日本人に福音をどう伝えるか ― 聖書に記された唯一の異邦人向け伝道メッセージに学ぶ(7)さばきと救いを語る(使徒17:30~34)

レオ・フォン・クレンツェによる、アレオパゴス(前景)とアクロポリスの理想化された復元図、1846年。

これまでの記事で、パウロは自分の宣べ伝えている神を次のような方として紹介したことを明らかにしました。

  • アテネ人が「知られない神」として敬っている神
  • 天地創造の神
  • すべての人、すべての民族、すべての国を造った神

また、パウロはアテネ人も実は天地創造の神を知っているのだと語り、天地を造った神の代わりに人が造った神を拝む偶像礼拝を非難しました。今回は、メッセージの結論として、来たるべきさばきを告げ、救われるために悔い改めを呼びかける場面を解説します。

聖書箇所:使徒17:30~34

 30 神はそのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます。 31 なぜなら、神は日を定めて、お立てになった一人の方により、義をもってこの世界をさばこうとしておられるからです。神はこの方を死者の中からよみがえらせて、その確証をすべての人にお与えになったのです。」 

32  死者の復活のことを聞くと、ある人たちはあざ笑ったが、ほかの人たちは「そのことについては、もう一度聞くことにしよう」と言った。 33 こうして、パウロは彼らの中から出て行った。 34  ある人々は彼につき従い、信仰に入った。その中には、アレオパゴスの裁判官ディオヌシオ、ダマリスという名の女の人、そのほかの人たちもいた。 

悔い改めの呼びかけ(使徒17:30)

パウロは偶像礼拝の愚かさを使徒17:29で語った後、すべての人に悔い改めを呼びかけています。

「悔い改め」とは

パウロは30節で「今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます」と語っています。この「悔い改め」という言葉の原語(ギリシャ語)は「メタノエオー」で、「心を入れ替える」「考えを改める」「方向転換する」といった意味です。

何を悔い改めるのか

何について心を入れ替えるのかというと、ここでは「神と偶像に対する考え方」です。使徒17:29では「私たちは神の子孫ですから、神である方を金や銀や石、人間の技術や考えで造ったものと同じであると、考えるべきではありません」と言われていました。そのため、ここでは、創造主ではなく、被造物である偶像を神として礼拝してきた、これまでの考え方を改めることを意味しています。ここでいう「悔い改め」とは、偶像から真の神に方向転換することと言うこともできます。

ユダヤ人神学者のアーノルド・フルクテンバウム博士は次のように語っています。

神と人との絆が、神から与えられた命にあるなら、神の御姿を(命のない)偶像に代えることはまったく愚かなことである。偶像は神の子孫である人の考えに由来するものであって、万物の源であり、創造主である神の考えに由来するものではないためである。

“If the connection between God and man is the life derived from God, then it is utter foolishness to represent the image of God with idols, since they originate in the mind of men, the offspring, not in the mind of God, the Originator and Creator.” ― Arnold G. Fruchtenbaum, Ariel’s Bible Commentary: The Book of Acts (Ariel Ministries, 2020) Kindle 版

「無知の時代」とは

30節の冒頭でパウロは「神はそのような無知の時代を見過ごしておられました」と語っています。「無知の時代」とは、29節を見ると、人間が金や銀や石を使って造ったものを神と同じと考え、礼拝していた時代のことです。イエス・キリストによって神の完全な知識がもたらされる前の時代と言うこともできます。

「見過ごしておられました」の意味

そのような無知の時代には、神は偶像礼拝の罪を「見過ごしておられました」と言われています。「見過ごす」という単語の原語(ギリシャ語)は「ヒュペレイドー」で、「大目に見る」「見て見ぬふりをする」といった意味です。

同様のことは使徒14:16でも次のように言われています。

16 神は、過ぎ去った時代には、あらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むままにしておられました。

