日本人に福音をどう伝えるか ― 聖書に記された唯一の異邦人向け伝道メッセージに学ぶ(6)相手の文化の言葉で語りかける(使徒17:28~29)

レオ・フォン・クレンツェによる、アレオパゴス(前景)とアクロポリスの理想化された復元図、1846年。

これまでの記事で、パウロは自分の宣べ伝えている神を次のような方として紹介したことを明らかにしました。

  • アテネ人が「知られない神」として敬っている神
  • 天地創造の神
  • すべての人、すべての民族、すべての国を造った神

神は上記のような方であると語った後、パウロはアテネ人の間でよく知られている言葉を引用して語りかけます。

聖書箇所:使徒17:28~29

28  『私たちは神の中に生き、動き、存在している』のです。あなたがたのうちのある詩人たちも、『私たちもまた、その子孫である』と言ったとおりです。 

29  そのように私たちは神の子孫ですから、神である方を金や銀や石、人間の技術や考えで造ったものと同じであると、考えるべきではありません。 

2つの詩の引用(使徒17:28)

パウロは直前の文脈(使徒17:26~27)で、神は「一人の人からあらゆる民を造り出した」方で(26節)、「私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません」(27節)と語っています。28節に引用されている2つの詩は、それを裏付ける内容になっています。

(1)エピメニデスの詩の引用(使徒17:28a)

最初に引用されている「私たちは神の中に生き、動き、存在している」という言葉を語ったのは、クレタ人のエピメニデス(生没年不詳、紀元前6~7世紀頃)です。エピメニデスは、使徒17:23で言及されている「知られていない神へ」と書かれた祭壇にまつわる故事に登場する人物です(「日本人に福音をどう伝えるか ― 聖書に記された唯一の異邦人向け伝道メッセージに学ぶ(3)『知られていない神』を紹介する(使徒17:23)」を参照)。

エピメニデスの詩の全体を引用すると以下のようになります。この詩は、エピメニデスの同国人であるクレタ人について語ったもので、ギリシャの最高神ゼウスにささげられています。

彼ら(訳注:クレタ人)はあなたのために墓を設けた。聖なる方、いと高き方よ。

クレタ人はいつも嘘つき、悪い獣、怠け者の大食漢。

しかし、あなたは死んではいない。あなたは永遠に生き、存在し続ける。

なぜなら、私たちはあなたの中に生き、動き、存在しているのだから。

They fashioned a tomb for thee, O holy and high one—

The Cretans, always liars, evil beasts, idle bellies!

But thou art not dead: though livest and abidest for ever,

For in thee we live and move and have our being.

― Richard N. Longenecker, The Expositor’s Bible Commentary: Acts (Kindly Edition; Grand Rapids, MI: Zondervan, 2007)

パウロは、エピメニデスの「私たちは神の中に生き、動き、存在している」という言葉を引用することで、神は全地に遍在しておられる方であると語っています。これは使徒17:27の「確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません」という言葉を裏付けるものです。この引用は、「神々は人間に関心を持ったり干渉したりしない」と主張するエピクロス派に対する反論にもなっています。このように、パウロはアテネ人がよく知っている言葉を使って、真の神に関する真理を教えています。

MEMO
このエピメニデスの詩は、テトス1:12でも引用されています。

12  クレタ人のうちの一人、彼ら自身の預言者が言いました。「クレタ人はいつも嘘つき、悪い獣、怠け者の大食漢。」 

この聖句では、上記の詩の2行目が引用されています。

パウロがエピメニデスを「預言者」と呼んでいる点は注目に値します。これはパウロがエピメニデスをイザヤやエレミヤのような神の預言者として認めているという意味ではありません。「彼ら自身の預言者」と言われていることからわかるように、クレタ人にとっての預言者という意味です。そのような相手が権威を認めている人物の発言を引用して、パウロは自分の主張を裏付けようとしています。これと同じことが、使徒17:28でも行われています。

(2)アラトスの詩の引用(使徒17:28b)

2つ目に引用されている「私たちもまた、その子孫である」という言葉は、ソロイのアラトス(紀元前315~240年)が書いた詩の一部です。アラトスは、古代ギリシアのマケドニアで活躍した詩人です。同様の言葉は、ストア派二代目の指導者であるアソスのクレアンテス(紀元前331年頃~前232年頃)も語っていますが、ここではアラトスの言葉として解説します。アラトスは、この言葉を次のような文脈で語っています。

