容からすると当然の流れでした。聖霊の内住の約束は、キリストの律法を考える上で重要なポイントになります。

キリストの律法の全体像

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」というキリストの新しい戒めは、キリストの律法の土台になるものですが、すべてではありません。キリストは、最後の晩餐の最後に次のように語っておられるためです(ヨハネ16:12~15)。

12 あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。 13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。 14 御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。 15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。 

使徒たちは、「新しい戒め」を与えられたものの、それ以上の教えを受け入れる霊的な準備ができていませんでした。後ほど露呈するように、その時の使徒たちは、キリストの復活でさえも十分に理解していなかったからです。そのため、「新しい戒め」以降のキリストの律法は、キリストの復活後、ペンテコステの日に使徒たちに聖霊が下った後に与えられることになります。この点について、アリエル・ミニストリーズのジョン・メッツガーは次のように説明しています。

復活後、イェシュア(イエス)は使徒たちに、十字架の前には耐えられなかった教え、つまり将来の教会と新しい生活基準となる「メシアの律法」(訳注:「キリストの律法」と同義)に関する教えを語り始めた。この教えは使徒たちが聞いたことがない教えで、想定外の内容だった。大きな神学的な変化が起ころうとしている時に、イェシュアは聖霊の働きによって、使徒たちを教え、指導しようとされた。聖霊の働きによって、新しい教師である「慰め主」が、信者の信仰生活の本質、神学、実践に関するメシアのことばを使徒たちに授けたのである。それは、モーセ以来、使徒やイスラエル民族の関心の的であったモーセの律法とは違うものだったからである。

After the resurrection Yeshua began to teach the apostles what they could not bear before the cross: things concerning the future Church and its new standard of living, the Law of Messiah. This was all completely new to and unexpected by the apostles. Major changes were about to take place theologically, and He would instruct the apostles through the teaching ministry of the Holy Spirit. The Spirit’s teaching ministry gave the apostles the words of the Messiah through the new teacher, the Comforter, concerning the nature, theology, and practical living of believers as it would be altered from the Mosaic law that had been their and Israel’s focus since Moses.1

「御霊は…わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです」(ヨハネ16:14)と言われているとおり、多くのキリストの律法は、使徒たちを通して聖霊によって与えられました。ダラス神学校の故チャールズ・ライリー教授は、キリストの律法について次のように記しています。

モーセの律法は、シナイ山で伝えられ、正式に、畏れをもって成文化された。新約聖書は「キリストの律法」(ガラ6:2)と「いのちの御霊の律法」(ローマ8:2)について語っている。キリストの律法には、新約聖書の書簡に記されている何百という戒めがあり、すべての戒めが一体となって、モーセの律法とは別の新しい道徳律を形成している。

The laws through Moses were codified formally and fearfully by being handed down from Mount Sinai. The New Testament speaks of the “law of Christ” (Gal 6:2) and the “law of the Spirit of life” (Rom 8:2). In the law of Christ are the hundreds of commandments of the New Testament epistles, and together these form a new and distinct code of ethics. 2

また、キリストが教会時代を前提にして弟子たちに語った命令もまた、キリストの律法と考えられます(マタイ18:15~20など)。

以上をまとめると、キリストの律法とは、新約時代の信者に適用されるキリストと使徒たちのすべての命令の体系であると言えます。

こうしたキリストの律法全体の土台になっているのが、最後の晩餐でキリストが弟子たちに語った「新しい戒め」です。

キリストの昇天以降、キリストの戒め(命令や勧め)は聖霊から使徒を通して与えられました。これが使徒2:42で「使徒たちの教え」と呼ばれているものに相当します。パウロは、1コリント14:37で、使徒が与える命令は主イエス・キリストの命令であると次のように語っています。

37  だれかが自分を預言者、あるいは御霊の人と思っているなら、その人は、私があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい。

キリストが「その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます」(ヨハネ16:13)と使徒たちに語られたとおり、使徒や預言者たちの教えは、聖霊によって真理に導かれることが保証されていました。その結果、使徒たちの書簡は、旧約聖書と同様、神の霊感を受けた正典として教会に受け入れられたのです。

