「モーセの律法は今も有効か」という疑問は、クリスチャンがよく抱く疑問だと思う。少なくとも、筆者はこの問題で長年頭を悩ませてきた。
筆者が通っていた教会では、モーセの律法は今も有効であると教えていた。モーセの律法が今も有効であることの聖書的根拠としてよく引用されていたのが、次のマタイ5:17~19である。
17 わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。 18 まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。 19 ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。
この箇所を読むと、「キリストは律法や預言者を廃棄するために来たのではない」「律法は一点一画でも決して消え去ることはない」とあるので、当時は「モーセの律法は今も有効」という牧師の主張には十分な根拠があるように思えた。
そのため、筆者はモーセの律法が今も有効と考え、安息日規定など、十戒などのモーセの律法で命じられていることを実行するのはクリスチャンの義務であると信じていた。しかし、聖書を学ぶ中で、また実際上の問題を経験するにつれて、そのような信仰生活に疑問を感じるようになっていった。そして、結局はこの教えが間違っているという確信に導かれた。
この問題について長年考察してきた立場から言うと、モーセの律法が現在どういう立ち位置なのかを理解していないと、個人でも教会でも、さまざまな問題が生じるように思う。実際に、筆者は個人としても、教会の中でも、さまざまな問題を体験してきた。
この記事では、モーセの律法は現在無効となっていることを聖書から示したい。以下に、そう言える理由を聖書箇所を示しながら説明していく。
> 1. モーセの律法とはどういうものか1. モーセの律法とはどういうものか
モーセの律法が今も有効かどうかを考えるには、まずモーセの律法がどういう性質を持っているかを知る必要がある。モーセの律法には以下の3つの性質がある。
- モーセの律法は全体で一つ
- モーセの律法は神とイスラエルとの間の契約
- モーセの律法は一時的に追加されたもの
(1)モーセの律法は全体で一つ
モーセの律法には、613の命令があると言われている。しかし、ヘブル語で「律法」を表す「トーラー」という言葉は、常に単数形で使われている。新約聖書で使われているギリシャ語の「ノモス」も、同じく単数形である。このことは、モーセの律法は613ある命令すべてが集まって一つのものとなっていることを示している。そのため、モーセの律法は分割不可能なものである。モーセの律法が全体で一つのものであると考えられていることは、ヤコブ2:10の記述からもわかる。
10 律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです。
モーセの律法にある命令の一つにでも違反するなら、すべてに違反したのと同じとみなされるという教えである。これは、613ある命令が一体となってモーセの律法となっていることを前提にしないと成り立たない論理だ。
ガラテヤ5:3も、モーセの律法は全体で一つと考えられていることがわかる箇所である。
3 割礼を受けるすべての人に、もう一度はっきり言っておきます。そういう人には律法全体を行う義務があります。
割礼というモーセの律法の一つである命令を実行するなら、それ以外の律法もすべて守る必要がある。これは、モーセの律法が全体で一つで、分割不可能なものであることを示している。
改革派神学などで、モーセの律法を祭儀法、市民法、道徳法の3つに分けて考えることがある。これは聖書を教える上で便利な区分であっても、聖書が採用している立場ではない。同様に、このようにモーセの律法を分類し、祭儀法と市民法は無効だが、道徳法は今も有効とする考え方も聖書的ではない。
聖書は、モーセの律法は全体で一つのものと教えている。
(2)モーセの律法は神とイスラエルとの間の契約
もう一つ念頭に置いておく必要がある点は、モーセの律法は、神がイスラエル民族に与えられた契約だということである。この契約は、モーセ契約またはシナイ山で結ばれたのでシナイ契約とも呼ばれている。出エジプト19:3~6には、シナイ契約が与えられた時の状況が次のように記されている。
3 モーセが神のみもとに上って行くと、【主】が山から彼を呼んで言われた。「あなたは、こうヤコブの家に言い、イスラエルの子らに告げよ。 4 『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。 5 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。 6 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」
ここで神はモーセに「ヤコブの家に言い、イスラエルの子らに告げよ」と語りかけている。また、「あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる」と神が語られているように、律法が与えられたのはあらゆる民族の中でもイスラエル民族のみであることがわかる。
