これまでの記事で、パウロは自分の宣べ伝えている神を次のように語ったことを明らかにしました。
- アテネ人が「知られない神」として敬っている神
- 天地創造の神
次にパウロは、自分の宣べ伝えている神をどのような方として紹介するのでしょうか。
> 聖書箇所:使徒17:26~27聖書箇所:使徒17:26~27
26 神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。 27 それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。
> 神が一人の人からすべての人、すべての民族、すべての国家を造り出した(使徒17:26)神が一人の人からすべての人、すべての民族、すべての国家を造り出した(使徒17:26)
26節でパウロは、「神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました」と語っています。これはパウロが語っている福音の性質を理解する上できわめて重要な言葉です。この言葉から、次のことがわかります。
- 神は一人の人からすべての人を造り出した。
- 神はすべての民族を造り出した。
- 神はすべての国家を造り出した。
以下に一つひとつ見ていきます。
1. 神は一人の人からすべての人を造り出した
26節の「一人の人」とは、アダムのことです。ここでパウロは、アダムから全人類が出てきたという創世記の教えを再確認しています。この教えから、次のことが指摘できます。
(1)人類は一つ
一人の人から全人類が出てきたのであれば、人類は一つであり、人種も一つということです。
(2)人類の神はただひとり
人類の創造主はおひとりだけです。そのため、創造主である神は、すべての人の神です。
(3)自然発生説を否定
アテネ人は、自分たちが「アッティカの土から生まれた」と信じていました。アッティカとは、古代ギリシャ文明の発祥の地で、その中心がアテネです。アッティカの初代の王であるケクロプスは、アッティカの大地から生まれ、下半身は蛇の姿をしていたというのが、当時のアテネ人が信じていた伝説です。この伝説はアテネ人にとって重要で、自分たちのアイデンティティにもなっていました。パウロはそのような神話をここで全否定しています。1
2. 神がすべての民族を造り出した
次にパウロは、26節前半で「神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせた」と語っています。この「民」はギリシャ語では「エスノス」で、「民族」を意味します。つまり、すべての民族は神が造り出したものだという意味です。そのため、日本民族も、神に造られた民ということになります。ここでわかることは、人類の中に人種は存在しないが、ユダヤ民族、日本民族といった民族の区別は存在するということです。
救いは一つ
以上のことから、救いの方法は一つであることがわかります。もし神が民族ごとに異なるなら、アテネ人にはアテネ人の神があり、ユダヤ人にはユダヤ人の神があり、日本人には日本人の神がある、という考えが成り立ちます。その場合、それぞれの神に応じて、それぞれ異なる救いの道があると考えることもできるでしょう。しかし、すべての世界を唯一の創造主がお造りになったのであれば、そのような多神論的な世界観は成り立ちません。神がおひとりであるなら、人間が最終的に向き合うべき方もおひとりです。
聖書は「【主】は私たちの神。【主】は唯一である」と語り(申命記6:4)、「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない」と宣言しています(イザヤ45:22)。聖書は、多くの神々がいるという世界観に基づく「多神論メガネ」を外すようにと教えているのです。
3. 神がすべての国家を造り出した
民族だけでなく、民族を中心とする国家を造り出したのも神です。26節後半で「それぞれ(の民族)に決められた時代と、住まいの境をお定めになりました」と言われているとおりです。民族の「住まいの境」とは、国境にほかなりません。また、「それぞれに決められた時代…をお定めになりました」とは、それぞれの国が栄える時代も神に定められているということです。つまり、さまざまな国が存在することも、国がある時代に栄えてやがて消えていくことも、神の定めによるということになります。
グローバリズムとナショナリズムに対する聖書的視点
少し話がそれますが、創世記11章と使徒17:26の記述から、聖書はグローバリズムとナショナリズムに関して何を語っているのかについても知ることができます。