まとめると、キリストの律法とは、キリストの「新しい戒め」を土台とする新約聖書の命令や勧めの体系であると言うことができます。

キリストの律法の位置付け

キリストの律法は、救われるための律法ではなく、信者の信仰生活を導くための律法です。信者は救われるためにキリストの律法を守るのではないということを忘れてはなりません。この点は、キリストの「新しい戒め」がすでにイエスを救い主(キリスト)として信じ、救われていた使徒たちに語られた言葉であることからもわかります。

信者がキリスト(メシア)の律法に従う動機について、ユダヤ人神学者のアーノルド・フルクテンバウム博士は次のように述べています。

メシアの律法では、新しい動機が与えられている。モーセの律法は、条件付契約のモーセ契約に基づくものであり、その動機は「祝福されるためにはこれを行いなさい」というものだった。キリストの律法は、無条件契約の新しい契約に基づくものであり、その動機は「あなたは祝福されている。だからこれを行いなさい」というものである。

… the Law of Messiah provides a new motivation. The Law of Moses was based on the conditional Mosaic Covenant and so the motivation was: do, in order to be blessed. The Law of Christ is based on the unconditional New Covenant and so the motivation is: you have been and are blessed, therefore, do. 3

キリスト教の伝道では「あなたは、そのままでいい」とか「ありのままで愛されている」と言われることがあります。ただ、これは「救われる条件」のことであって、「救われた後どのように生きるか」とは別の話だということに注意する必要があります。救われる時には罪人の状態で救われますが、救われた後も同じ状態に留まっていていいとは聖書は教えていません。キリストを信じた者は、キリストの律法に従うように召されています。

ただ、キリストの律法を守り行うことは、モーセの律法を守り行うこととは目的も、方法も、結果もまったく異なるという点に注意する必要があります。この点は、次の記事で解説したいと思います。

まとめ

キリストの律法とは、新約時代の信者が従うべき戒めの体系です。

キリストの律法は、旧約聖書で預言されていた「新しい契約」に基づくもので、モーセの律法とは別のものです。

キリストの律法は、最後の晩餐で語られたキリストの「新しい戒め」を土台にしています。また、イエスや使徒たちが信者たちに守るように教えた命令や勧めがすべて含まれます。

キリストの律法に従うことができるように、新約時代の信者には聖霊の内住が約束されています。この聖霊の内住も、「新しい契約」で約束されていたものです。そのため、信者は聖霊に導かれることによって、キリストの律法を成就することになります。

付録1:新しい戒めの中心性

キリストの「新しい戒め」がキリストの律法の土台となっていることは、新約聖書の書簡で確認できます。たとえば、「愛の手紙」と言われるヨハネの手紙第一の2:7~10では、次のように言われています。

7 愛する者たち。私があなたがたに書いているのは、新しい命令ではなく、あなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いているみことばです。 8 私は、それを新しい命令として、もう一度あなたがたに書いているのです。それはイエスにおいて真理であり、あなたがたにおいても真理です。闇が消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。 
9 光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです。 10 自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。 

「あなたがたが初めから持っていた古い命令」とは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」というキリストの「新しい戒め」のことです。この点は、ヨハネの手紙第一の文脈を追っていくと明らかになります。また、9節で兄弟を愛することについて語られていることからも、うかがい知ることができます。

ヨハネ2:7で「初めから持っていた古い命令」と言われていたものが何かは、1ヨハネ3:11でより明確になります。

11 互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。 

「初めから聞いている使信(メッセージ)」の内容は「互いに愛し合う」です。最後の晩餐で語られたヨハネ13:34~35を示唆する言葉です。

また、1ヨハネ3:16には、ヨハネ15:12~13を連想させる次のようなことばが記されています。

16  キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。 

1ヨハネ3:23でも、新しい戒めと同様のことが命じられています。

23  私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。 

ほかにも、1ヨハネ4:7~5:2を見ても、キリストの新しい戒めがこの手紙の中心的なテーマとなっていることがわかります。

7 愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。 …
11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。 …
19 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。 …
21 神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。…
1 イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。 2 このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。 