モーセはこの点を何度も強調していて、申命記5:2~3では次のように語っている。
2 私たちの神、【主】はホレブで私たちと契約を結ばれた。 3 【主】はこの契約を私たちの先祖と結ばれたのではなく、今日ここに生きている私たち一人ひとりと結ばれたのである。
ホレブというのはシナイ山の別名で、「契約」というのはシナイ契約のことである。この契約は、神が出エジプト時代のイスラエル人と結ばれたもので、イスラエル人の父祖とも結ばれていないと言われている。ましてや異邦人(ユダヤ人以外の民族)がシナイ契約の当事者であるはずがない(申命記4:7~8、詩篇147:19~20、マラキ4:4なども参照)。
この点は、ローマ9:4でも確認することができる。
4 彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法の授与も、礼拝も、約束も彼らのものです。
ここで「律法の授与」は、イスラエルに対するものであることが明言されている。モーセの律法はイスラエル民族に与えられたもので、私たち異邦人にはそもそも適用されないという点を理解しておくことが重要である。
(3)モーセの律法は一時的に追加されたもの
聖書によると、モーセの律法は、神がアブラハムと結ばれた「アラブハム契約」に追加されたものである。アブラハム契約は条件のない無条件契約なので、無効になることがない。しかし、モーセの律法は、いつまでも続くものではなく、一時的なものである。ガラテヤ3:15~19で、パウロは次のように語っている
15 兄弟たちよ、人間の例で説明しましょう。人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません。 16 約束は、アブラハムとその子孫に告げられました。神は、「子孫たちに」と言って多数を指すことなく、一人を指して「あなたの子孫に」と言っておられます。それはキリストのことです。
17 私の言おうとしていることは、こうです。先に神によって結ばれた契約を、その後四百三十年たってできた律法が無効にし、その約束を破棄することはありません。 18 相続がもし律法によるなら、もはやそれは約束によるのではありません。しかし、神は約束を通して、アブラハムに相続の恵みを下さったのです。
19 それでは、律法とは何でしょうか。それは、約束を受けたこの子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたものです。
17節の「先に神によって結ばれた契約」とは、「アブラハム契約」のことである。ガラテヤ3:16によると、この「あなた(アラブハム)の子孫」とはキリストのことである。ガラテヤ3:19では、モーセの律法とは、キリスト(「この子孫」)が来られる時までアブラハム契約に付け加えられた一時的な契約であると言われている。そのため、キリストがすでに来られた今、一時的な追加物であるモーセの律法は、無効となっていることがわかる。
> 2. なぜモーセの律法は無効になったとわかるのか2. なぜモーセの律法は無効になったとわかるのか
以上で、モーセの律法の基本的な性質を確認した。また、モーセの律法が無効になったことも少し述べた。以下では、モーセの律法が今では無効となっている7つの聖書的根拠を以下のように示していく。
- 律法はすでに成就した
- 律法の目的と終着点はキリストである
- 律法は廃止されたと聖書で明言されている
- 十戒も無効とされている
- 信者はモーセの律法から解放されている
- 律法に仕える祭司職が変更されている
- 新しい契約に伴って古い契約は廃止された
(1)律法はすでに成就した
モーセの律法はすでに成就しており、今では無効になっている。
先述のとおり、筆者がいた教会では、マタイ5:17~19が引用され、キリストは律法を廃棄したのではないと教えられていた。先ほども紹介したが、マタイ5:17~19では次のように言われている。
17 わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。 18 まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。 19 ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。
この聖句を理解する上で重要なポイントは以下のとおりである。
1)イエスの地上生涯ではモーセの律法は有効だった
第一のポイントは、キリストが地上におられる時は、モーセの律法はまだ有効だったということである。モーセの律法は、キリストが地上に来られた時ではなく、十字架上で死なれた時に無効となった(コロサイ2:14)。そのため、イエスがこの言葉を語った時点では、モーセの律法は「一点一画(一字一句)」も欠けることなく有効だったのである。
また、当時、律法学者やパリサイ人はさまざまな口伝律法を作り、モーセの律法の命令を実質的に無効にするようなことを教えていた。たとえば、マルコ7:9~13で、イエスは律法学者やパリサイ人が「コルバンの教え」という口伝律法で、「あなたの父と母を敬え」というモーセの律法をないがしろにしていると非難し、そのようなことをたくさん行っていると語っている。イエスは、そのような当時の律法学者やパリサイ人を批判しておられたという文脈も理解しておく必要がある。