イスラエルの民は、モーセの律法が与えられていたので偶像礼拝の罪が厳しくさばかれましたが、「無知の時代」に生きていた異邦人(イスラエル以外の民族)に対しては、「神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられた」(ローマ3:25)のです。そのため、偶像礼拝の罪でイスラエルと同じようにはさばかれることはありませんでした。しかし、今は違う、というのがパウロのメッセージです。この点について、アーノルド・フルクテンバウム博士は次のように語っています。

かつて異邦人は、自然啓示にのみ応答する責任を負っていた。しかし今や、特別啓示にも応答する責任を負うことになった。今、異邦人が必要としているのは、悔い改めることである。「悔い改める」と訳されるギリシア語の「メタノエイン(metanoein)」は、救いに至る悔い改めを指している。

In the past, the Gentiles were held responsible to respond only to natural revelation, but now, they will be held responsible to respond to special revelation also. What they must now do is repent. The Greek word for “repent,” metanoein, refers to salvation repentance. ― Arnold G. Fruchtenbaum, Ariel’s Bible Commentary: The Book of Acts (Ariel Ministries, 2020) Kindle 版

誰が悔い改める必要があるのか

パウロは、「今はどこででも、すべての人に」(30節)悔い改めが命じられていると語っています。ユダヤ人とか西洋人、日本人という民族を超えて、すべての人が悔い改める必要があります。キリストが現れて「無知の時代」が終わり、今ではユダヤ人にも、異邦人(ユダヤ人以外の民族)にも、キリストにある救いが宣べ伝えられているためです。使徒4:12で、使徒ペテロがこう語っているとおりです。

12  この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。 

悔い改めが必要な理由は、次の31節で説明されています。

さばきの宣告(使徒17:31a)

悔い改めが必要な理由は、31節前半の「なぜなら」という言葉の後に記されています。その理由とは、「神は日を定めて、お立てになった一人の方により、義をもってこの世界をさばこうとしておられるから」というものです。

最後の審判

ここで「世界のさばき」と言われているのは、「大いなる白い御座のさばき」と呼ばれる最後の審判のことです(黙示録20:11~15)。この審判によって、悔い改めないまま亡くなった人々は「火の池」(黙示録20:14、15)や「ゲヘナ」(マタイ10:28など)と呼ばれる地獄に投げ込まれることになります。そして、最後の審判の日は、すでに神によって定められているとパウロは語っています。

さばき主

ここで名前は明らかにされていませんが、さばきを行う方は、イエス・キリストです。最後の審判のさばきを行う方はイエス・キリストであることは、ヨハネ5:22、27で次のように明らかにされています。

22 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。… 27  また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。 

ヨハネ5:27では、イエスにさばきの権威が与えられた理由が「子は人の子だからです」と言われています。これはダニエル7:13~14で「人の子のような…方に、主権と栄誉と国が与えられ」たと預言されているためです。また、「人の子」であることが理由となっているのは、イエスが人として生まれながら、生涯に罪を一度も犯すことなく、すべての律法に従って神の義の基準に到達された方だからです。そして、人々の罪のための宥めの供え物となってくださったためです。ヘブル2:17では次のように言われています。

…イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです。 

イエスは、人となり、人の罪のための宥めの供え物となることで、神の義に到達できない罪人が義とされ、義人として生きる道を開きました。そのため、人をさばく権威が与えられているのです。

さばきの基準

「神は…義をもってこの世界をさばこうとしておられるからです」と言われています。さばきの基準となるのは神の「義」ですが、この点についてアーノルド・フルクテンバウム博士は次のように語っています。

このさばきで、神はすべての救われていない人類を義によってさばく。この義が、裁きの基準となる。さらに神は、ご自分が定めた人物によって不信仰な人々をさばかれる。大いなる白い御座で行われるさばきでイェシュア(イエス)の果たす役割は、人々をさばく際の義の基準となることである。また、イェシュアは実際に審判者となり、すべての不信者に対して、神の義の基準に達することができなかったことを明らかにするのである。