メソポタミヤ地方でバベルの塔を建てていた当時の人類は、一つの民で、世界統一国家を形成していました(創世記11:6)。いわば究極的なグローバリズムが実現している国家がそこにありました。この世界統一国家の言語を混乱させ、人々を全世界に散らしてさまざまな国家を造り出したのは、神ご自身です。
つまり、世界を一つにして世界統一政府を目指すようなグローバリズムは、すでにバベルの塔で神に退けられていることがわかります。一方、自分の国や民族を大切にするナショナリズムには、聖書的な根拠があります。国や民族という枠組みは神が造られたものだからです。現代の日本にはナショナリズムを否定的にとらえる傾向がありますが、ナショナリズム自体は悪いことでも、聖書に反することでもありません。
しかし、ナショナリズムには、偏狭な民族優越主義的なものもあります。聖書はそのようなナショナリズムを支持していません。聖書的なナショナリズムがどのようなものかは、次の27節を読むと見えてきます。
> 人類、民族、 国の存在目的(使徒17:27前半)人類、民族、 国の存在目的(使徒17:27前半)
パウロは27節の前半で次のように語っています。
それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。…(27節前半)
パウロは、すべての人が造られたのは「神を求めさせるため」と教えています。人は、神を求め、神と共に生きるために造られたのです。
それは民族や国も同じです。さまざまな民族や国が造られたのも、「神を求めさせるため」であるとパウロは語っています。普通に考えると、世界が一つの国で、同じ言語が通じれば、同じ神を求めやすいように思います。また、福音の伝達も早いでしょう。しかし、神は回り道に見えるような手段をとって、世界にさまざまな民族と国を造られ、人がそれぞれの文化の中で神を求めるようにされたのです。
神がそのような方法をとられた理由は、ここでは明らかにされていません。そのため、ここは少し考察が必要になります。
なぜ神はさまざまな民族や国家を造られたのか
なぜ神は人に「神を求めさせる」ためにさまざまな民族や国家を造ったのかは、難しい問題です。聖書に明快な答えが書かれていないためです。ただ、歴史を振り返ると、なぜそうする必要があったのかが少しずつ見えてきます。
(1)宗教的自由のため
歴史を紐解くと、神が世界を諸民族、諸国家に分けられたのは、サタンが「この世の神」(2コリント4:4)として君臨している世界のリアリズムに基づく判断であったことがわかります。
マルティン・ルターは、カトリック教会に対して「95ヶ条の論題」を提示し、カトリック教会と神聖ローマ帝国から迫害されました。このルターをかくまったのが、ドイツの有力諸侯であるザクセン公国のフリードリヒ3世です。カトリック教会や神聖ローマ帝国の主権が及ばない国で、ルターは宗教的迫害を逃れました。また、英国のピューリタン(清教徒)は、英国国教会の迫害を逃れ、メイフラワー号でアメリカ大陸に渡りました。最近でも、アフガニスタンをタリバンが掌握した後、クリスチャンを含むアフガニスタンの宗教的少数者12万人が、米国などに逃れています2。こうしたことは、独立した国家や地域が複数存在していることで可能になったことです。
終末預言では、反キリストが君臨する世界統一政府が完成した時に、史上最悪の宗教的迫害が起こることが預言されています(黙示録13:15~18)。信教の自由を求めて逃れる先がないことが、徹底的な迫害が可能になる理由の一つです。この預言を考えても、世界にそれぞれ独立した国が存在していることの重要性がわかります。
このように見てくると、聖書的なナショナリズムとは、国民が神を求めることを助けるものであるべきだということがわかります。そのため、国として信教の自由を保証する必要があります。また、クリスチャンが自国民の救いのために祈り求めることも重要だということがわかります。
(2)宣教を進めるため
国家の栄枯盛衰は、宣教と関係しています。世界史を振り返ると、特定の国が繁栄することで宣教が広がっていった事実があります。
たとえば、スペイン、ポルトガルの領土が世界に広がった時代に、イエズス会などの宣教師が数多く派遣されました。日本ではよく「宣教師は植民地支配のための先兵だった」と言われますが、このような見方は一面的です。こうした列強諸国が植民地を搾取したというのは事実ですが、宣教師が本国政府と対立することも多かったためです。実際に、スペイン政府はイエズス会を迫害し、スペインの支配地域でイエズス会宣教師の追放令を出したこともあります。カトリックであるイエズス会の教えには非聖書的な教えが含まれていますが、戦国時代のキリシタンのように、この時代の宣教によってキリスト教に触れて真の神を知った人がいたことも否定できません。