2)イエスは律法を成就し、無効とされた
イエスは、律法や預言者を廃棄するためではなく、成就するために来られたと言われた。律法の成就は、次の2つの点で実現した。
-
イエスは一点一画に至るまで律法に従い通して罪のない生涯を全うし(ヨハネ8:29、46、1ペテロ2:22)、律法の要求を完全に満たされた。
-
律法や預言書(「預言者」)では、人類を救うメシア(キリスト)が世に来られることが預言されていた(メシア預言)。イエスは、メシア預言で預言されていたキリストとして地上に来られ、ご自分に関する律法の預言を一点一画に至るまで成就された。たとえば、イエスは過越の祭りの日に十字架にかかり、人々の罪を贖う過越のいけにえとして死なれた(1コリント5:7)。この過越の子羊は、キリストの登場を預言した型であり、イエスの十字架上での死が成就である。また、ヘブル書の9章では、幕屋に関する律法の規定は、キリストによって成就した永遠の贖いの予表であったことが示されている。
キリストは、律法の要求に完全に従い、律法のメシア預言をすべて成就することで、律法を成就された。成就した律法は役目を終了し、無効となったのである。
3)この聖句を根拠にモーセの律法が有効とする人の主張は首尾一貫していない
マタイ5:17~19を根拠に「モーセの律法は今も有効」という主張について一言付け加えると、こう主張する人は首尾一貫していないことを指摘しておく必要がある。「律法の一点一画も決して消え去ることはない」(18節)、「戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれる」(19節)と言いつつ、モーセの律法にある以下のような命令を守るようには教えないためである。
申命記16:16には、次のような規定がある。
16 あなたのうちの男子はみな、年に三度、種なしパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、【主】が選ばれる場所で御前に出なければならない。【主】の前には何も持たずに出てはならない。
この規定を守るには、年に三度、「【主】が選ばれる場所」(1列王記11:36)であるエルサレムに上って、種なしパンの祭り(過越の祭り)、七週の祭り、仮庵の祭りを祝う必要がある。しかも、「【主】の前には何も持たずに出てはならない」とあるように、動物のいけにえをささげる必要もある(申命記16:2)。また、エルサレムに動物のいけにえをささげるための神殿がないといけない。
また、出エジプト20:8~10では次のような安息日規定が与えられている。
8 安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。 9 六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。 10 七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。
モーセの律法に従うのであれば、安息日の守り方も律法に従う必要がある。安息日は「七日目」とあるので土曜日である(正確には金曜日の日没から土曜日の日没まで)。日曜日は週の初めの日であるので、日曜日の礼拝を守ることは安息日の規定を守っていることにはならない。
この規定に従うと、土曜出勤は律法違反となる。金曜日の夜に残業することも律法違反である。また、自分の子どもが安息日規定に違反していても律法違反になる。そのほか、安息日に火を使って料理することもできない(出エジプト35:3)し、遠出をすることもできない(出エジプト16:29)。安息日規定は、こうした付随する規定をすべて守って初めて律法に従ったことになる。
申命記23:20では、次のようなことも命じられている。
20 異国人からは利息を取ってもよいが、あなたの同胞からは利息を取ってはならない。…
この命令が有効であれば、銀行員は律法違反を常習的に行っていることになる。外国人相手であれば律法違反ではないが、自国民に融資をして利子を取ると律法違反となる。しかし、モーセの律法が今も有効と語っている牧師が、銀行員に律法違反を指摘したという話は聞いたことがない。
そのほかにも、衣服の裾の四隅に房(ツィツィート)を付ける(写真参照。民数記15:38)などの服飾規定や、もみあげを剃ってはいけない(レビ19:27)といった命令にも従う必要がある。食物規定については、イエスがマルコ7:17ですべての食物をきよいとされたが、もしモーセの律法は今も一点一画に至るまで有効であるなら、豚や甲殻類を食べてはいけないという律法も有効ということになる。
ツィツィートの規定などは細かい規定だと思うが、もしマタイ5:17~19を根拠にモーセの律法が今も有効であると主張するなら、律法は一点一画まで有効なのだから、細かい律法にも従う必要がある。そのように教えないなら、自分自身の主張によって「天の御国で最も小さい者と呼ばれる」ことになる。しかし、このような聖書の読み方は的外れである。
(2)律法の目的と終着点はキリストである
律法が今では無効になっていることは、律法がすでに目的を達していることでわかる。ローマ10:4では次のように言われている。