まずゼウスから考えてみよう。私たち死ぬべき人間は、ゼウスについて語らずにはいられない。あらゆる街路、あらゆる市場は、ゼウスで満ちている。海や港でさえも、ゼウスの神性に満ちている。どこにいても、すべての人がゼウスに対して恩義がある。なぜなら、私たちは確かに彼の子孫なのだから

Let us begin with Zeus (the Greeks believed Zeus was the top god), whom we mortals never leave unspoken. For every street , every market-place is filled with Zeus. Even the sea and the harbors are full of his deity. Everywhere, everyone is indebted to Zeus. For we are indeed his offspring.

― John Argubright, Bible Believer’s Archaeology – Volume 3 – Behold the Man! (2013) Kindle版

先ほどのエピメニデスの引用と同様に、この詩もゼウスに関するものです。ただ、エピメニデスとアラトスが「ゼウス」と呼ぶ神は、全地に遍在する天地創造の神です。「私たちは確かに彼の子孫なのだから(私たちもまた、その子孫である)」と言われているように、人類を造り出した神でもあります。パウロがこの2人の詩人を引用したのは、おそらくそのためです。つまり、この2つの詩ではゼウスの名前が使われているが、天地を創造された全知全能の神について語っているためです。さらにパウロは、相手の文化で知られている言葉を引用しながらも、ゼウスに言及した箇所は省いて、聖書に一致する範囲で引用しています。この方法で、パウロはシンクレティズム(混交宗教)に陥る危険性を回避しています。

なぜパウロは2人の詩を引用したのか

昔は、この2つの詩の引用を読むときに「パウロはなぜ聖書ではなく、出所もよくわからない詩を引用したのだろうか」と思っていました。しかし、パウロは明らかに出所を知った上で、(私が知らなくても)アテネ人がよく知っていた言葉なので引用しています。それによって、自分が宣べ伝えているのは外国の神ではなく、アテネ人も実は知っている天地創造の神であることを示そうとしたことがわかります。この2つの引用は、「彼は他国の神々の宣伝者のようだ」(使徒17:18)というアテネ人のパウロに対する批判への反論にもなっています。

このアテネ人に向けたメッセージの中で、パウロは聖書の教えを語っていますが、実際に引用はしていません。その代わりにこの節で、ギリシャ世界でよく知られていた詩人・思想家の言葉を引用しています。ここが、使徒ペテロがペンテコステの日に語ったメッセージ(使徒2:14~36)と大きく違う点です。ペンテコステの日のメッセージでは、ペテロは旧約聖書から何度も引用しています。これは、ペテロもパウロも、語りかけている相手と共通の土台に立って話を進めようとしているためです。ペテロは聖書を知っているユダヤ人、パウロは聖書を知らないアテネ人(異邦人)に語りかけているので、このような違いが生じているのです。どちらも聖書が語っている真理を教えているのは同じですが、アプローチが違います。この点について、パウロは1コリント9:20~22で次のように語っています。

20  ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人たちには──私自身は律法の下にはいませんが──律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。 21  律法を持たない人たちには──私自身は神の律法を持たない者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。律法を持たない人たちを獲得するためです。 22  弱い人たちには、弱い者になりました。弱い人たちを獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。 

この聖句では、相手と同じ共通の土台に立って福音を伝えることの重要性が強調されています。ペテロもパウロも、メッセージの形式は違っていますが同じ原則の上に立って語っています。

偶像礼拝に対する戒め(使徒17:29)

相手と共通の土台の上に立って語った直後の29節で、パウロはアテネ人の偶像礼拝を戒め、「そのように私たちは神の子孫ですから、神である方を金や銀や石、人間の技術や考えで造ったものと同じであると、考えるべきではありません」と語っています。相手に理解できる言葉で語りかけ、相手と同じ土台に立った上で、パウロはいよいよ本題に入っていきます。

使徒17:27で言われていたように、人間は神を求めるように造られています。しかし、人間には、目に見えない真の神を礼拝する代わりに、偶像を造り、偶像を礼拝の対象とする傾向があります。このことは、神のみこころに反する罪であることをパウロはここで明らかにしています。