スペイン、ポルトガルの次に版図を全世界に広げた英国も、インドへの宣教師となったウィリアム・ケリーや、中国への宣教師となったハドソン・テーラーなど、数多くの宣教師を輩出しています。英国の次に世界の覇権を握った米国は、世界に最も多くの宣教師を送り出す国になりました。こうした宣教師によって、多くの人が真の神を知り、救いに導かれました。筆者もそのうちの一人です。
(3)それぞれの文化を用いて人を神に導くため
この3つ目が、日本人宣教を考える上で最も重要になります。
使徒17:26によると、神は一人の人からあらゆる民を造り出し、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界を定められました。これは、人がどの時代、どの国、どの民族の中に生まれるかは偶然ではなく、神の摂理によって定められていることを示しています。そして、そのようにしたのは「神を求めさせるため」(使徒17:27)と言われています。つまり、人がその国のその時代に生まれたことは、神を求めることと関係しています。人は、その国のその時代の文化の中で、神を求めるように召されているのです。
この説明は長くなるので、新しいセクションを立てて見ていきてます。
> 異邦人文化での伝道異邦人文化での伝道
(1)「養育係」としての文化
パウロはガラテヤ人への手紙で、次のように語っています。
…律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。(ガラテヤ3:24)
ここで語られているのは、イスラエルに与えられたモーセの律法です。律法は罪を明らかにし、人間が行いによって神の前に義とされることはできないことを示し、最終的にキリストの救いが必要だと気づかせる役割を果たしました。その意味で、律法はユダヤ人をキリストへ導く「養育係」となりました。
では、異邦人にとって、律法に相当するものはまったくなかったのでしょうか。聖書は、異邦人にも良心があり、それぞれの文化に道徳や規範があることを示しています(ローマ2:14~15)。もちろん、それはモーセの律法のように神から直接与えられた特別啓示ではありません。しかし、神はそれぞれの人を特定の民族と時代に置き、その文化の中で、人々が神を求めるように導いておられます。これが、使徒17:26~27aが意味していることです。
文化そのものが人を救うのではありませんが、それぞれの文化の中にある道徳や規範が、福音を受け入れるための準備として用いられます。人は、自分の文化で正しいとされることを追い求めれば追い求めるほど、自分の限界に気付かされます。また、自分の文化で信じられている宗教や教えを追求すれば追求するほど、その宗教や教えの限界にぶつかることになります。
たとえば、日本の明治・大正期のキリスト教界を代表する一人である内村鑑三は、次のように書き記しています。
私たちは、人生のたいていの問題を武士道によって解決することができます。正直であること、高潔であること、寛大であること、約束を守ること、借金をしないこと、逃げる敵を追い討ちしないこと、人が困難に陥るのを見て喜ばないこと ― これらのことについては、わざわざキリスト教に頼る必要はありません。私たちは、先祖から受け継いできた武士道によって、これらの問題を正しく判断することができるのです。
しかし、神の義について、未来の審判について、そしてそれにどう備えるべきかについては、武士道は何も教えてくれません。私たちがこれらの重要な問題に直面するとき、キリスト教の教えを仰がざるを得ないのです。(注:原文の文語体を現代文にしています)3
使徒17:27bでは、「もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう」と言われています。これは、人がそれぞれの文化や歴史の中で、神を「手探りで求める」ことも、神の計画にあることを示しています。その結果、神を見出して救われる人が起こされるのです。
(2)「贖いの比喩(redemtive analogy)」
宣教学では、「贖いの比喩(redemtive analogy)」と呼ばれる概念があります。「贖いの比喩」とは、ある文化の中で、福音の真理を説明するのに役立つたとえのことです。
ある民族の文化、習慣、言い伝え、価値観の中に、福音を理解するための手がかりとなる要素がある場合があります。それは、その文化全体を肯定するという意味ではありません。また、その文化によって人が救われるという意味でもありません。むしろ、神がその文化の一部を用いて、人々がキリストの福音を理解しやすくなるように備えておられる、ということです。文化の中にある考え方や言い伝えが福音を受け入れる際のカギとなるのです。