“At this judgment, God will judge all unsaved humanity in righteousness, which will be the standard of judgment. Furthermore, He will judge unbelievers by the man whom he has ordained. The function of Yeshua at the Great White Throne Judgment will be to serve as the standard of righteousness by which others are going to be judged. He will also be the actual Judge, and every unbeliever will be shown to have failed to attain the righteous standard of God.” ― Arnold G. Fruchtenbaum, Ariel’s Bible Commentary: The Book of Acts (Ariel Ministries, 2020) Kindle 版

フルクテンバウム博士が言うように、白い御座のさばきで人々は神の義に到達したキリストの生涯を基準としてさばかれます。この時に「私に罪はない」と言うことができる人はいません。そのため、すべての人に対して「イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義」(ローマ3:22)が差し出されているのです。この義を信仰によって受ける時、私たちはキリストの義を着せられ、さばきを免れます。

しかし、白い御座のさばきに立つことになる人は、「神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかった」(ローマ10:3)人々です。つまり、キリストを信じることで与えられる救いを受け入れなかった人々です。

さばきの確証(使徒17:31b)

31節後半では「神はこの方を死者の中からよみがえらせて、その確証をすべての人にお与えになったのです」と言われています。つまり、神が定めたさばきの日が来ることの確証は、キリストの復活によって与えられています。イエス・キリストが神の義の基準に達したことが、復活によって証明されたためです。

詩篇16:10では、次のように言われています。

あなたは 私のたましいをよみに捨て置かず

あなたにある敬虔な者に

滅びをお見せにならないからです。

この「滅び」という言葉は、ヘブル語で「シャハット」で、「墓」とも訳せる言葉です。つまり、ここでは、主にある敬虔な者(義人)が墓に留まることはなく、復活することが約束されています。これを裏返すと、復活によってイエスが義人であることが証明されたことになります。

また、このイエスを人々の罪のための宥めのささげ物とすることで、父なる神の義も明らかにされています。ローマ3:25~26で次のように言われているためです。

25 神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。 26 すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。 

このように、父なる神の義と御子の義がすでに明らかにされた以上、さばきの準備はすでに整っています。神の側でするべきことはすべて完了し、イエス・キリストを信じることで救われる道が開かれているためです。あとは、私たちがイエス・キリストにどう応答するかが問われています。

イエスの復活により、さばきの日が来ることの確証はすでに与えられています。

さばきのメッセージの必要性

このように、パウロはメッセージの最後にやがて来るさばきを語っています。このさばきのメッセージは、福音メッセージには欠かせないものです。英国の説教者、チャールズ・スポルジョン(1834~1892年)は次のように語っています。

神は世をさばかれる日を定められた。私たちは、悪の支配が終わり、虐げられている人々に安息が与えられるその日が来るまで、ため息をつき、泣き叫ぶ。兄弟たちよ、私たちは主の来臨を宣べ伝えなければならない。これまで以上に宣べ伝えなければならない。なぜなら、それが福音の原動力だからである。あまりにも多くの人がこの真理を隠してきたために、福音の力が骨抜きになってしまっている。そのため、福音の刃先はこぼれ、刃はなまくらになってしまっている。来たるべきさばきの教理は、人を目覚めさせる力である。

“God [has] appointed a day in which He will judge the world, and we sigh and cry until it shall end the reign of wickedness, and give rest to the oppressed. Brethren, we must preach the coming of the Lord, and preach it somewhat more than we have done, because it is the driving power of the gospel. Too many have kept back these truths, and thus the bone has been taken out of the arm of the gospel. Its point has been broken, its edge has been blunted. The doctrine of judgment to come is the power by which men are to be aroused.” ― Ray Comfort, The Evidence Bible: NKJV (Bridge-Logos, 2011), p.1583

スポルジョンは、19世紀にすでに「あまりにも多くの人がこの真理(神のさばきの教え)を隠してきたために、福音の力が骨抜きになってしまっている」と語っています。この言葉は、今の時代により当てはまるように思います。

日本への適用

日本人がよくたずねる質問にどう答えるか

やがて来るさばきの日について日本人に語ると、「キリストを信じないとさばかれるのであれば、先祖はどうなるのか。キリスト教が誕生して千年以上も日本に伝えられていなかったのに、不公平ではないか」と言われることがあります。私も、未信者の時代に同じ質問をしたことがあります。