4 律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。(新改訳2017年版)
この訳は新改訳の2017年版のものだが、第3版では次のように訳されている。
4 キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。(新改訳第3版)
新改訳の2017年版と第3版で訳が違うのは、原文にあるギリシャ語の「テロス」という単語に「終わり(end)」という意味と「目的(purpose)」という2つの意味があるからである。「目的」という意味に解釈すると2017年版、「終わり」という意味に解釈すると第3版のような訳になる。
しかし、いずれにせよ、言っていることの意味は大して変わらない。キリストは律法の目的であり、律法を終わらせる方でもある。キリストは、律法の要求を満たし、律法の預言を成就することで、律法を終わらせたのである。
(3)律法は廃止されたと聖書で明言されている
新約聖書では、何度も繰り返し「モーセの律法は廃止された」と明言されている。たとえば、ヘブル7:18~19では次のように言われている。
18 一方で、前の戒めは、弱く無益なために廃止され、19 ──律法は何も全うしなかったのです──もう一方では、もっとすぐれた希望が導き入れられました。これによって私たちは神に近づくのです。
18節の「前の戒め」とは、19節を見るとわかるようにモーセの律法を指している。モーセの律法は「弱く無益なために廃止され」たとはっきりと記されている。
また、コロサイ2:13~14では次のように言われている。
13 背きのうちにあり、また肉の割礼がなく、死んだ者であったあなたがたを、神はキリストとともに生かしてくださいました。私たちのすべての背きを赦し、 14 私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。
「様々な規定で私たちを責め立てている債務証書」も、モーセの律法を指している。律法に違反して罪を犯した者は、神に対して負債を負っている。キリストが、この負債をすべて負って十字架にかかり、罪の債務証書である律法を十字架に釘付けにしてくださったのである。そのため、キリストを信じる者は罪の負債と律法から解放されている。
エペソ2:14~16でも同様のことが記されている。
14 実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、 15 様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、 16 二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。
15節の「様々な規定から成る戒めの律法」は、モーセの律法を指している。また、モーセの律法は「敵意」とも呼ばれており、ユダヤ人と異邦人の間で「隔ての壁」となって立ちはだかっていた。この聖句によると、律法が廃棄され、隔ての壁がなくなったので、ユダヤ人と異邦人は教会のからだとして一つとなったことがわかる。もし律法が廃棄されていなければ、ユダヤ人と異邦人が「新しい一人の人」(15節)となって、キリストのからだを構成することはできなかったはずである。また、先ほどのコロサイ2:13~14と同様、モーセの律法は十字架によって無効とされたことがわかる(16節)。
(4)十戒も無効とされている
モーセの律法の大部分は無効でも、十戒は今も有効であると主張する人がいる。しかし、次の2コリント3:6~11を読むと、この議論は成り立たないことがわかる。
6 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。
7 石の上に刻まれた文字による、死に仕える務めさえ栄光を帯びたものであり、イスラエルの子らはモーセの顔にあった消え去る栄光のために、モーセの顔を見つめることができないほどでした。そうであれば、 8 御霊に仕える務めは、もっと栄光を帯びたものとならないでしょうか。 9 罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちあふれます。
10 実にこの点において、かつては栄光を受けたものが、それよりさらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているのです。 11 消え去るべきものが栄光の中にあったのなら、永続するものは、なおのこと栄光に包まれているはずです。
7節の「石の上に刻まれた文字」とは、明らかに十戒を指している(出エジプト34:28参照)。パウロは、十戒による働きを「死に仕える務め」と呼び、この死に仕える努めでさえも栄光を帯びたものだったと語っている(7節)。しかし、今ではさらに栄光を帯びた「御霊に仕える務め」が与えられており、「死に仕える努め」(7節)、「罪に定める務め」(9節)を担っていた十戒は「消え去るべきもの」(11節)と呼ばれている。
先述のように、モーセの律法は全体で一つであり、十戒だけ取り出して有効とすることはできないので、当然のことだとも言える。
(5)信者はモーセの律法から解放されている