ソロモン王は、真の神のためにエルサレム神殿を建立しましたが、次のように語っています。

27  それにしても、神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。(1列王記8:27) 

ソロモンは、神殿自体が礼拝の対象になることを回避するため、上記のように語った可能性があります。

パウロも次のように語っています。

19  私は何を言おうとしているのでしょうか。偶像に献げた肉に何か意味があるとか、偶像に何か意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。 20  むしろ、彼らが献げる物は、神にではなくて悪霊に献げられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。(1コリント10:19~20)

人には、本来宗教心があり、神を求める心があるのですが、多くの場合、間違ったものを信仰の対象としています。これが人間の第一の罪であることをパウロは明らかにしています。

日本への適用

日本人に「イエス・キリストがあなたを救ってくださる」と言っても、たいていの人がキリストを外国の神と考えて、自分とは関係ないと思います。パウロも、アテネで宣教していた時に「彼は他国の神々の宣伝者のようだ」と言われていました。

そのため、パウロは最初に、自分が宣べ伝えている神は天地創造の神であり、あなた自身とあなたの国をも造った方であるという話から始めています。自分が宣べ伝えている神は、すべての人と国の創造主であるので、あなた方にも直接関係のある方だという論法です。この論法は日本人にも適用できます。

今回検討した使徒17:28~29は、この点を理解してもらうために、相手がよく知っている言葉を引用して主張を裏付けるというものでした。そのような文脈で日本人に引用できる言葉はいくつかあると思いますが、以下ではその一例を考えてみたいと思います。

日本人の神概念

日本人に天地創造の神を伝えるとき、難しさを感じることがあります。ギリシャ人の場合は、全知全能の神とされている最高神のゼウスがいます。一方、日本の神概念では全知全能の神という考え方が希薄であるためです。天照大神は、太陽神とされますが、天皇家の祖先とされる「皇祖神」でもあり、全知全能の神というイメージはありません。

これは天照大神に限らず、日本の「神」と呼ばれるものすべてに言えることです。そのような感覚を裏付けるように、国学者の本居宣長(1730~1801年)は「神(迦微)」を次のように定義しています。

凡(すべ)て迦微(かみ)とは古御典等(いにしえのみふみども)に見えたる天地の諸(もろもろ)の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊(みたま)をも申し、又人はさらにも云(い)はず、鳥獣(とりけもの)木草のたぐひ海山など、其与(そのほか)何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物を迦微とは云なり。…

― 島田 裕巳「実は善人とは限らない「日本の神様」驚きの正体」(東洋経済)

これに対し、宗教学者の島田裕巳は次のように解説しています。

宣長はここで、「迦微(かみ)」という表現を使っているが、神話に登場する神々をはじめ、各地にある神社に祀(まつ)られている祭神、さらには、人だけではなく、鳥獣、木草、海山なども、それが通常のものよりすぐれていれば神であるとしている。

― 島田 裕巳「実は善人とは限らない「日本の神様」驚きの正体」(東洋経済)

本居宣長の定義では、「通常のものよりすぐれていれば神」であるので、クリスチャンからすると軽々しく使われているように感じる「神業」とか「神対応」といった言葉も、宣長的には正しい用法ということになります。歴史的に、日本で一神教の神を「神」と呼ぶ文化は、聖書の日本語訳でヘブル語の「エロヒム」、ギリシャ語の「セオス」を「神」と訳して以降に形成されていったもののように思います。

実際に、戦国時代にキリスト教を宣教したイエズス会は、聖書の神を「神」とは訳しませんでした。来日当初は「大日(大日如来)」という訳語を使い、それだと大日如来への信仰と区別が付かなくなると気付いてからは、ラテン語/ポルトガル語の「デウス」という言葉を使っています。

MEMO
真の神を指す「エロヒム」「セオス」を「神」と訳したことは不適切だったという主張もあります。『創造主聖書』を刊行した堀越暢治牧師は、神主の息子で、神という言葉を聖書の神に使用することに違和感を感じ続けていたと言います。そのため、聖書で真の神を指す場合は、神の代わりに「創造主」という訳語を使った『創造主聖書』を刊行するに至っています。筆者自身は神という訳語を今さら変更する必要はないという考えですが、堀越氏の考えにも共感するところがあります。