この傾向は今も昔も同じで、戦国時代に宣教師として来日したルイス・フロイスは、日本人がよくする質問として次のように書き記しています。

デウスが世の救い主であり統治者であるならば、なぜ彼は宇宙創造の当初からこの日本の地方へその教えが明示されるように取り計らわず、今まで延ばしたのか、と言った。1

これに対し、イエズス会の宣教師が出した回答として、フロイスは次のように記しています。

我らはこの質問に対して以下のように答えた。『デウスの教えは世の初めから今に至るまで人間の知性の中に明らかにされている。すなわち、たとえほかに誰も人間がいない山中で育ったとしても、その人間は隣人に害を加えることは罪悪であることを善悪識別して心得ており、彼は同様のことを人からされることを好まぬのである』と。そしてそのようにして、我らは彼らにデウスの十誡を説明した。さらに我らは次のように彼らに語った。「あなた方はそうしたことを宣教師や教師たちから教わるまでもない。人間を創り給うた主なるデウスがそれを教え給うたのである。知性のある者ならば誰でも[熟考しさえするならば]、第一の誡、すなわち自分の霊魂を創った唯一のデウスが存在することを認めるからである。…それゆえに人間は、自分を創り給うた方を拝み、かつ認め、そして自分が他人にこうあってほしいと隣人たちに対して振舞うにおいては、たとえ彼がデウスの教えを聴聞しなくとも、デウスはその人に救済の光を授け給うであろう』と。2

イエズス会は、マリア崇拝などカトリックの誤った教えを保っているという点で注意する必要がありますが、キリスト教弁証学の点では優れたところがあります。このフロイスが記した回答は、今も有効であると思います。

すべての人には、神に関する以下の啓示が与えられています。

  • 自然を通した啓示
  • 良心を通した啓示

聖書を「特別啓示」と呼ぶのに対し、上記を「一般啓示」と呼びますが、一般啓示によって人は天地と人間を創造された神がおられることを悟ります。そして、一般啓示に応答して天地創造の神を知ることを求める者には、より大きな光である特別啓示が与えられます。宣教師がある国を訪れると、神を知ることを求めていた多くの人が救われるという現象が歴史上たびたび起こっていることも、この原則と無関係ではありません。

また、神に不公平はないという点について、ルカ12:47~48には次のように言われています。

47 主人の思いを知りながら用意もせず、その思いどおりに働きもしなかったしもべは、むちでひどく打たれます。 48 しかし、主人の思いを知らずにいて、むち打たれるに値することをしたしもべは、少ししか打たれません。多く与えられた者はみな、多くを求められ、多く任された者は、さらに多くを要求されます。 

ここでは、人は知識の量によってさばきの度合いが違うことが示されています。そのため、福音を聞いたことがない人のさばきは、福音を聞いたことがある人に対するさばきよりも軽くなります。逆に考えると、福音を聞いた上で福音を拒否した人に対するさばきは厳しいものになるので、福音を聞いたことがない先祖の心配をしている場合ではないということになります。多く与えられた者は、多く求められるのです。今は、イエス・キリストによって神に関する十分な知識が啓示されている時代です。そのため、神は過ぎ去った日には見過ごしておられた罪を大目に見てくれないということでもあります。

3つの反応(使徒17:32、34)

パウロがメッセージを語った後、聴衆の反応は以下の3つに分かれました。

(1)嘲笑する(使徒17:32)

一部の人々は、「死者の復活のことを聞くと…あざ笑った」とあります。聴衆の中にいたエピクロス派は、人は死ぬと消滅すると考えていましたので、死者の復活は嘲笑の対象だったのでしょう。ギリシャ人は、肉体を悪とし、霊を善とする二元論を基本としていましたので、一度死んで再び肉体にあって生きるということが愚かしく聞こえたのかもしれません。今の時代も同じように、キリストの復活を信じない人が、アテネ人と同様の態度を取ります。しかし、神は無から有を作り出し、生命を創造した方です。キリストの復活を信じることができない人は、天地創造の神を信じてないことが問題の根源にあります。