新約聖書の書簡では、信者はモーセの律法から解放され、もはや律法の下にはいないと繰り返し教えられている。たとえば、ローマ6:14では次のように言われている。
14 罪があなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。
また、ローマ8:1~2でも次のように言われている。
1 …今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。
ローマ7:1~6では、信者が律法から解放されている理由を次のように教えている。
1 それとも、兄弟たち、あなたがたは知らないのですか──私は律法を知っている人たちに話しています──律法が人を支配するのは、その人が生きている期間だけです。 …… 4 ですから、私の兄弟たちよ。あなたがたもキリストのからだを通して、律法に対して死んでいるのです。…… 6 しかし今は、私たちは自分を縛っていた律法に死んだので、律法から解かれました。その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。
キリストを信じる者は、十字架に律法を釘付けにして死なれたキリストを通して、律法に対して死んでいる。「律法が人を支配するのは、その人が生きている期間だけです」(1節)と言われているため、律法に対して死んでいる信者は、もはや律法の支配の下にはいない。そして、律法から解放され、御霊によって仕える者とされているのである。この点は、ガラテヤ2:19でも確認されている。
最後に、ガラテヤ5:18では次のように言われている。
18 御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。
キリストを信じて救われた者には聖霊の内住が約束されている(1コリ6:19)。聖霊に導かれている信者は、もはや律法の下にはいない。
(6)律法に仕える祭司職が変更されている
ヘブル6:11~7:28では、レビ族の祭司職が廃止され、イエス・キリストというメルキゼデクの位の祭司が立てられたことが教えられている。そして、ヘブル7:11~12では次のように言われている。
11 民はレビ族の祭司職に基づいて律法を与えられました。もしその祭司職によって完全さに到達できたのなら、それ以上何の必要があって、アロンに倣ってではなく、メルキゼデクに倣ってと言われる、別の祭司が立てられたのでしょうか。 12 祭司職が変われば、必ず律法も変わらなければなりません。
12節では明確に「祭司職が変われば、必ず律法も変わらなければなりません」と言われている。そのため、モーセの律法は廃止され、新しい祭司に合わせて新しい律法である「キリストの律法」(1コリント9:21)が導入された。新約時代の信者が従うように求められているのは、この律法である。
(7)新しい契約に伴って古い契約は廃止された
ヘブル8:13では、モーセの律法を規定したシナイ契約は「消えて行く」ものと教えられている。
13 神は、「新しい契約」と呼ぶことで、初めの契約を古いものとされました。年を経て古びたものは、すぐに消えて行くのです。
「初めの契約」であるシナイ契約は、キリストが現れて「新しい契約」が提示されたため「古い契約」となった。新しい契約が結ばれた以上、古い契約の律法は消えて行くのみである。
> 3. モーセの律法が無効だとどうなるのか3. モーセの律法が無効だとどうなるのか
最後に、モーセの律法が今では無効だとわかると何が変わるかについて、代表的な問題を挙げて少し考えてみたい。
(1)安息日規定
筆者が悩んだ命令の一つは、安息日規定である。筆者の教会では、安息日は日曜日のことで、日曜日は礼拝を守るものであると教えられていた。しかし、先述のとおり、安息日は本来土曜日のことで、律法を守りたいのであれば、律法の規定どおりに土曜日を安息日として守る必要がある。同じ理由で、セブンスデーアドベンチスト教会(SDA)などは、土曜日に礼拝することをポリシーとしている。
ただ、この記事で示してきたように、モーセの律法は今では無効であるので、安息日規定を守る必要はない。どの日に礼拝を行うかについては、ローマ14:5~6aに原則が示されている。
5 ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。 6 特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。
ここでパウロは、新約時代では、どの日を大事にするか、礼拝するかは、各自の判断に任されていると教えている。土曜日に礼拝するもよいし、日曜日に礼拝するもよいし、別の日に礼拝するのもよい。多くの教会は、キリストが日曜日に復活されたので、日曜日に礼拝を行うことが伝統的な習慣となっている。これは主の復活を記念したものである。ユダヤ人の習慣に合わせて土曜日に礼拝を行うのもよい。サービス業など、休日に出勤することが多い職業の人のために平日に礼拝を行う教会があってもよい。どの日に礼拝するにしても、重要なのは主のためという動機である。
(2)宗教的祭り
クリスマスやイースターは異教徒の祭りを取り入れたものだったと言う人もあるが、キリスト教の習慣としてよく知られ、未信者に福音を伝える絶好の機会でもあるので、こうした日を主のために祝うことはよいことである。また、クリスマスやイースターではなく、ユダヤ暦に合わせてイスラエルの祭りを祝ってもよい。