「天」という概念

聖書の神は、天地を創造した唯一の神であるので、日本人にとってもまったく知らない方ではありません。

福沢諭吉は「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と語りました。この言葉からわかることは、「天」という言葉は、ただの空を意味するのではなく、人格を持った創造主を指しています。日本人も、天地の創造主を心の奥底では知っています。そのため、福沢諭吉の言葉が解説なしに理解できるのです。

パウロは、使徒14:16~17でリステラという町の異邦人に次のように語っています。

16  神は、過ぎ去った時代には、あらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むままにしておられました。 17  それでも、ご自分を証ししないでおられたのではありません。あなたがたに天からの雨と実りの季節を与え、食物と喜びであなたがたの心を満たすなど、恵みを施しておられたのです。」 

「天恵」という言葉があることからわかるように、日本人はリステラの人々と同様に、天地創造の神の恵みを体験的に知っています。パウロがアテネ人に語ったように、クリスチャンが日本人に伝道する時、実は日本人が心の底ではすでに知っているが、名前は知らない「知られない神」を紹介しているのです。

日本語の「天」という言葉は、「空(そら)」だけではなく、人格を持った「創造主」を意味することがあります。この「天」は、福沢諭吉の言葉にもあるように「信仰の対象としての天。運命。造物主。神」を意味しています(デジタル大辞泉「」)。この定義中の「造物主(ぞうぶつしゅ)」とは、すべての被造物を造られた「創造主」のことです。

「天」という思想は中国から伝わったものですが、福沢諭吉の言葉でもわかるように、日本でも広く浸透しています。この「天」を庶民向けにした言葉が「お天道様」です。

「お天道様」という言葉

福沢諭吉は、息子たちに「ひゞのをしへ(日々の教え)」という家訓を書き残しています。以下に引用します(原文は基本的に仮名書きですが、わかりやすくするために適宜漢字やカタカナにしています。以下同様)。

世の中に父母ほど良きものはなし。父母より親切なるものはなし。父母の長く生きて丈夫なるは、子供の願うところなれども、今日は生きて、明日は死ぬるもわからず。父母の生き死には、ゴッドの心にあり。ゴッドは父母をこしらえ、ゴッドは父母を生かし、また父母を死なせることもあるべし。天地万物なにもかも、ゴッドのつくらざるものなし。子供の時より、ゴッドのありがたきを知り、ゴッドの心に従ふべきものなり。― 『福沢諭吉選集』〈第3巻〉(岩波書店)収録の「ひゞのをしへ」

福沢諭吉はこの家訓で、天地万物を造った「ゴッド(God)」の存在を教えています。福沢諭吉はクリスチャンではありませんが、聖書の教えに共感するものがあったと見られます。天地創造の神(ゴッド)の存在を息子たちに教えているためです。

また福沢は、この家訓の続編である「ひゞのをしへ 二へん」では、「ゴッド」という言葉の代わりに「天道様」という言葉を使って子どもたちを諭しています。

天道様の掟と申すは、昔々その昔より、今日のいまにいたるまで、少しも間違いあることなし。麦を蒔けば麦が生え、豆を蒔けば豆が生え、木の船は浮き、土の船は沈む。決まり切ったることなれば、人もこれを不思議と思わず。されば、いま、良きことをすれば、良きことが報い、悪ろきことをすれば、悪ろきことが報ふも、これまた天道様の掟にて、昔の世から、間違ひしことなし。しかるに、天道知らずの馬鹿者が、目の前の欲に迷ふて、の掟を畏れず、悪事を働いて、幸いを求めんとする者あり。こは、土の船に乗りて、海を渡らんとするに同じ。こんなことで、天道様が欺さるべきや。悪事を蒔けば悪事が生えるぞ。壁に耳あり、ふすまに目あり。悪事をなして、罪を逃れんとするなかれ。― 『福沢諭吉選集』〈第3巻〉(岩波書店)