たとえば、インドネシアのサウィ族への宣教師ドン・リチャードソンが見出した「平和の子」という贖いの比喩があります。サウィ族には、敵対する部族との和解のため、自分の子を相手に差し出し、その子が生きている限り平和を保つという慣習がありました。リチャードソンがこの概念を用いて、神が罪人との和解のために御子キリストを与えられたことを説明したところ、多くの村人がキリストを信じるようになったという事例があります。
また、ビルマ(現ミャンマー)のカレン族には「先祖が失った本をいつか白人が持ってきてくれる」という言い伝えがありました。そして、実際に米国人の宣教師がカレン族に聖書をもたらした結果、福音を受け入れる人が次々に起こされたという事例があります。
こうした例ほどわかりやすくはありませんが、福音を受け入れる側の文化の中に、福音を受け入れる素地となる考え方や言い伝えがあったということは、それほどめずらしいことではありません。
(3)神は不公平な方ではない
以上のことは、神は不公平な方ではないことも示しています。神は、ある民族だけに救いを与え、他の民族を救いのない環境に放置されたのではありません。キリスト教国に生まれなかった人々であっても、神を探し求めている人々には、神の摂理によって真の神を知る機会が与えられているということです。このことを保証しているのが、次のみことばです。
> 神は一人ひとりの近くにおられる(使徒17:27c)神は一人ひとりの近くにおられる(使徒17:27c)
27節の最後に、パウロは次のように語っています。
…確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。(27節c)
この言葉は、神が人間界から遠く離れたところにいて、人間に関心を持たず、干渉もしない存在であるという考え方を正す言葉です。パウロが語っていた相手の中には、エピクロス派の哲学者たちがいました。エピクロス派は、神々の存在を認めながらも、神々が人間の営みに深く関わることはないと考えていました。現代でも、神の存在は認めるが、神が人間界に干渉することはないという「理神論」に立つ人々がいます。パウロの言葉は、エピクロス派や理神論的な神理解を退け、創造主なる神が一人ひとりの側にいて、ご自分を求める人には答えてくださる方であることを明らかにしています。
この言葉は、神は米国のような「クリスチャン国」と呼ばれる国だけでなく、すべての国の国民一人ひとりのそばにおられる方であることを示しています。
たとえば、今イランなどのイスラム教国で、大量のイスラム教徒がキリスト教に回心するという現象が起きています。厳格なイスラム教国では、イスラム教を捨てて改宗することは禁忌であり、迫害はもちろん、死を覚悟しないといけない場合もあります。このような国でキリスト教への回心が起きている大きな原因の一つは、「夢と幻」です。イスラム教徒が夢の中でイエスと出会い、福音を伝えてくれるクリスチャンや宣教師に導かれるといった現象がよくあるのです。イスラム教圏への宣教師トム・ドイルは、「あくまでも推計ですが、キリストを信じるようになったイスラム教徒のうち3人に1人は、イエスの夢や幻を見た経験があります4」と語っています。
トム・ドイルは、預言者ムハンマドがイスラム教を始めたのが夢で受けた啓示であったので、イスラム教徒にとって夢は神のコミュニケーション方法として広く認知されている考え方であるとし、次のように語っています。
……(断食月)ラマダンの最後の週には、特別な夜があります。……それは「力の夜」あるいは「運命の夜」と呼ばれており、イスラム教徒たちは「神よ、もしあなたがおられるなら、ご自身を私に示してください。夢や幻の中で私のところに来てください」と呼び求めるのです。イスラム教徒がイエスについての夢を見るのが一年で最も多い日が、この日なのです。5
“And also, the last week in Ramadan, they have a night. … It’s called the night of power or the night of destiny, and Muslims will cry out, ‘God, if you’re there, show me yourself. Come to me in a dream, in a vision,’” Doyle says. “That’s the number one day of the year that Muslims have dreams about Jesus.”