問題なのは、どの日を重視するかで、考えが違う人に自分の意見を押し付けたり、さばいたりすることである。モーセの律法は今では無効なので、どの日を祝うか、どの日に礼拝するかで人を罪に定めることは間違っている。
(3)什一献金
安息日のほかに、モーセの律法の規定で問題になるのは什一献金である。モーセの律法では、収入の十分の一をささげるように教えられていた(レビ27:30など)。しかし、新約時代に生きる信者には別の原則が与えられている。モーセの律法は無効となった今、新約聖書では次の2コリント9:6で献金に関する原則が教えられている。
6 私が伝えたいことは、こうです。わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。 7 一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。
新約時代の信者が献金をささげる場合、第一の原則は「一人ひとり、…心で決めたとおりに」どれだけささげるかを判断するということである。第二の原則は「いやいやながらでなく、強いられてでもなく、…喜んで」ささげるということである。
私が一度だけだが行ったことがある教会では、什一献金をささげた教会員とそうでない教会員がリストアップされていて、まだささげていない教会員に献金を促すということをしていた。このような慣行は、「一人ひとり、…心で決めたとおりに」「いやいやながらでなく、強いられてでもなく、…喜んで」ささげるという新約聖書の原則に反している。
ただ、「わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れる」と言われていることも心に留めておく必要がある。伝道や奉仕だけでなく、献金も立派な主の働きであるので、喜んでささげる人には豊かな刈り入れが約束されている。
> まとめまとめ
以上で、モーセの律法が今では無効となっていることを聖書から明らかにしてきた。モーセの律法はすでにキリストによって成就され、主な役割を終了したからである。そして、新約時代の信者が従う必要があるのは、モーセの律法ではなくキリストの律法であることも示した。
以上の点は、コロサイ2:16~17でも確認することができる。
16 こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のことで、だれかがあなたがたを批判することがあってはなりません。 17 これらは、来たるべきものの影であって、本体はキリストにあります。
16節で挙げられているのは、すべてモーセの律法で命じられていることである。しかし、こうした事柄は各自の判断に任されていることで、批判の対象としてはならないと言われている。そして、17節では、こうしたものは「来たるべきものの影」であって、本体はキリストにあると明言されている。
また、ローマ8:1~2では次のように言われている。
1 …今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。
新約時代に生きる信者には、「罪と死の律法」と呼ばれるモーセの律法ではなく、「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法」であるキリストの律法が与えられている。そのため、キリストにあって聖霊に導かれる者はモーセの律法から解放されており、罪に定められることがない。ハレルヤ!
> 参考資料参考資料
- Arnold Fruchtenbaum, “The Law of Moses and The Law of Messiah” (Ariel Ministries Digital Press, 2005)
- Arnold Fruchtenbaum, Yeshua: The Life of Messiah from a Messianic Jewish Perspective – Vol. 2 (Ariel Ministries, 2016)
- ハーベスト聖書塾テキスト「B-9-7 聖書的献金」(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ)
- アーノルド・フルクテンバウム『ヘブル的キリスト教入門』(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ、2014年)
- Charles Leiter, The Law of Christ (Granted Ministries Press, 2012)
[…] も有効かどうかという問いも別に立てる必要がある。この点については、記事「モーセの律法は今も有効か」をご参照いただきたい。 本稿では、異邦人がモーセの律法を守る必要がある […]
[…] 前回の記事「モーセの律法は今も有効か」では、モーセの律法は今では無効となっていることを確認しました。 […]
[…] 前々回の記事「モーセの律法は今も有効か」では、クリスチャンが従う必要があるのはモーセの律法ではなくキリストの律法であることを明らかにしました。そして、前回の記事「キリ […]