21節では、「兄弟を愛する」という命令を「神から受けています」と言われています。これも最後の晩餐で語られた「新しい戒め」と思い起こさせます。

こう見ると、ヨハネの手紙第一は、「新しい戒め」が記されたヨハネ13:34~35をテキストとした講解説教と言うこともできます。

上記のヨハネの手紙第一の聖句以外にも、1テサロニケ3:12、ガラテヤ5:13、1ペテロ4:8、コロサイ3:13~14、エペソ4:32、1ペテロ1:22なども、キリストの「新しい戒め」を土台にした命令であると考えられる聖句です。

以上のような聖句から、新約聖書の書簡の戒めは、ヨハネ13:34~35の「新しい戒め」に従うとはどういうことかを具体的に示した戒めであると理解することができます。

付録2:キリストの律法の定義

本論でキリストの律法は何かについて見てきました。この付録では、このテーマについて論じた学者がキリストの律法についてどのようにまとめているかを紹介します。

ダラス神学校の教授を長く務めた故チャールズ・ライリーは、キリストの律法(メシアの律法)について次のように語っています。

モーセの律法は、律法体系としては完全に廃止された。もはや、神はこの法体系によって人の人生を導くことはない。その代わりに、神はメシアの律法を導入された。この律法の中にある命令の多くは新しいものだが、そうでないものもある。古くからある命令はモーセの律法にも含まれていたが、現在はメシアの律法に組み込まれている。このような命令は、モーセの律法の一部としては完全に、永久に廃止された。一方、キリストの律法の一部としては、今日の信者に対して効力のある命令となっている。キリストの律法の中には、モーセの律法以前(ノア契約に含まれる命令)の戒めもある。たとえば、肉を食べることの許可である(1テモ4:3)(訳注:英語訳のKJVなどでは「食事」を「meat(肉)」と訳している)。

The Mosaic Law has been done away in its entirety as a code. God is no longer guiding the life of man by this particular code. In its place He has introduced the law of Messiah. Many of the individual commands within that law are new, but some are not. Some of the ones which are old were also found in the Mosaic Law and they are now incorporated into the law of Messiah. As a part of the Mosaic Law they are completely and forever done away [with]. As part of the law of Christ they are binding on the believer today. There are also in the law of Christ commandments from pre-Mosaic codes [Noahic], as, for instance, the permission to eat meat (1 Tim 4:3). 4:

また、アリエル・ミニストリーズのジョン・メッツガーは、次のようにキリストの律法(メシアの律法)を定義しています。

 メシアの律法には、諸々の行いや態度が含まれている。この諸々の行いや態度は、新しい契約を通して、聖霊によって新生した私たちの心から来るものである。さらに、このメシアの律法には、教え、矯正、戒めが含まれている。メシアの律法は、メシアご自身が、使徒の教えを通して与えられた神の啓示である。メシアの律法には愛が含まれるが、それ以外にも、使徒が個人や教会に与えた教えが含まれている。パウロ、ヤコブ、ペテロ、ヨハネの手紙、ヘブル人への手紙には600以上の命令が含まれ、そうした命令はイェシュアが使徒たちを通して授けた神のことばである(ヨハネ1:1~14、黙示録19:13)。この命令には、旧約聖書で神がモーセを通して授けた律法と同じ権威がある。しかし、イェシュア(イエス)はモーセの律法を成就し、ご自分の死と埋葬と復活によってモーセの律法を無効とし、代わりにメシアの律法を開始したのである。
 メシアの律法は、私たち信者が歩むべき基準として、イエスが使徒に授けた律法の体系でもある。この律法は、神と人類一般との関係、そしてメシアであるイェシュアにある兄弟姉妹との関係を規定している。