神は、イスラム教徒であっても、心から神を求める者には救いの道を示してくださいます。このように、神は私たちの近くにいて、ご自身を啓示してくださる方なのです。
> 福音の普遍性福音の普遍性
使徒17:26~27は、福音の普遍性を明らかにしています。
ここまでのパウロの議論の流れを追うと、次のようになります。
- パウロは、自分が宣べ伝えている神はギリシャ人もすでに知っている「知られない神」であり、外国の神ではないことを指摘しました(使徒17:23)。
- パウロは、自分が宣べ伝えている神は世界を創造した「天地創造の神」であり、数ある神々の中の一人ではなく、唯一の神であることを明らかにしました(使徒17:24~25)。
- パウロは、自分が宣べ伝えている神は全人類、全民族、全国民の神であることを宣言しています(使徒17:26~27)。
以上の点は、日本人宣教と深く関係しています。福音による救いはすべての人のためのものであり、そこには日本人も含まれていることを明らかにしているためです。
> 日本への適用日本への適用
この聖句の日本人にとっての意味
この記事で取り上げた使徒17:26~27では、「すべての民族と国は神が造り出したもの」と言われています。日本人宣教を考える上で重要な点は、日本人という民族も、日本という国も、神が造られたものであるということです。そのため、キリストを信じる日本人は、日本固有の神や先祖を裏切って外国の神を信じたのではなく、日本民族と日本という国を造ってくださった神を信じ、本当の意味での先祖の神に立ち返ったのです。これは日本人だけでなく、あらゆる民族に言えることです。
日本宣教との関係
「もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません」という使徒17:27のみことばは、日本でも成就しています。
戦国時代
戦国時代に、スペインやポルトガルの船が日本に来航し、イエズス会の宣教が始まりました。この宣教師を通して真の神にたどり着いた日本人の一人に、山田ショウ左衛門という武士がいます。宣教師フロイスは、この人物について次のように語っています。
一人は小池豊後守、他は山田のショウ左衛門と称した。後者は高貴の出であるばかりでなく、日本の諸宗派にはなはだ精通している点では国内でも希有の人物であり、それら宗派の一つの中に心の平安を見出したいと切に望んでいた。6
山田ショウ左衛門は、天台宗→浄土宗→真言宗→神道→禅宗と、さまざまな宗教を渡り歩いていた人でした。フロイスの記述を読むと、この人が真理を求めてさまよい歩いていたということがわかります。以下は、山田ショウ左衛門がキリストを信じた経緯です。
ショウ左衛門はこの宗派(注:禅宗)に耽溺し、これに勝るものは何ものもありえないと確信しているようであった。彼は都に赴き、そこで天竺(注:インド)から来た伴天連(注:宣教師)が、日本の全宗派を一つの例外もなく論破しているという話を聞くと、実に馬鹿馬鹿しいことだ、自分のような識者の間では問題にするに足りないことだと考えた。そこで伴天連をからかい、わずかばかりの言葉でもって彼を説き伏せようと、一人の従者も連れず、ただ仲間の備後殿を伴っただけで、変装して教会に赴くことに決めた。…彼は都のわれらの教会に来ると、誰か説教をする方はおらぬか。我ら二人は遠方から参った者で、説教を承りたいのだ、と言った。…
そこでロレンソ修道士は次のように答えた。「…すなわちデウスは、始めも終わりもなく、無限の能力と知恵と善を具備した最高の本質の完全なるものなのである。…デウスこそは、最高の神的存在であり、それを見奉り、その永遠の至福を享受するためにこそ、私たちいっさいのものが創造されているのです」と。
ショウ左衛門はこの説を聞いて非常な喜びと満足を示し、いかなる答弁にも先んじて、突然、紙と墨をもらいたい、と言った。修道士には、彼は聞いたことどもを要約しておくのだろうと思えたが、実は、そうではなかった。彼は重要なこと、また自分の救霊に関してさらに十一カ条の質問をしたためた。そして彼はそれらを簡単明瞭に書き終わると、それをロレンソ修道士に渡し、「この私の質問を解いてくれれば、私はキリシタンになります」と言った。7