この文では、「ゴッド」の代わりに「天道様」と言い、同時に「天」と入れ替え可能な言葉としても使っています。そして、その言葉を次のように定義しています。

天道様を畏れ、これを敬い、その心に従うべし。ただしここに言う天道様とは、日輪(訳注:太陽)のことにはあらず、西洋の言葉にてゴッドと言い、日本の言葉に翻訳すれば、造物者というものなり。― 『福沢諭吉選集』〈第3巻〉(岩波書店)

ここで福沢は「天道様」のことを「ゴッド」と同じものと言い、「造物者」とも呼んでいます。日本では「お天道様が見ているから、悪いことはできない」というような考え方がありますが、福沢はこの「お天道様」を創造主と定義しています。その上で、「天道様を畏れ、これを敬い、その心に従うべし」と教えているのです。

福沢諭吉がクリスチャンになったという記録はありません。しかし、福沢家では長男の太一郎、三女の俊(とし)、四女の滝がクリスチャンになっています。この家訓の影響は小さくないように思います。また、福沢の姉である中上川婉(えん)、服部鐘も、熱心なクリスチャンになっています(白井堯子『福沢諭吉と宣教師たち:知られざる明治期の日英関係(慶應義塾福沢研究センター叢書)」(未来社、1999年)参照)。

日本人へのアプローチ

ここでは「天」「お天道様」という言葉を使って、聖書の教える天地創造の神をより正確に伝えることができる可能性を提示しました。ただし、これはあくまでも一例であって、ほかにも方法はあると思います。

また、先述の通り、ヘブル語の「エロヒム」、ギリシャ語の「セオス」の訳語を「神」とすることはすでに定着しているので、訳語を変更する必要はないと考えます。上記の提案は、あくまでも日本人に福音を伝える際の一助として考えていただければと思います。

パウロがアテネ人に「あらゆる点で宗教心にあつい方々だと、私は見ております」と語りかけ、最初に偶像礼拝という罪に焦点を当てる代わりに、アテネ人の宗教心に訴えかけた方法は学ぶべきところがあります。日本人は、子どもが生まれれば宮参りをし、葬式では仏僧を呼び、結婚式ではキリスト教の牧師を呼んで、人生の重要なイベントでは宗教心を発揮しています。この宗教心が偶像礼拝という間違った方向に向かうことが問題であって、宗教心自体は真の神への信仰に向かわせる原動力にもなるものです。そのような宗教心に聖書の教えを通して真の神に導くことが、クリスチャンに与えられた使命ではないでしょうか。

まとめ

クリスチャンは、パウロのように、自分が宣べ伝えているのは外国の神ではなく、すべての人と国を造られた天地創造の神であることを伝える必要があります。そのためには、相手の国や文化でよく知られている人物の言葉を使って伝えるというのが、パウロの方法でした。

そのため、日本でも、クリスチャンは外国の神を信じているのではなく、日本人も「天」や「お天道様」と呼んでいた「天地創造の神」を礼拝しているのであって、その神が二千年前にイエス・キリストとしてご自分を啓示されたという順序で福音を語ることが有効であるように思います。

日本のキリスト教は、シンクレティズムを警戒するあまりか、日本の宗教的概念をキリスト教とまったく無縁のものと考えがちです。しかし、まだキリストを信じていない日本人の中にも、天地創造の神を求める心を持っている人がいます。自然、良心、歴史を通した神の啓示である「一般啓示」に応答している人がいるためです(一般啓示と特別啓示については、「日本人に福音をどう伝えるか ― パウロが語った唯一の異邦人向けメッセージに学ぶ(4)天地創造の神を宣べ伝える(使徒17:24~25)」を参照)。

また、異教徒の中にも、エピメニデスやアラトス、福澤諭吉のように、天地創造の神の存在を証ししている人がいます。それは、聖書で「神は、過ぎ去った時代には、あらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むままにしておられました。それでも、ご自分を証ししないでおられたのではありません」(使徒14:16~17)と言われているためです。どの国にも天地創造の神の存在を証しする人がいます。このような人物の言葉を借りて、聖書を知らない民に福音を伝えるモデルをパウロはアテネ人宣教で示してくれています。

参考資料

  • Arnold G. Fruchtenbaum, Ariel’s Bible Commentary: The Book of Acts (Ariel Ministries, 2020)
  • Thomas L. Constable, “Notes on Acts 2024 Edition”
  • What does Acts 17:29 mean?,” BibleRef

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