This Law of Messiah includes our actions and our behavior, which come from our hearts that have been regenerated by the Holy Spirit through the New Covenant. In addition, this Law of Messiah includes instruction, correction, and warnings. The Law of Messiah has been divinely revealed by Messiah Himself through the teachings of His apostles. Certainly, the Law of Messiah encompasses love, but it consists of more than love: it includes the teachings that the apostles gave to individuals and to the churches. In the epistles of Paul, James, Peter, John, and the writer of Hebrews, there are well over 600 imperative commands, given by Yeshua Who is the Word of God (John 1:1–14; Revelation 19:13) through His apostles. These commands are just as authoritative as the laws given by God through Moses in the Old Testament. But Yeshua fulfilled the Mosaic law and rendered that law inoperative by His death, burial, and resurrection, and initiated the Law of Messiah instead.
The Law of Messiah is also a system of law given by Yeshua to His apostles as the standard that we as believers are to walk in. It governs our relationship to God and to humankind in general, as well as our relationship with our brothers and sisters in Messiah Yeshua. 5

参考資料

  • John Metzger, The Law, Then And Now: What About Grace? (Grace Acres Press, 2019)
  • Charles Leiter, The Law of Christ (Granted Ministries Press, 2012)
  • Arnold Fruchtenbaum, “The Law of Moses and The Law of Messiah” (Ariel Ministries Digital Press, 2005)
  • Arnold Fruchtenbaum, Yeshua: The Life of Messiah from a Messianic Jewish Perspective – Vol. 2 (Ariel Ministries, 2016)
  • Arnold Fruchtenbaum, The Sermon on the Mount (Ariel Ministries Digital Press, 2016)
  • “The Law of Christ – Part 3 by Charles Leiter,” SermonIndex (https://www.youtube.com/watch?v=WB0vT6bMw7I)
  • “What is the law of Christ?,” Got Questions (https://www.gotquestions.org/law-of-Christ.html)
  • Matt Slick, “What is the Law of Christ?,” CARM (https://carm.org/about-jesus/what-is-the-law-of-christ/)
  1. John Metzger, The Law, Then And Now: What About Grace? (Grace Acres Press, 2019) (EPUB版)

  2. Charles C. Ryrie, “The End of the Law,” Bibliotheca Sacra 124, no. 495 (July 1967): p.246

  3. Arnold Fruchtenbaum, Israelology: The Missing Link in Systematic Theology (Ariel Ministries, 1994), p.650

  4. Charles C. Ryrie, “The End of the Law,” Bibliotheca Sacra 124, no. 495 (July 1967), p.246

  5. John Metzger, The Law, Then And Now: What About Grace? (Grace Acres Press, 2019) (EPUB版)

7 COMMENTS

taniguchi

質問お願いします。新約聖書「ユダの手紙」の著者ユダは、使徒なんでしょうか? 同手紙の内容がキリストの律法といえるのかと考えて少し調べたのですが、よくわかりませんでした。同17節からは、自分は使徒ではないことを前提としているようにも思えます。

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Takashi Sano

ユダはユダ17節で「私たちの主イエス・キリストの使徒たちが前もって語ったことばを思い起こしなさい」と言っていることから、自分は使徒ではないと考えていると思われますね。

それではなぜユダの手紙が新約聖書に含まれているかということになりますが、おそらくユダは預言者というカテゴリに入るのではないでしょうか。エペソ2:20で次のように言われているためです。

> 20  使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。 

新約聖書は信仰の土台ですから、使徒でなければ預言者ということになるのではないかと思います。

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taniguchi

ご回答ありがとうございます。なるほど、預言者ですか。ということは~キリストの律法とは、新約時代の信者に適用されるキリストと使徒たちのすべての命令の体系であると言えます~なので、使徒でないユダの手紙の内容はキリストの律法にはならないということですね。

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Takashi Sano

ユダヤの手紙は新約聖書に含まれているので、キリストの律法に含まれていると考えた方がよいと思います。その場合、キリストの律法の定義を少し修正する必要があるかも知れません。

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Takashi Sano

誤字脱字や説明が足りない部分もありましたので、記事を一部修正しました。

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