(2)先延ばしにする(使徒17:32)

ほかの人たちは「そのことについては、もう一度聞くことにしよう」と言い、決断を先延ばしにしました。あるいは、ていねいな拒絶の言葉だったのかもしれません。

(3)受け入れる(使徒17:34)

そのような中で、「ある人々は彼につき従い、信仰に入った。その中には、アレオパゴスの裁判官ディオヌシオ、ダマリスという名の女の人、そのほかの人たちもいた」とあるように、パウロのメッセージを受け入れて信仰に入った人々もいました。

ディオヌシオとダマリス

信仰に入った人々の中には、ディオヌシオとダマリスがいます。ディオヌシオはアレオパゴスの評議員で、高い地位にあった人物であることがわかります。教会教父のクリュソストモス(4世紀中頃~407年)によると、ダマリスはディオヌシオの妻です。

その他の人たち

そのほかにも信じた人々がいました。その中に含まれる可能性があるのが、コリント教会のメンバーであったステファナの一家です。1コリント16:15では次のように言われています。

兄弟たちよ、あなたがたに勧めます。ご存じのとおり、ステファナの一家はアカイアの初穂であり、聖徒たちのために熱心に奉仕してくれました。 

ここでステファナの一家は「アカイアの初穂」と呼ばれています。アカイア地方で最初に救われたのはアテネの人々ですので、ステファナの一家は当時アテネにいたと考えることができます。

アテネ教会のその後

新約聖書ではアテネに教会が設立されたとは書かれていませんが、教会史を紐解くと、アテネに教会が設立されたことは確かです。「教会史の父」と呼ばれるエウセビオス(263年頃~339年)によると、パウロのメッセージで救われたディオヌシオがアテネ教会の初代司教となっています。

また、アテネ教会について、ある注解書では次のように言われており、その後も優れた指導者や殉教者が出た教会として知られていたようです。

次の世紀には、アテネの教会は、キリスト教会にプブリウス、クアドラトゥス、アリステデス、アテナゴラスなどの司教、殉教者を送り出した。3世紀には、教会は平和で純粋であった。4世紀には、アテネのキリスト教学校は、キリスト教会にバジルとグレゴリーを送り出した。

“In the next century that Church at Athens gave to the Christian church Publius, Quadratus, Aristides, Athenagoras, and others, bishops, and martyrs; and in the third century the church there was peaceable and pure. In the fourth century the Christian schools of Athens gave to the Christian Church Basil and Gregory.” ― Morgan, G. Campbell, The Acts of the Apostles (New York: Fleming H. Revell Co., 1924; reprint ed., London: Pickering and Inglis, 1965), p.332 as cited in “Notes on Acts 2024 Edition” by Dr. Constable

まとめ

パウロのアテネへの伝道は、ほかの町と比較して成果が少なかったと言われます。しかし、アテネ教会が何世紀にもわたって地域に福音を届け続けたことを考えると、パウロの宣教は無駄ではありませんでした。

クリスチャン人口1%以下という現状を見ると、日本もほかの国と比べて宣教の成果が少ないように見えるという点でアテネと似ています。また、独自の哲学や宗教が発達し、神のことばを受け入れないという点でも、アテネと似ています。そのような中で、ディオヌシオのような未来の教会指導者の心をとらえたパウロのメッセージには、日本人に福音を伝えようとしている私たちが学ぶものがあるはずです。

次回は、パウロのメッセージ全体の要点をまとめ、現在の日本人伝道にどのように応用していくことができるかを考えます。

参考資料

脚注

  1. ルイス・フロイス著(松田毅一、川崎桃太訳)『完訳フロイス日本史6 ザビエルの来日と初期の布教活動』(中央公論、2000年)p.79

  2. ルイス・フロイス著(松田毅一、川崎桃太訳)『完訳フロイス日本史6 ザビエルの来日と初期の布教活動』(中央公論、2000年)p.79~80

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