山田ショウ左衛門は、ロレンソ修道士との問答の後、キリストを信じるに至ります。「人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう」というみことばが実現した例です。まだ聖書の光によって照らされていなかった当時の日本で、真理を手探りで求めていたショウ左衛門は真の神を見出したのです。
幕末・明治時代
幕末・明治時代にも、西洋列強に開国を迫られ、外国の影響を受ける中でキリストを見出した日本人がいました。そのうちの一人が、幕末の会津藩士であり、明治期には京都の近代化と同志社大学の創立に大きく貢献した山本覚馬です。
山本覚馬は、明治維新後、儒教の道徳体系では社会が保てなくなり、道徳的な混乱が起きていることを憂うようになります。そうした中で、明治8年(1875)に米国の宣教医、M・L・ゴードンからキリスト教の教理を中国語で解説した『天道溯原』を贈られます。この書を読み、衝撃を受けた覚馬は、次のように書いています。
私の胸中の疑問が、この本ですっかり氷解した。私は、最初は武芸をもって、次には法律をもって国家のために尽くそうとしたが願いは叶えられなかった。この本を読んで、人間の心を改善するためには、この宗教によるべきだとわかった。8
江戸時代の道徳、規範となっていた儒教が社会の変化に対応できなくなった時代に、覚馬は聖書の福音に触れて受洗し、クリスチャンとなったのです。これは、ある国、ある時代の文化が人を神に導く役割を果たす一例だと言えます。
もう一人、幕末・明治時代にキリストを見出した人物として紹介したいのは、勝海舟です。幕末に幕府の重臣として活躍し、西郷隆盛との会談で江戸の無血開城を実現した人物です。
勝海舟は、幕府が開いた長崎海軍伝習所で、オランダ人教官のカッテンディーケを通してキリスト教に触れています。この当時はまだキリスト教の禁令が有効だった時代でした。
この勝海舟(勝安房の守とも呼ばれる)が生涯の最後にキリストを信じたことは、米国人エドワード・クラークが次のように証言しています。
数年前のことだが、ジョージ・ニーダム師が、日本に伝道旅行に来るというので、来日したら、ぜひ、勝安房に会いに行ってほしいと手紙を出した。彼は、東京に着くや、日本人の牧師を通訳として、すぐに勝氏に会いに行ったという。勝安房は私からの招待状を読み、信仰深い訪問者二人を、丁寧に迎え入れた。一時間か、それ以上、勝氏は、ニーダム師が語る福音の真理に耳を傾けた。対談は、聖書に出てくるピリポとエジプトの宦官の会話のように、短くはあったが、たいへん印象深いものだった。
ニーダム師は終わりに、少し躊躇しながら、勝氏に、ひざまずいて祈りたいかどうか尋ねた。勝氏は、即座に同意し、祈りの言葉は、日本人牧師により、一行ずつ、日本語に訳された。
祈りを終え、彼らが立ち上がると、勝氏は、涙に濡れた目をして立っていた。そして、ニーダム師の手を握りしめ、“人生で一番すばらしい恵みの時でした“と低い声で感謝を表した。
日本人はめったに感情を見せない。ここにいる人物は、刺客となり得る者たちに臆せず立ち向かってきた。これが、キリスト教の説教で、心を打ち砕かれたのだ。ひとたび、真理を知ると、それは、神の力がなす業であり、人々を救いへと導く。9
勝海舟の伝記を読むと、明治以後に困窮していた旧幕臣のために奔走したり、米国の宣教師や日本人初の宣教師となった新島襄(同志社大学創設者)と交流を持ったり、真理を手探りで求めていた人であったように思えます。こうした人々の証は、使徒17:27の「もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう」というみことばが真実であることを裏付けています。
神は、与えられている啓示に応答する人に、さらなる啓示を与えられます。自然界の一般啓示に応答して真理を探し求める人に、特別啓示である聖書と福音のことばを運ばれるのです。私たちクリスチャンの役割は、こうした手探りで神を探し求めている人に福音を伝える器となることです。
> まとめまとめ
パウロは、使徒17:26~27で次のことを語っています。
- 一人の人(アダム)からすべての人が出てきた。
- すべての民族は神が造られたものである。
- すべての国は神が造られたものである。
- さまざまな国や民族に人々を散らすことは、神の方法だった。
- 人は、それぞれの文化の中で、神を求めるように召されている。
- 神はすべての人の近くにいてくださり、神を求める者にはご自分を啓示してくださる。
ほとんどの日本人は、真理と出会うまで多神教メガネをかけて生きています。この多神教メガネのために、一神教であるキリスト教を拒み、闇の中を歩いています。この多神教メガネを外すには、上記のような聖書的世界観を知ることが重要になります。
> 参考文献参考文献
- Arnold G. Fruchtenbaum, Ariel’s Bible Commentary: The Book of Acts (Ariel Ministries, 2020)
- Thomas L. Constable, “Notes on Acts 2024 Edition”
- Don Richardson, Eternity in Their Hearts (Ventura, California: Venture Books, Revised edition, 1984)
- Got Questions, “What is a kinsman redeemer?“
- Clarence L. Haynes Jr., “The Beautiful Truth of How Christ Is Our Kinsman-Redeemer“
- Jack M. Shultz, “Anthropological Considerations of Acts 17” (Lutheran Society of Missionlogy)
> 脚注脚注
アテネ人のような神話は、日本の古事記にも見られます。古事記では、人は草から萌え出たと示唆する箇所があります。詳しくは「#4 人は「草」である — 三浦佑之さんが読む『古事記』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】」(NHK出版デジタルマガジン)をご覧ください。 ↩
United States Commission on International Religious Freedom, “Factsheet: Overview of Refugees Fleeing Religious Persecution Globally,” May 2022 ↩
“We estimate that about one 1 out of every 3 Muslims that comes to faith in Christ has had a dream or a vision of Jesus.” ー Tom Doyle and Allie Beth Stuckey, “Divine encounters: How Muslims seeing Jesus in their dreams is changing everything” (Blaze media) ↩
同上 ↩
ルイス・フロイス著(松田毅一、川崎桃太訳)『完訳フロイス日本史① 将軍義輝の最期および自由都市堺』(中央公論、2000年)、p.95 ↩
ルイス・フロイス著(松田毅一、川崎桃太訳)『完訳フロイス日本史① 将軍義輝の最期および自由都市堺』(中央公論、2000年)、p.96~98 ↩
福本武久「山本覚馬の殖産興業と人づくり~京都を近代化した会津人の思い」(PHP Online) ↩
守部喜雅『勝海舟 最期の告白:聖書を読んだサムライたち』(フォレストブックス、2011年)p. 104~105 ↩

